教育

2019/07/06

奨学金はどうあるべきか

 山本太郎氏の立ち上げた政治団体「れいわ新選組」は、奨学金徳政令による奨学金チャラを政策の一つとして掲げている。大学あるいは大学院卒業と同時に数百万円、多い人では一千万円近くもの多額の借金を抱えてしまうこと自体が異常と言えるし、様々な事情で返済ができない人も続出しているようだ。以下はこの問題についての私のツイート。

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「れいわ」の政策の一つに「奨学金チャラ」というのがあるが、あれは賛同できない。もちろん大学生が何百万もの借金を抱えたり、低所得の家庭の子供が大学を諦めなければならないという現実は改善しなければならないのだが、「奨学金チャラ」では日本の抱える高等教育の問題は何も解決しない。

大学進学を希望する若者の中には自分が関心を持っている分野をより深く学びたいとか研究職に就きたいという人もいるだろう。しかし、就職のために大卒の学歴を欲しいという人や、大学に行くことで就職を先送りしたいという人も少なくない。要は、学問が二の次になってしまっているのが現状だ。

学費や生活費のためにバイトに明け暮れる学生も少なくないし、就職しても学んだ知識を仕事に生かすことがない人も多い。就職のために高等教育を受けながら、その知識を仕事に役立てられないのでは本末転倒だろう。大学で学ぶことの目的や意義などもはやどこかに行ってしまっている場合が多い。

教育費が原則無料の北欧はどうかというと、大学進学率は50%ほどでそれほど高くはない。大学での勉強はハードで、強い目的意識や動機、結果を出す力が必要になるという。税金で教育費を賄うということはしっかりした人材教育をするということだ。https://www.adecco.co.jp/vistas/adeccos_eye/34/index03.html

日本でも教育費を無料にできればそれに越したことはないが、そのためには北欧のような考え方がどうしても必要だろう。「とりあえず大学」「就職の先送りで大学院」などという状態をそのままにして教育費を無料にしたり奨学金を無料にしたら、とんでもない費用が必要になるし人材育成にも繋がらない。

教育費を無料にするのなら、まずは大学のあり方を見直す必要がある。また中学や高校から就職や進学について学ぶ場を設け、自分に合った道を選択するような教育も必要だろう。社会に出てから必要に応じて学べるようにすることも大事だ。学びたいという意欲がなければ大学で学ぶ意味はほとんどない。

また、国立大学の独立行政法人化も誤りだったとしか思えない。これも元にもどす必要があるだろう。大卒を優遇する企業の求人も見直す必要がある。奨学金の返済で苦しんでいる若者に援助の手を差しのべることは否定しないが、一気に「奨学金チャラ」は拙速というほかない。

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このツイートに対して以下のような返信があった。

最後まで拝読いたしました。松田様の仰る高等教育の問題はその通りだと思います。

ですが、「奨学金チャラ」政策は、松田様がツリーで説明されている高等教育の問題を解決することよりも、今奨学金返済で苦しんでいる人を助けることを第一の狙いとしているのではないでしょうか。

これに対する私の返信は以下。

私も奨学金返済で苦しんでいる人を援助すること自体は否定しませんが、ますは奨学金制度の見直しをすべきではないでしょうか。以前のように無利子にする、返済困難な人には十分な猶予を与える、一定の条件で返済を免除する、貸与の際に返済についての十分な説明をする、高額な貸与を規制するなど。

私も奨学金を借りましたが、当時は無利子で額も決まっていて少額だったので返済も無理はありませんでした。一気にチャラとなると、これから奨学金を借りようと思っている人たちはどういう扱いをするつもりなのでしょう。まさか返済不要の奨学金を希望者全員に支給するということにもならないでしょう。

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 学費や奨学金の無償化は莫大な税金を使うことになる。したがって学歴とか就職の先送りのために「とりあえず大学に進学」というような人の学費や奨学金まで国が負担することにはならないと思う。とは言うものの、できれば高等教育も無償が望ましいので、意識と制度の両方を少しずつ変えていく必要があると思う。

2016/03/05

何度でも再読したいアドラー心理学の書「幸せになる勇気」

 「嫌われる勇気」(岸見一郎・古賀史健著 ダイアモンド社)の続編である「幸せになる勇気」が発売されたのでさっそく購入した。前編の終わりで青年は哲人の説明に納得し、アドラー心理学を受け入れる。そしてアドラーの教えを実行しようと教師になるのだが、ほめもぜず叱りもしない手法を実践しても生徒は荒れるばかり。結局、青年はアドラー心理学など机上の空論にすぎないと息巻いて哲人を論破しようと再訪する。そこでの青年と哲人の対話がこの後編の物語だ。この展開からすでに読者は引き込まれる。

 前編と同様、哲人に真正面から突っ込んでいく青年の大げさな発言にちょっと吹き出しながらも、とても面白く読了した。対談形式でアドラー心理学を説明するというこの2冊の本は、古賀さんの「読ませる」文章が読者を引きつけずにいられない。彼の文才なのだろう。しかし、もちろんそれだけではない。本書を読み進めていくうちに、哲人の語るアドラー心理学は実に奥が深いことが見えてくる。タイトルにある「幸せになる勇気」の結論は実にシンプルで、決断さえすれば誰もが実行できる。ただし、その決断そのものが困難であることも思い知らされることになる。

 一般に続編が出される本では前編より後編の方が魅力に欠けるという印象が私にはあるのだが、本書に関してはどちらも優れたアドラー心理学の解説書だ。前編がアドラー心理学の基本的な部分を分かりやすく解説しているのに対し、後編はより深く具体的に掘り下げていく。そして後編にこそ幸せになるための生き方が明確に示されているといってもいいだろう。また、前編の「嫌われる勇気」というタイトルは、他者に嫌われることを極端に気にしている人、すなわち本来ならこの本を必要としている人が手にとることを躊躇させる響きがあるが、「幸せになる勇気」にはそういう抵抗がないのもいい。「嫌われる勇気」を手にとる勇気がなかった人も「幸せになる勇気」なら抵抗がなく手にとれるだろうし、本書を読み通すことができるなら前編を読みたくなるかもしれない。

 さて、本書のはじめのほうにカウンセリングでつかう三角柱のことが出てくる。三角柱の一面には「悪いのはあの人」と書かれ、もう一つの面には「かわいそうなわたし」と書かれているのだが、誰かと話しをしたり相談ごとを持ちかけるときにこの二つしか語らない人が多いという。

 そう言われてみればたしかにそういう人は多い。たとえばツイッターのタイムラインを見ていてもそうだ。他人の批判、批評、悪口ばかり言っている人は「悪いのはあの人」の話しをしているのであり、自分のことで愚痴をこぼしたり自分は被害者であると主張するひとは「かわいそうなわたし」の話しをしているのだ。

 では、三角柱の残る一面には何と書いてあるのか。そこに書かれているのは「これからどうするか」である。そして「悪いのはあの人」の話しや「かわいそうなわたし」の話しをしていても自分の抱えている問題は何も解決しないと哲人は言う。たしかにその通りだ。自分の抱えている問題を解決するためには「これからどうするか」を考えるしかない。ところが多くのカウンセリングにおいてクライアント(相談者)がカウンセラーに話そうとするのは「悪いのはあの人」と「かわいそうなわたし」なのだという。ここがアドラー心理学に基づくカウンセリングとそうではないカウンセリングの大きな違いだろう。

 もちろんカウンセリングだけではなく、これは私たちの日常生活における会話や考え方においてもきわめて重要なことだ。気に入らない人の悪口を言ったり、政治に対する不満をぶちまけていてもそれだけでは何も解決しない。他者の意見や政治などに関し自分の考えを述べることは必要だと思うが、それだけで問題が解決するわけではない。問題解決のためにはこれからどうしたらいいかを考え行動するしかない。

 教師になって、アドラーの教えを実践しようとした青年は、生徒をほめもせず叱りもしなかった。その結果、教室は荒れ、青年はアドラーの教えが間違いであると考えて叱ったりほめたりする方針に転換した。これに対し、哲人は「あなたは生徒たちと言葉でコミュニケーションすることを煩わしく感じ、手っ取り早く屈服させようとして、叱っている。怒りを武器に、罵倒という名の銃を構え、権威の刃を突きつけて。それは教育者として未熟な、また愚かな態度なのです」(114ページ)と喝破する。

 なぜ怒ったり叱ったりしてはいけないのか。哲人はこう説明する。

 叱責を含む「暴力」は、人間としての未熟さを露呈するコミュニケーションである。このことは、子どもたちも十分に理解しています。叱責を受けたとき、暴力的行為への恐怖とは別に、「この人は未熟な人間なのだ」という洞察が無意識のうちに働きます。
 これは大人たちが思っている以上に大きな問題です。あなたは未熟な人間を「尊敬」することができますか? あるいは暴力的に威嚇してくる相手から、「尊敬」されていることを実感できますか? 怒りや暴力を伴うコミュニケーションには、尊敬が存在しない。それどころか軽蔑を招く。叱責が本質的な改善につながらないことは、自明の理なのです。ここからアドラーは、「怒りとは、人と人を引き離す感情である」と語っています。(116ページ)

 誰もが叱られるという経験を持っていると思うが、叱責されたときの心理を実に的確に説明している。私も小学生のとき率直に疑問に思ったことを口にしたことが担任の教師の怒りを買ったようで、授業中に晒し物のように叱責されたことがあるのだが、それ以来この教師には嫌悪感しか抱かなかった。こういう記憶は決して忘れることができないのだが、あのときの頭ごなしの教師の叱責は私にとって侮辱であり屈辱以外の何物でもなかった。その教師は、勉強ができない児童への罰も平気で行った。別の教師だが、嫌いな給食であっても半分は食べないと教室から出さないという教師がいて、吐きそうな思いをして無理矢理食べされられた。これも罰であり強制である。叱責や罰が信頼関係を崩壊させるのは間違いない。

 哲人は暴力についてこんなことも言っている。「暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段なのです。これは道徳的に許されないという以前に、人間としてあまりに未熟な行為だと言わざるをえません」 ネットに溢れる罵詈雑言、誹謗中傷、侮辱、嘲笑、個人情報晒しなどという攻撃は、言葉によるコミュニケーションでは勝ち目がないと思った人が相手を屈服させるための暴力でしかない。しかし、このような幼稚な暴力をむき出しにする人が何と多いことか・・・。

 もう一つの褒賞について、哲人は次のように説明する。

 子どもたちを競争原理のなかに置き、他者と競うことに駆り立てたとき、なにが起こると思いますか? ・・・・・・競争相手とは、すなわち「敵」です。ほどなく子どもたちは、「他者はすべて敵なのだ」「人々はわたしを陥れようと機会を窺う、油断ならない存在なのだ」というライフスタイルを身につけていくでしょう。(137ページ)

 こちらの記事にも書いたが、娘の通っていた小学校のある教師はまさに賞罰教育を方針としていた。その教師は地方の小規模校での勤務を希望し教頭や校長への昇進も目指さなかった。一部の児童や親の間では「名物教師」として慕われていたらしい。私はこうした噂から当初は子どもたちの主体性を重んじる教師なのだろうとばかり思った。しかし、実際に目の当たりにした教育方針は私には理解しがたいものだった。

 その一つが子ども達の絵画、作文、詩、書道などの作品をことあるごとにコンクールに応募しては入賞を目指すというやり方だった。数打ちゃ当たる、とばかり手当たり次第に応募していたようだった。入賞すれば自信がついてやる気が起きるというのだ。やる気を起こすことが目的?! しかも子どもたちが自発的に応募するわけではない。なんと不純な目的だろう・・・私は直感でおかしいと思った。

 もう一つは、体育の競技でタイムを計って順位づけするという手法。授業中に競技大会で良い成績をとるための訓練をしていたのだ。しかも学内の競技会では上位の子にトロフィーを渡す。1位が最も大きなトロフィーで、順位が下がるに従って小さくなる。まさに褒賞と競争の教育が信念だった。さらに、無謀とも思える学校行事の企画があったのだが、そうした行事はどうみても児童の立場にたって考えたというのではなく教師の思いや野望による企画にしか見えなかった。 そうした行事の目的は「達成感を得ること」だと説明されたが、これもコンクールへの応募と同じ匂いを感じた。私は保護者会やPTAで何度となく意見を述べたが、教師からは反論もしくはスルーされたし、一部の親からは敵対視された。競争教育に抵抗がない親が多いことにも驚いた。

 小さな子どもにとって学校という閉鎖空間での支配的な教師の存在は絶大である。そのような教師にたてついたところで罰を与えられるだけだろう。かといって教師との関係をうまく築くことができなければ居場所を失うに等しく、不満を抱いても我慢して言いなりになるほかない。教師のやり方がおかしいと感じた子どもは葛藤を抱え、教師も学校も嫌いになるに違いない。もちろん信頼関係も結べない。思えば、私の子ども時代もそうだった。

 子どもがライフスタイルを決定すると言われる小学校の低学年の時期にこのような競争教育にさらされたなら、子どもたちは簡単に「他者は敵」というライフスタイルを身につけてしまうだろう。実際、何事につけても「勝った!」「負けた!」と競争で考える子どもたちが複数いた。哲人は、子ども達が最初に「交友」を学び、共同体感覚を掘り起こしていく場所は学校だと指摘するが、その学校で賞罰教育や競争教育が行われていたなら、共同体感覚が育つとは思えない。

 この学校に限らず、子ども達に賞罰を与え、競争に追い込んでいる学校は普通だと思う。そう思うとき、日本の子ども達の置かれた環境は実に苛酷だと思わざるを得ない。いじめがいつまでもなくならないのも、こうした環境と無関係ではないだろう。

 本書のクライマックスは、何といっても最後に語られる「愛」についてだ。そして、この本のテーマでもある「幸せになる勇気」もそこに集約される。ここで自立の話しが出てくるのだが、自立は自己中心性からの脱却だという主張はもっともだ。そして哲人は自己中心性からの脱却に必要なのが愛だと説く。さらに愛が共同体感覚にたどりつき、ひいては人類全体にまで影響を及ぼすというのがアドラーの考え方だ。クライマックスである愛についての具体的説明は本書に譲るが、一つだけ気になったことを書きとめておきたい。

 哲人はアドラーの語る愛について「彼が一貫して説き続けたのは能動的な愛の技術、すなわち『他者を愛する技術』だったのです」と言う(231ページ)。私はこの「愛の技術」という言葉にはどうしても違和感を覚えてしまう。

 私がこれまで知り合った人たちの中には、ごく少数ではあるがアドラー心理学を学んでもいないのにアドラーの思想を自然に実践しているように思える人もいる。マザー・テレサなども恐らくそうなのだろう。彼ら、彼女らはアドラーのように他者の心理を探り研究した末にそういう生き方を選択してきたとは思えないし、愛する技術を習得した結果他者を愛せるようになったということでもたぶんない。

 それについては私はこう思う。つまり、無意識にアドラー心理学を実践している人たちはおそらく自分の良心に誠実に行動しているのではないかと。自分がやられたら嫌だと思うことは他人にはやってはならないということは子どもでも理解できるし、ごく自然な心理だろう。こういう感覚が良心だと私は思う。ところがこれを頭では理解していても実践しようとせず、仕返しを企てる人がいる。良心よりも利己性が先に立ち、報復によって相手を征服しようとするのだ。子どもの頃のままの自己中で幼稚なライフスタイルから抜け出せないのだろう。しかし、このような人の中にも間違いなく良心はあると私は考える。

 だから、「相手を屈服させたい」と思ってしまう人は、いまいちど自分の良心に問いかけ良心に誠実に生きようと決断することでアドラーの教えを実践できるのではなかろうか。「愛は技術」と考えるより、良心を尊重できるか否かという心の問題だと捉えるほうが理解しやすいように思う。もちろん、長年つかいつづけた利己的なライフスタイルを捨てて良心に問いかけるという決断をすることが困難であることは言うまでもないが。

 私は日頃、いわゆるベストセラーになる本はあまり読まない。新聞に大きな広告が出ている本などは、それだけで買う気が失せることもしばしばだ。しかし、「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」は一人でも多くの人が手に取り、何度でも読み返して理解する努力をし、まわりの人に広めてほしいと思う本である。なぜなら、アドラー心理学は人間のもっとも根源的なことを問うていると共に、平和の実現にもつながると思うからだ。アドラーは、「いかにすれば戦争を食い止められるか」を考えた人なのだという。アドラー心理学を理解し広めることは民主的で平和な社会の構築へとつながるにちがいない。

【関連記事】
アドラー心理学を凝縮した「嫌われる勇気」-その1 
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アドラー心理学をめぐる論争とヒューマン・ギルドへの疑問

2014/12/11

誰のための部活なのか?

 「異常としか思えない日本の中学、高校の部活動」という記事(ココログ版)にYYさんからコメントが寄せられた。以下がそのコメント。

初コメント失礼いたします。

私自身とても熱の入った文化部に入っていました。中学2年の頃に顧問が変わり、ただ楽しくやっていた部活の方針は180度変わりました。新しい顧問は全国大会にも何度か出場経験のある、県内でも顔の知れた先生でした。
はじめは部員と顧問お互いに慣れるため、それまでと変わらなかったのですが、だんだんと練習量が増えていきました。やはりその過程では何度も部員と顧問、親と顧問がぶつかることがあり、退部する子もいました。その中でも、顧問の先生は本物の愛情を持ったかたで情熱があるからこそ凄く厳しいこともあったのですが、確かに心から慕い付いていく部員もいました。私もその一人でした。3年になってからは(顧問2年目)練習は基本日曜休みでしたが部員の方から「練習を入れてほしい」「他校の練習見学をしたい」「講習会に行こう」というようになっていました。休みは月に一度もないほどで朝練昼練もありました。もちろん実績もできました。結局引退までやりきった3年生は入部したときの半分以下でした。ただ、最後までやりきった仲間は心から信頼でき今でも繋がっています。
とても厳しかった顧問の先生には、当時の私は死にたいほど追い詰められたこともありましたが、だからこそ見えたこともありましたし、今私自身が生きているのは顧問の先生と出会ったからだと言えるほどです。

長々と私の話をしてしまい申し訳ありません。私が言いたいのは、鬼のように厳しくても良い教師はいるということです。もちろんおっしゃるように最低な教師がいるのも事実です。
ですが部活は同じ志を持つものが集まり上へ上へと目指す場であると思います。厳しいようですが、ついていけない、自分には無理、嫌だ!と感じれば退部の道があります。何かしらの部活に入らなければならない学校は大抵てい甘い部活があります。
体罰はあってはならないことですが、それが原因で自殺したりしてしまうのは家庭環境や相談できる大人が周りにいないことが問題です。

今の学校教育を激しく批判するかたもいますが、基本的に部活顧問はボランティアです。やらされることもあります。それでも情熱を持って22:00、23:00までサービス残業し、朝練のため7:00には学校に出勤し、とやっています。そういった教師と最低な教師をひとまとめにしてめったうちに批判するのはおかしいです。本物の現状をもっと知ろうとしてください。

 YYさんは「顧問の先生は本物の愛情を持ったかたで情熱があるからこそ凄く厳しいこともあった」と、顧問の厳しい長時間の指導を本物の愛情があり情熱があったと高く評価している。私は正直いって、この発言にとても違和感を覚えた。

 文化部で全国大会もあるということから、吹奏楽とか合唱などの音楽系の部活ではないかと思われる。長時間の厳しい練習はたしかにレベルの向上につながり成績は上がるだろう。厳しい特訓に耐えた仲間に連帯意識が生じるのも分かる。しかし、教師がそこまで特訓をする目的は何なのだろう?

 YYさんの文章に以下の記述がある。
・新しい顧問は全国大会にも何度か出場経験のある、県内でも顔の知れた先生でした。
・何度も部員と顧問、親と顧問がぶつかることがあり、退部する子もいました。
・結局引退までやりきった3年生は入部したときの半分以下でした。
・とても厳しかった顧問の先生には、当時の私は死にたいほど追い詰められたこともありました

 これらの文章から、この顧問の目的が私の頭に浮かんできた。それは顧問として部活を率い全国大会で良い成績をおさめたいという功名心である。良い成績をとれば顧問の評判や名声につながる。その目的を果たすために練習量を増やせば、部員や親ともぶつかることになる。そして、最終的にはそのやり方に納得できない部員が辞めていく・・・。

 ここから見えてくる光景は、顧問のための部活動だ。全国大会で良い成績をおさめたいと野心を燃やす顧問が、自分の目的に従うように部員を誘導していく姿としか私には映らない。

 部活動というのは基本的には生徒が自主的に取り組む課外活動ではなかったのか。一時は「死にたい」と思うほどに生徒を追い詰めたこの教師に、生徒の主体性を重んじ民主的な部活動を支援するという姿勢が果たしてあったのだろうか?

 学校においては、どうしても教師と生徒は支配従属関係に置かれてしまう。学校という閉鎖空間で立場が上の者が下の者をマインドコントロールするのはたやすい。多くの生徒は教師に評価されたいと思うし期待に応えようとする。支配的な教師が、生徒を自分の目的のために誘導することはそれほど難しくはない。

 生徒は教師になかなか反論ができないし、たとえ反論しても言葉巧みに生徒のせいにしてしまうのだ。「やる気がない」「努力が足りない」「頑張れないのはわがまま」・・・と。マインドコントロールによって生徒はあたかも自分の意思で全国大会での活躍や猛練習を選択したかのように思わされてしまったとしても何も不思議ではない。

 生徒が辞めていったのは、厳しい練習に耐えられなかったためだけだろうか? 休日もろくにない厳しい練習や大会への出場は、ほんとうに生徒が望んでいた部活なのだろうか? 生徒が主体であるべき部活で、なぜ半数以上もの生徒が辞めなければならなかったのだろう? 私には問題は顧問の姿勢にある、としか思えない。

 いわゆるモラハラ(モラルハラスメント)と同じことが部活では容易に起き得る。モラハラをする人間は実に巧妙で、どうしたら相手が自分に従うのか分かっている。たとえば褒めたり叱ったり、とアメとムチを使い分けるのだ。相手を支配する方法は、おそらく自身の経験から自然に身につけるのだろう。もし支配的なタイプの教師が部活の顧問になれば、学校という教育現場でとんでもないモラハラが生じかねない。そして問題なのは、「支配されている」ということに被害者はなかなか気づかないことだ。なぜなら良い成績が取れないのは自分の努力が足りないからだと思って(思わされて)しまうからだ。

 YYさんは厳しい練習は顧問の愛情であり情熱だというが、私にはそうは思えない。本当に愛情があるのなら、何よりも生徒の自主性を尊重するのではないか? 大会に出場するか否かも、練習時間をどのようにするかも。部活動は生徒のために存在するのであり顧問のために存在するのではないのだから。顧問というのはあくまでも生徒の自主的活動のアドバイザーであり脇役に徹すべきだ。

 文化部においても運動部においても、それは変わらない。顧問は自分の希望や目標を生徒に押し付けて支配してはならない。生徒も顧問の期待に応える必要などないし、支配されてはいけない。私はそう思う。

 これは家庭でも同じだ。「あなたのため」とあたかも愛情であるかのような言い方をして子どもに塾や習い事を半ば強制し、良い大学、良い会社へと追い立てる親がいる。しかし本当は「あなたのため」ではなく「自分自身のため」に夢の押しつけをしているのだ。本当の愛情とは子どもが自分で考え選択し行動するように見守り、必要があれば手助けすることではなかろうか。

 競争だらけの社会で、せめて部活動くらいは競争から解き放たれた楽しい時間であってほしいと思う。何もコンクールや大会で競争することだけが活動ではない。音楽系の部活であれば施設や被災地などを慰問して演奏会をするのもよし、地域の学校が集まって優劣を問わない演奏会をするのもよし。生徒が他者を感動させるような演奏をしたいと思えば、なにも顧問が厳しい指導をしなくても自ら練習に励むだろう。

 運動系の部活にしても同じで、部活は選手を育成する場ではない。試合をすれば必ず勝者と敗者が出る。ゲームには敗者も必ずいるのだ。プロ選手のように生活がかかっているわけではないし、力を出せれば勝っても負けてもいいではないか。自分たちも観客も楽しめればそれでいいと私は思う。

2014/11/21

アドラー心理学をめぐる論争とヒューマン・ギルドへの疑問

 今年は、昨年末に出版された岸見一郎さんと古賀史健さんによる「嫌われる勇気」がベストセラーになり、アドラー心理学への関心が一気に高まった。かくいう私も「嫌われる勇気」でアドラー心理学のことを知った一人だ。そして、「空気を読む」という言葉に代表されるように、協調性ばかりを意識し、他者の視線を気にする人が溢れる日本で、アドラー心理学が広まっていくことは大いに歓迎すべきことと思う。

 ところで、「嫌われる勇気」に端を発したアドラーブームで、今年に入ってからアドラー心理学に関わる本が相次いで出版されている。これだけ次々にアドラー関連本が出版されると、なんだか便乗出版のような雰囲気も否めないし、興味を持っていてもどの本がアドラー心理学を学ぶのに適しているのかを見極めることも難しくなる。

 そんな中で、日本のアドラー心理学をめぐり東西での論争があることを知った。東西とはもちろん関東と関西である。学会などの内部で何らかの対立や論争があるのは珍しいことではないが、まさかアドラー心理学をめぐってもこのような論争があるとは夢にも思っていなかった。

 学術学会の内部の論争に関して、学会と関わりのない人がとやかく言うことではないだろう。しかしその論争は、アドラー心理学を広めている人たちの方針や教え方に関わることであり、これからアドラー心理学を学びたいと思っている人には非常に重要なことがらだ。つまり、決して学会内部のことにとどまらない。アドラーブームの今こそ、アドラー心理学に関心を持つ人たちはこの問題を知っておく必要があると思う。

 以下が、日本アドラー心理学会の会誌「アドレリアン」に掲載されたアドラー心理学をめぐる論争が書かれている論文である。

日本のアドラー心理学 (アドレリアン第14巻第1号、2000年2月)

日本のアドラー心理学(2) (アドレリアン第16巻第3号、2003年2月)

 これらは2000年と2003年に発表されている論文なので、すでに10年以上前の議論である。また、この論文で批判されている者も反論があるだろうから、この論文だけで物事を判断してしまうのは危険だとは思う。しかし、それでも以下のことを指摘せずにはいられない。

 つまり、アドレリアン第14号第1号の方の論文で指摘されている、東京の「ヒューマン・ギルド」に関することである。この論文の中で私が特に衝撃を受けたのは以下の部分だ。

「ヒューマン・ギルドの人々はアドラー心理学に関する多くの本を書いています。それらの本には、ただ子どもや生徒を操作する方法を書いてあるだけです。」

「日本のアドレリアンの大部分は彼らが間違っていることを知っていますが、彼らの本を読んだだけの人や彼らの講義を聞いただけの人は、彼らを信じるかもしれませんし、ほんとうのアドラー心理学を学んだと誤解するかもしれません。子どもを罰的な技法で操作するやり方をアドラー心理学の名前で教える人たちが、思いつくかぎりのあらゆるトリックを使って影響力を増やそうとしています。」

「ヒューマン・ギルドが教えることは子どもが親の期待にそって行動するよう強制したい人たち向けにデザインされていますので、ある人たちはそれを熱狂的に受け入れます。しかし、多くの人々は親子関係がしばしば悪くなってしまうので、勇気をくじかれてしまいます。彼らはアドラー心理学は効果がないのだと誤解してしまいます。われわれはヒューマン・ギルドが教えているのは、子どもを対等の仲間として尊敬し信頼するアドラー心理学ではないのだと、人々に告げていかなければなりません。」

 この論文によればヒューマン・ギルドのアドラー心理学は正統なアドラー心理学ではないということになる。アドラー心理学に関する本でありながら「ただ子どもや生徒を操作する方法を書いてあるだけ」という本があるのなら、びっくり仰天だ。またヒューマンギルドで教えているアドラー心理学が「子どもが親の期待にそって行動するよう強制したい人たち向けにデザインされて」いるのが事実であれば、それはアドラーの教えとは真逆ではないか。ヒューマン・ギルドの指導者の中に、アドラー心理学を私生活で実践しようとしない人がいるのであれば、これも驚くべきことだ。学会誌で論争になったり批判が起きるのも当然だろう。そしてこうした対立を経て、1998年にヒューマンギルドの坂本さんと岩井さんは日本アドラー心理学会を退会していたのだ。

 今から15年も前の論争ではあるが、二つの団体は今も存続しており、この論文の著者の一人である野田俊作さんは「アドラーギルド」を主宰している。一方、論文で批判の対象となっている岩井俊憲さんは、現在ヒューマン・ギルドの代表である。そして、岩井さんは、今年のアドラーブームに便乗するかのように次々とアドラー心理学の本を出している。

 実は、アドラー心理学について知りたい、あるいは学びたいと思い「アドラー心理学」で検索をすると、上記の2つの団体のうちヒューマンギルドの方がずっと上位にでてくる。一般の人は、大阪のアドラーギルドと、東京のヒューマン・ギルドが基本的なとことで違いがあるなどとは考えもしないだろう。アドラー心理学を学びたいと思う人たちが、上記の論争のことを何も知らず目立つ方に誘導されているとしたなら、由々しきことではないか。

 私はアドラーギルドの講座もヒューマン・ギルドの講座も受けたことはないので、この論文で指摘されていることについて確たることは言えないし、ヒューマン・ギルドの手法が間違っているとか不適切だと言える立場にもない。どちらの考え方や手法を支持するかは、個人個人が判断することだ。しかし、この論文の最後に書かれている「日本でなにが起こっているか知っていただき、この危機を乗り切るために助言をいただくためにこの発表をしました。」という文章からも、日本アドラー心理学会の人たちがヒューマン・ギルドのあり方に対して疑問を抱き、危機的に捉えていることは間違いないだろう。

 なお、この件に関しては熊本の本郷博央さんの以下のような意見もある。

アドラー以降のアドラー心理学 日本のアドラー心理学(勇気づけのページ)

 ここで本郷さんは以下の主張をしている、

 もしも、いくつかあるグループの内の一つが、「他のグループが学習しているアドラー心理学は正しくない。」とか「他人を操作するためにアドラー心理学を 使っている。」とか「自分たちのグループだけが、アドラー心理学を正しく伝承している。」などと主張していたら(そんなことはないと思いますが)、どうで しょう。

 ある程度アドラー心理 学を学ばれた方ならば分かると思いますが、他のグループを否定すること自体がアドラー心理学の基本原則を踏み外しているということが分かりますね。(だっ て、「不適切な行動には注目しない」で「理性的に話し合う」のがアドラー心理学のエッセンスですから。)

 しかし、私はこの主張には賛同できない。時代の流れとともにアドラー心理学も後継者に受け継がれ発展した部分もあるだろうし、いろいろなグループがあるということも事実だろう。しかし、指導者がアドラー心理学を私生活で実践していないのであれば指導者としての資質を疑うし、アドラー心理学の根幹をなす考え方(例えば他者を支配しないということ)と真逆のことを広めているグループがあるのなら、それはもはやアドラー心理学とは言い難いのではなかろうか。本郷さんのこの文章はこの「真正のアドラー心理学か、似て非なるアドラー心理学なのか」という学術論争の核心的部分を曖昧にしている。

 「アドラー心理学」と謳って、実際にはアドラー心理学の基本的な部分で矛盾することを行っているのなら、批判の対象となるのは当然のことだ。アドラー自身が学説の対立からフロイトと袂を分かっていったのと同じように、これは学術論争である。アドラー心理学が他者を批判することに否定的であるということを理由に、他のグループの批判や否定をすべきではないと主張することは、学術的な議論までをも否定することになると思う。

 また、そのような議論や批判を避けていたなら、アドラー心理学に関心を持ち真正(もしくは正統)のアドラー心理学を学びたいと思っている人が、何も知らないまま自分の意図しないグループに参加したり講座を受講してしまうことにもなりかねない。私は学術的な面からの論争や批判はもっと公にすべきではないかと思う。

 アドラーギルドもヒューマン・ギルドも共にアドラー心理学を学ぶ講座などを行っていることもあり、おそらく同じアドラー心理学を広める立場として公の場で相互の批判をすることは慎んでいるのだと思う。互いに批判をしあったらイメージの悪化にもなるし、場合によっては業務妨害にもなりかねない。だからこの問題は重要かつ深刻でありながら、なかなか表にでてこないのだろう。

 しかし、アドラーブームが巻き起こり、書店には何種類ものアドラー心理学の本が平積みされている今だからこそ、日本アドラー心理学会においてこのような論争があったこと、そしてその問題はおそらく今も変わっていないことを私たちは今こそ知る必要があると思う。「今も変わっていない」というのは、以下の平成26年9月20日に発行されたアドラーギルドのアドラーニュースからもうかがい知ることができる。

アドラー心理学基礎講座理論(アドラーギルド)

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2014/10/11

マララさんのノーベル賞受賞と勇気

 昨日ノーベル平和賞に17歳のマララ・ユスフザイさんとカイラシュ・サトヤルティさんが決まったとの報道があった。お二人とも女子教育や子どもの抑圧に対する活動が認められての受賞だ。

 お二人の受賞で、女性であるというだけで教育を受けられなかったり、いまだに学校に行くこともできずに苛酷な労働をさせられている子ども達が世界にはたくさんいるという現実を痛感する。

 マララさんは弱冠11歳でタリバンによる女子教育の抑圧についてブログで告発した。昨年7月の誕生日に国連で行った演説では「銃弾が私たちを黙らせると思うのは間違いだ。1冊の本、1本のペンが世界を変えられる」と主張した。胸のすくような勇気ある発言だ。

 この言葉は、アドラー心理学の根幹をなす「勇気」と「教育の大切さ」に重なる。世界を変えるためには一人ひとりの「勇気」が原動力となるのだろうし、適切な教育があれば子ども達が勇気を持てるようになるに違いない。

 マララさんやサトヤルティさんの活動はもちろん賞賛されるべきすばらしいものだ。しかし、彼女や彼のような人たちが世の中を変えてくれるなどと思ってはいけない。それは単なる依存でしかない。世の中を変えるのは私たち一人ひとりの意思と行動力であり、マララさんもサトヤルティさんも、現状を変えようと努力している勇気ある人の一人だ。

 翻って日本はどうなのだろう? 今の時代、学校に行きたくても行けない、あるいは小さなうちから働かなければならないという子どもは皆無に近いだろう。というより、いやいや学校に通っている子どもは少なくないに違いない。「学校に行きたくても行けない」どころか、「学校にいく権利が保障されているが行きたくない」という状況に陥っている。

 学校では教室という閉鎖空間で同調圧力に締め付けられながら過ごさねばならない。自由にふるまうことなどほとんど許されない世界だ。中学・高校ともなれば受験という競争にさらされる。さらに、部活に拘束されて自由時間もろくにない生活を強いられる。これが日本の学校教育の実態だ。

 しかも、教師は教育行政に縛られ、自由に物も言えない。卒業式で「君が代」や「日の丸」を押しつけられても、勇気をもって抵抗する教師はごく少数でしかない。いじめがあっても見て見ぬふり。これでは勇気が持てる子どもが育つのは困難だ。

 誰でも教育を受ける権利が保障されているのに、その教育現場はまるで自由がない監獄のようではないか。この国で子ども達に勇気を持たせるのは本当に難しいとつくづく思う。せめて、教師はアドラー心理学を学んで欲しい。

 私は見ていないが、「世界の果ての通学路」という映画が話題を呼んだ。

世界の果ての通学路 解説 (映画「世界の果ての通学路」公式サイト)
映画「世界の果ての通学路」予告編(YouTube)

 学校に行きたい子ども達は、大変な苦労をものともせずに危険だらけの通学路を通って学校に行く。2時間も走って学校に通うマサイ族の子どもがいることに驚愕する。このような子ども達にとって、学校は決して監獄のようなところではないはずだ。しかし、よく考えてみれば日本もかつては同じような状態だった。一昔前には、北海道ではヒグマに怯えながら何キロもの道のりを歩いて通学していた子どももいたのだ。

 教育さえ受けられるようになればいいというわけではない。教育が子どもを支配する構造になっていれば、そこに自由や人権はないし、子どもの勇気もそがれるだろう。そんな国に明るい未来があるとは思えない。

 同調圧力に屈することのない勇気を持てるような教育こそ意味がある。しかし、残念ながら日本の教育はそれが決定的に欠けている。もし勇気のある国民が増えたなら政府は国民を騙し支配し続けられなくなるから、そうならないよう教育を利用して子どもを支配しようとしているとしか思えない。マララさんの受賞の報を受け、複雑な気持ちになった。

 日本はどんどんおかしな方向へと進んでいる。平和憲法はなし崩しにされ、日米ガイドラインを改訂し、平時であっても自衛隊が米軍に協力できるようにしようとしている。日本政府に必要なのは、米国に支配されない勇気だ。安倍首相はマララさんの爪の垢を煎じて飲んだほうがよさそうだ。

2014/04/22

PTAを強制するのは憲法違反

 毎日新聞にこんな記事が掲載されている。

 PTA:役員決めは罰ゲーム? やらない人はトイレ掃除も 

 この記事を読んで「うちの学校も同じ・・・」と苦笑した人が多いのではなかろうか。いつの時代からか知らないが、PTAの役員は公平にみんながやるべきだとか、くじ引きで決めるなどというのが当たり前のようになっているらしい。かくいう私も、かなり無理矢理なやり方で役員にされたことがある。

 子どもが小学校に入学し、はじめてPTA婦人部(この学校のPTAには、母親だけを対象とした「婦人部」が設けられていた)の会合に出たとき、さっそく「みんな一度は経験している人ばかりなので、役員をやりませんか」と新人の私に声がかかった。そして、その時は「くじ引き」を言い出した人がおり、私が見事に当たりくじを引いたと記憶している。その強引な決め方にかなり愕然とした。

 その後、児童数の減少とともに「婦人部」はなくなって、男性主体であったPTA本体に一本化されたのだが、そこでも私は長らく副会長を務めた。やりたくて立候補したわけではない。そもそもPTAに入るか否かも基本的には自由だし、断るという選択肢もあった。しかし、あえて断らずに続けたのは、自分の子どもも参加するPTAの行事などに対してきちんと言うべき意見は言っておかねばならないと思ったからだ。

 児童数の少ない地方の学校では、学校とPTAの共催行事が年に数回ある。たとえば運動会やスキー大会。これらは学校、保育所、PTA、町内会の合同行事だ。また、学校とPTAが主催する全校登山や夏のキャンプなどもあった。子どもがこのような行事に参加する機会がある以上、親としては意見を言う権利や責任がある。

 もう一つ理由がある。私の住む地域では、PTA会員は小学校に子どもが通っている家庭に限定していない。小学生のいない家庭も会員になり、会費を集めていた。いわば善意の会員である。そのような善意で集めた会費が含まれているのだから、会費の使い方も慎重を期すべきだ。しかし、ややもすると役員である一部の保護者だけの意向で、親睦との名目で娯楽の要素の強い行事に使われかねない。もちろん親睦を否定するつもりはないが、小規模校ではとかくPTA行事=親睦=飲食となりかねないのだ。保護者が出した会費でそのような行事をするならまだ分かるが、地域の会員の善意の会費を一部の会員の娯楽的行事に使うのは賛成できない。

 そんな理由から、PTAに入会しないという選択はしなかった。そして、保護者の少ない小規模校ということもあり、かなり長期間にわたって副会長をやってきた。PTAを必要だと思うのなら、誰かが役員をやらねばならない。もちろん、子どもが小学校を卒業したらPTAからは退会した。私は自分の子どもが通わない学校のPTA会員になる意思はない。

 子どもが中学校に入ったときも驚いた。入学式のあと、担任から説明があるので保護者は教室に集まるよう言われた。ところがそれを無視して帰ってしまう人がぞろぞろいる。どうしてなのだろうと不思議に思っていたのだが、あとでその理由が分かった。担任の教師の話しのあとにクラスのPTA役員の選出があったのだ。それを知っていて役員をやりたくない親はさっさと帰ってしまったというわけだ。

 この時も、教室には嫌な雰囲気が充満した。もちろん立候補する人は誰もいない。やがて「○○さんを推薦します」という声が上がり、拍手が起こる。「働いている」「親の介護がある」などという理由がない限り、ほとんど有無を言わさずに決められてしまう。私もそのようにして役員に指名され拍手で決められてしまった。

 本来ならまず入学に際してPTAに入るかどうかの確認をしたり規約を配布すべきだが、そういう手続きはもちろんない。子どもが学校に入れば会員になるのが当たり前という意識がある。そして、役員をやったことがない人に白羽の矢がたつのだ。おかしいとしか言いようがない。

 そもそも組織というのは必要性や意義があるから存在している。必要だと思う人が会員になり、役員を選出して運営をするのは当たり前だ。もちろんさまざまな事情で役員ができない人がいるのも事実で、無理に押し付けるものでもない。理由もなく役員になるのが嫌で逃げ回るのなら、はじめから会員にならないという選択肢だってある。役員のなり手のない組織は、存続できないという状況にほかならない。そんな組織ならば、いっそ解散するという方法もあるだろう。

 任意団体である以上、入会にしても役員にしても、強制などというのは憲法違反であり、子どもが学校に入ると同時にPTA会員にしてしまうのは民主主義のルールに反する。高校や大学では学費と一緒にPTA会費を徴収するところもあるが、どうしてそんなことがまかり通っているのだろう。日本人は、まずそのことに気づくべきだ。

2013/01/17

教育と暴力

 昨日、写真家の藤原新也氏の教師による体罰に関する記事が目に止まった。

体罰は犯罪か。 (Shinya talk)

 藤原氏は、中学生のときにテストで堂々とカンニングをして教師からビンタを張られたが、涙ぐんでいた教師の目を見て改心したというエピソードを語っている。そして大阪の桜宮高校の部活での体罰の問題を例に出しながら、教師と生徒の身体接触をすべて悪とすること、体罰が犯罪のように扱われていることに疑問を投げかけている。

 藤原氏の言いたいことはわかる。しかし、この主張にはどうしても違和感を拭えない。

 私は、藤原氏のエピソードを読んだとき、彼にビンタを張った教師はそのことをずっと後悔していたのではないかと感じた。もちろん、教師の行為はやってはいけないことを平然とやっている生徒のことを想ったがゆえ、とっさに平手打ちという行為に出たのだろう。ただし、この教師が藤原氏のことをずっと見守ってきたのも、単に教え子の将来が気になったということだけではなく、自分のとった暴力行為が彼を傷つけたのではないかとずっと気になっていたのではなかろうか。もし、藤原氏が涙ぐんでいた教師の目を見ることなく、その教師の想いを汲むことができなかったのなら、はたして平手で叩くという行為を正当化できただろうか?

 もうひとつ気になったのは、藤原氏の事例と大阪の事例はまったく質が違うということだ。藤原氏の場合はたった一回のビンタであるし、社会規範としてやってはいけないことに対してである。さらに、教師の目には真剣さや悲しみが込められていた。だから彼も教師の体罰を恨むことはなく、むしろ納得できたのではないか。しかし、大阪の事例は体罰が常態化していたようだし、生徒のちょっとしたミスなどに対する見せしめともいえる体罰だ。こういう体罰は精神を荒廃させることがあっても、生徒が心から受け入れられるものではない。

 以下の「独りファシズムVer.0.1」の記事をお読みいただきたい。

http://alisonn003.blog56.fc2.com/blog-entry-324.html 

 このブログ主は、ご自身の学校での体罰の経験を人格破壊、虐待だと言っているが、そこで行われていた懲罰、体罰は凄まじく、到底「指導」などと言えるものではない。「心的外傷は生涯消えることもなく、成人後の精神構造にとてつもない影響を及ぼすのだから体罰より悪質だ」と述べている。

 問題となっている大阪の高校での体罰の詳細は分からないが、何十回も殴るような行為は、虐待でしかないと思う。青年期のこうした体験は、人間不信や社会憎悪にまで発展するというブログ主の主張はもっともだ。「いじめ」がしばしば被害者に心的外傷を発症させるように、理不尽な暴力や叱責、罵倒は精神を破壊する。

 つまり、学校という強制収容所のようなところで行われる暴力の大半は、強い者が弱い者を服従させることが目的なのだ。納得のいかないことで一方的にひどく叱責されたり暴力を振るわれたなら、恐怖におびえたり、憎悪が増して意固地になったり、ひねくれるというのが普通の感覚だ。理不尽なことで、あるいは服従を目的に叱責や体罰を行うのは「指導」や「教育」ではない。

 私の父はどちらかといえば温厚な性格だったが、幼少期に一度だけ父にひどく叱られたことがある。鉄筋のアパートに住んでいたときのことだ。父は外の機械室のような建物で整備らしき仕事をしていた。それを、興味津津で見に行った子どもたち(私を含む、兄や近所の子)に外に並べた液体の入った缶を指さし、「これをひっくり返したら大変だから気をつけるように」と注意をした。しかし、一緒に遊んでいた兄や近所の子どもたちはその言いつけを聞かず、その建物の周りを走りまわった。私もそれにつられて一緒に駆け回った。そして、もっとも年下の私が運悪く、缶を蹴飛ばしてしまったのだ。

 その時の父の剣幕は大変なもので、あれほど怒った父を見たのは後にも先にもあのときだけだ。私だけを捕まえ「あれだけ気をつけろと言ったのに」と言ってこっぴどく怒鳴られた。私が缶をひっくり返したのは事実だから叱られるのはやむを得ない。しかし、私は父の怒りが私だけに向けられたことが最後まで納得できなかった。年上の子どもたちが走り回るのを止めていたなら、私も決して一緒になってはしゃぐことはなかっただろう。私にしてみれば他の子どもも共犯者だった。他の子も少しは叱られるならまだ納得できる。ところが父は私だけを叱りつけたために他の子どもたちは難を逃れ、怒られている私を陰でせせら笑った。何よりもそのことがひどく悔しく惨めだった。

 父も、口では注意したものの、走り回って遊ぶ私たちを制止したり遠くに追いやることまではしなかった。それに烈火のごとく怒らねばならないほど大事なものを、なぜあんな所に置いたのかと反抗心も湧いた。しかし、幼い私は怒る父に自分の感じた理不尽さを告げることはできなかったし、たとえ口にできたとしても「言い訳を言うな」とさらに叱られただろう。

 そんなちっぽけなことを50年以上経った今でも鮮明に覚えているのは、本人にとってはそれなりに心に傷を負った体験が深く脳に刻み込まれたからなのだろう。似たような経験は恐らく誰にでもあるに違いない。人は、自分の気持ちも聞いてもらえずに頭ごなしに叱られたり暴力を受けたなら、相手に憎しみを覚えることがあっても心から反省することはない。心に大きなわだかまりをつくるだけだ。部活で行われている体罰の大半は、恐らく理不尽な暴力に違いないし、藤原氏の受けた体罰とは質が違う。

 藤原氏はご自身の体験から体罰も場合によっては許されるかのような主張をされている。しかし、体罰の肯定を私はどうしても賛同できない。藤原氏は体罰で更生したというが、更生のためにビンタはどうしても必要なことだったのだろうか? たとえ叱責せねばならないような過ちがあったとしても、相手の言い分も聞いて言葉による解決を試みるべきだったのではないかと私は思う。それは体罰だけではなく言葉の暴力でも同じだ。

 たとえ相手の将来を想っての暴力や暴言であっても、その想いが相手に伝わらない一方通行のものであれば心に傷を負わせる。場合によっては強い者から暴力を受けた者が自分より弱い者に対して暴力をふるうというような暴力の連鎖を生みだしかねない。また、暴力をふるった者が相手の痛みを共有できる感性の持ち主なら、そのことをずっと気にやむことになるのではないか。私はどんな理由があっても暴力には賛成できない。

 体罰については、以下も参照していただけたらと思う。

体罰を廃止したスウェーデン30年のあゆみ

2013/01/10

異常としか思えない日本の中学、高校の部活動

 大阪市立桜宮高校で、バスケットボール部の生徒が顧問の教諭から体罰を受けて自殺したという痛ましい事件があった。日本の学校では、未だに体罰が平然と行われている。部活動での体罰は、権力者による指導という名のいじめと言うべき行為だ。

 この事件では、どうも教師による体罰、指導のあり方ばかりが問題とされているようだが、私は中学や高校の部活動自体にも問題があると思えてならない。

 部活動に参加するかどうかは、本来、生徒が自分の意思で自由に決めることだ。ところが実際には全く違う。娘の中学校でも、教師は部活動に参加するよう強く勧めた。部活動が内申書にまで関わってくるというのだ。ここからおかしい。

 しかも地方の小さな中学校では部の数も少ない。娘の学校では文科系の部活は吹奏楽部しかなかった。運動が苦手で、音楽も苦手な生徒はどうしたらいいのだろう。内申書という脅しによって、個性を無視した部活の準強要が行われているのが実態だ。

 もうひとつ異常だと思うのは、部活動の時間の長さだ。私の中学・高校時代には、部活は週に1回から数回だった。文科系のクラブに入っていた私の場合は、基本的には週に1回程度。体育系でも部活によって曜日が決まっていて、週に2~3回程度だったと思う。ところが、今は毎日夕方遅くまで部活をするというのが当たり前だ。

 私の知人の息子さんは、バスの時間の都合もあって、部活をして帰ると帰宅時間が毎日夜の9時過ぎだった。疲れて帰ってから夕食を摂って入浴をしたなら、自習などほとんどできないのではなかろうか。しかも土曜日まで部活があり、親が車で送迎をする。夏休みも然り。教師による体罰もあったらしい。毎日毎日、部活のために学校に通っているようなものだ。

 このような部活動は生徒の時間を著しく拘束してしまう。読書をしたり、趣味を楽しんだり、考え事をしたり、家事の手伝いをするということからも遠ざかってしまう。青春時代こそ、読書をし、親友と議論し、さまざまなことで悩む時期だと思うのだが、そうしたかけがえのない時間を奪っている。今の生徒たちは、そういう自由な時間の意味すら考えたことがないのかもしれない。異常としか思えない。

 体育系の部活の場合、しょっちゅう他校との試合がある。だからどうしても試合に勝つということが目標になる。なんでも勝つことがよいとされ、試合に向けてひたすら練習をさせられる。勝利至上主義は今も根強い。そんなに試合で勝つことが大事なのだろうか? 楽しめれば負けたっていいじゃないかと思うのだが、そういうことにはならないらしい。なんでもっとスポーツを楽しむというスタンスを保てないのだろう。

 ところが、これを異常だと思わない親が大半なのだ。頑張れることがあるのはいいことだ、という考えらしい。で、休みの日の部活の送迎も当たり前だと思っている。子どもたちも、勉強より部活が楽しいから、部活のために学校に行くも同然という生徒すらいる。だから、部活漬けの毎日でもみんなそれが当たり前だと思っている。

 部活そのものを否定するつもりはないのだが、日本の部活はあまりに異常なことだらけだ。それを異常だとも思わない教師や親も異常としか思えない。部活自体が異常なのだから、その異常の中で教師による体罰も黙認されたり見逃されてしまうのではないか。また、生徒が部活にばかりのめりこむ背景には、授業そのものが面白くないということもあるのかもしれない。受験、受験で追い立てられ、詰め込むだけの勉強ばかりさせられていたなら、そうなるのも不思議ではない。

 いちど定着してしまった部活動のあり方を大きく変えるのは難しいのかもしれないが、せめて部活への参加の自由を保障し、内申書と切り離し、活動時間も見直すべきだ。勝利至上主義になってしまうのは学校や教師の責任も大きい。無理なく楽しんで取り組むというのが本来の部活だと思う。

2012/11/14

内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(5)

少年法と「人権」派について

 内藤氏は、自らを「人権派である」としながらも、少年犯罪の厳罰化反対を唱える人権派と称する人々を批判している。その部分を以下に引用したい。

 「人権」派が少年犯罪の厳罰化に反対する根拠は次のようなものだ。
 殺人などの犯罪に手を染めた少年は、家庭環境に問題を抱えていることが多く、それが犯罪の原因になっている。また、福祉の切り捨て、男女不平等、「新自由主義」の展開・・・・・・といった現代社会の矛盾もまた、原因とされる。
 そしてさらには、家庭的および社会的な逆境に置かれた少年の「心」を心理学的に理解し、共感することで、少年の刑罰は軽くすべきだという結論に至る。

 しかし、「人権」派の主張は明らかに間違っている。
 統計的に見れば、誰かを嬲り殺しや快楽殺しをするような人物が幸福な人生を歩んできた確率は少ないかもしれない。しかし、逆は必ずしも真ならずだ。
 不幸な生い立ちの少年が、すべて殺人を犯す「心」を持つわけではない。たとえ、家族的・社会的に不遇だったとしても、殺さないこともできたわけだ。にも拘らず、殺人を犯したのは少年の主体的な意思決定によるものである。よって、少年には犯罪の責任があるといえる。(150ページ)

 内藤氏は、「心」の物語は、心理的説明がついた「言い訳」にすぎないという。しかし、私はこの意見には賛同しない。

 もちろん、家庭的・社会的に不遇だった少年のすべてが犯罪者になるわけではない。しかし、親から暴力や虐待を受けつづけたなら精神に異常を来たすのは当然のことだ。光市事件の福田君は精神的な発達が非常に遅れていたというが、それは生育環境によるものとしか考えられない。本来なら治療が必要な状態だし、心の病になったのは本人の責任ではない。

 内藤氏が上記のような考えを持つ根底には、福田君の書いた手紙が影響しているのだろう。以下の手紙だ。

「知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。だが、もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君」

 以下の記事にも書いたが、この手紙は福田君を死刑にしたいと目論む検察が拘置所での福田君の友人を利用したヤラセというべきものである。しかも複数やりとりしている手紙の中からごく一部分だけをマスコミがセンセーショナルに取り上げたものだ。

「福田君を殺して何になる」を読んで 

 福田君の不謹慎な手紙については、今枝仁弁護士による「なぜ僕は『悪魔』と呼ばれた少年を助けようとしたのか」(扶桑社)にも事情が説明されている。今枝氏の本から引用したい。

 しかし、これらの手紙はF君自らが進んで積極的に書いたものではなく、拘置所で知り合った友人、A君からの手紙や面会時の発言に触発されて、「迎合」して書いたものなのだ。A君というこの友人はF君から届いた手紙を検察庁に提出し始めた後も、さらにF君を煽りたてて手紙を書かせ、それも次々と検察庁に提出していた。過去の記録にも、F君は周囲の期待に合わせておどけて見せる傾向がある、との記載がある。(210ページ)

 F君は、家族からも「死んで償え」と言われて見放され、裁判でも自分の認識とは違う態様の事実について追及され、さらには、当初、無期懲役の求刑を示唆するような「生きて償いなさい」という検察官の言葉で、検察官が見立てた筋書きを受け容れてきたのに死刑を求刑され、戸惑う孤独な状況の中、数少ない友人にまで見放されるのが怖く、繋ぎ止めておきたい一心から相手が期待するような「ワルぶり」を演じていたのだ。そのような未熟さがあったとはいえ、自分の置かれた状況や立場からは決して発せられるべきではない不謹慎な言葉だったことは、今ではF君もよく理解して反省している。(212ページ)

 A君は福田君に手紙を書かせるために、本村さんの著書「天国からのラブレター」をF君に差し入れ、本村さんに対する反発心を煽っているのである。

 福田君は決して怪物ではないし狡猾な知能犯でもないことは、増田さんや今枝弁護士の本を読めば誰もが理解できるだろう。

 いじめ被害者がいじめのトラウマを抱え込み、長年にわたって大変な苦しみを受けるのと同じように、福田君のように不遇な家庭に育って心の病に陥った加害者もある意味では被害者だろう。犯罪を語る上で、このような加害者の精神的な問題を無視することはできない。

 福田君の不謹慎な手紙に関しては、内藤氏はマスコミ報道を真に受けて真実を見落としているとしか思えない。私にはそれが残念でならない。以下参照。

事実を報じず訂正しないマスコミの怖さ 

 また、神戸の酒鬼薔薇事件の加害者とされる少年も、ほぼ間違いなく冤罪だろう。多くの人がマスコミ報道に騙され、無罪の少年が凶悪犯人に仕立て上げられたのだ。犯罪者とされる少年に、「怪物」や「狡猾な知能犯」がいったいどれくらいいるのだろう? 私にはそのような事例はほとんどないと思えてならない。

 神戸の酒鬼薔薇事件の冤罪問題を封印してはいけない 

 内藤氏は、学校という強制収容所がいじめを生み出していると主張する。前回の記事でも書いたように、人が特異な状況におかれるとどんな残酷なこともしてしまうということはノルウェーの犯罪学者ニルス・クリスティも述べている。学校という特異な環境で生徒が残虐になれることは何も不思議なことではない。

 内藤氏とニルス・クリスティの認識はこの点において同じなのに、加害者への対応は正反対だ。これは内藤氏が徹底的に被害者に寄り添い、速やかな被害者の救済を論じているからだろう。しかし、ひとたび人が特異な環境に置かれたなら、誰もが被害者にも加害者にもなりうる。私たちはいつどこで犯罪被害者やその家族になるかもしれないし、犯罪加害者やその家族にもなるかもしれないのだ。いじめを論じるのであれば、被害者の救済のみに視点を当てるのではなく、加害者も一人の人間であり社会の一員であることを忘れてはならないと思う。

 なお、本書に光市事件の加害者のことを持ち出すのは場違いな感をぬぐえない。内藤氏は福田君のことを持ち出すことで、罰を逃れることしか考えない狡猾な「怪物」少年がいることを強調したかったのだろうが、福田君は怪物ではない。また、酒鬼薔薇事件の加害者は恐らく少年ではなく大人だ。

 福田君は被害者遺族の本村さんに会って謝罪することを望んでいた。しかし、本村さんがそれを拒み続けた。もちろんかけがえのない二人の家族を殺された本村さんの心情は理解できる。しかし、もし二人の間で対話の試みがなされていたなら、あれほどまで本村さんの憎しみが増幅されなかったのではないかと思えてならない。

 もちろん、内藤氏の指摘するように、世の中には罰を逃れるために形だけの謝罪をし「和解」で事をすませようとする加害者もいる。精神的暴力であるモラルハラスメントのように、被害者をマインドコントロールすることによって被害者自身が被害者であると気づきにくくさせている事例もある。モラハラ加害者は自己愛的変質者(ナルシスト)で「症状のない精神病者」ともいわれている。また、世の中にはサイコパスといわれるような異常人格者がいることも確かだと思う。このような人たちは精神病として治療が必要だ。

 経験豊富な調停員(仲裁人)なら加害者が異常人格者であるか否かを見抜けるのではなかろうか。犯罪者の中に稀に異常人格者が存在するからといって、修復的司法を否定する理由にはならない。

 なお、私は刑事罰そのものを否定するつもりはない。とりわけ詐欺商法や暴力団などの組織的犯罪に対しては、警察や検察による捜査はなくてはならないと思う。

 最後に一言。「いじめ加害者を厳罰にせよ」に共感する人は多いと思う。特にいじめを受けたことのある人はそうだろう。そのような人には、是非、ニルス・クリスティの「人が人を裁くとき」も合わせて読んで欲しい。犯罪や刑罰について考える人には必読の書だ。

内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(1) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(2) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(3) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(4) 

【関連記事】
内藤朝雄氏の指摘するいじめの論理と解決への提言

内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(4)

修復的司法による解決

 私は社会学者でもなければ犯罪学者でもないから、専門的な見地から意見を述べることはできない。しかし、犯罪問題を考える際にはノルウェーの犯罪学者であるニルス・クリスティの論理こそ大きな示唆を与えてくれると思うし、彼の主張は誰もが知ってほしいと思っている。そこで、ニルス・クリスティの著書「人が人を裁くとき」(有信堂、平松毅・寺澤比奈子訳)から、彼の考え方を紹介したい。

 クリスティは、本書の前半で市場原理主義と犯罪の因果関係について具体例を交えながら解説する。端的に言うならば、福祉が充実して格差の少ない国家では犯罪が少なく、逆にアメリカのように市場原理主義により格差が拡大した社会で犯罪が増えていると指摘する。アメリカなどでは、増え続ける犯罪への対処として刑事罰を強化し、それによって刑務所に囚人があふれる状況になっている。市場原理主義によってもたらされた犯罪者を刑務所という壁の中に閉じこめて市民に安心感を与えているのであれば、罰を与えることは問題の根本的解決にはならないだろう。犯罪者を社会から追放することはその場しのぎの対策でしかない。格差のない福祉国家の樹立と、刑務所に頼らない紛争解決が求められるのだ。

 ナチスによるユダヤ人の大量虐殺は誰もが認める残虐な行為だ。では、加害者にはどのような対処がなされたのか。ニュールンベルグで司令官とナチスの首謀者たちを絞首刑にし、復讐は成し遂げられた。「しかし、それと同時に、ナチス時代の背後にあった思想や利害やそれに関連する問題に関する議論は、事実上切り捨てられてしまったのである」とクリスティは言う。和解はなされなかった。そのためにどうなったのか。クリスティは以下のように述べている。

 ドイツ軍による占領が終わったとき、協力者と戦争犯罪人は全員厳しい処罰を受けた。しかし、大規模な処罰も国民の中の憎しみを消すことはできなかった。協力者は今でもノルウェーでは軽蔑され、その子どもたちの世代にも追放者のように扱われ、孫も家族の過去については沈黙している。人口のかなりの部分が今でもまともな社会的地位から遠ざかっている。また、ほとんどのノルウェー人が、強制収容所における殺戮は、ドイツ人だからできた行為であると今でも考えているのである。(135ページ)

 彼は、刑罰によって復讐を成し遂げても、なぜあのような惨事が起きたかの議論はなされないまま終わり、人々から憎しみは消えていないという。処罰という復讐でも憎しみを消すことはできず、真相の解明にもつながらない。刑事罰とは、犯罪に対し与えるべき苦痛(刑)を決めるだけなのである。

 また、クリスティは「怪物」に出合ったことはないという。彼は以下のように書いている。

 上述したように、私は人生の大半を犯罪と刑罰に関わって過ごしてきたが、1人の怪物にも出会ったことはない。強制収容所の殺人者の中にもいなかったし、それ以降も怪物には出会ったことはない。嫌いな人間はいるが、全く理解できない人間はいない。私の基本的な仮定は、我々は人間として共通の体験を有してきたということである。我々は皆人生の最初の時期を誰かに保護され、育てられたという共通の体験を有している。その後の人生においても、良い経験であれ、悪い経験であれ、ほとんどの人間は共通の体験をしている。そこに、最小限の共通の基盤が生まれるのである。(140ページ)

 ホロコーストの残虐な殺戮をした人でさえ決して怪物ではない。どこにでもいる普通の市民によって殺人がなされたということだ。また、以下のようにも述べている。

 私がいおうとしていることは、残虐行為は人類の歴史では一般的にみられるものであり、人間の宿命の一つだということだ。多くの国家が、被害者としてまたは加害者として、あるいはその両方の立場で残虐行為に関わってきた。ゆえに、残虐行為を異常な行為ではあるがありふれているとみなすことが重要になる。残虐行為を防ぎかつそれに対処する方法を、社会紛争の解決策に関する我々の共通の知識を動員して、見いださねばならないのである。(142ページ)

 交渉を始めるように常に努めなければならない。暴力の前に、できれば暴力の代わりに、また暴力の後でも、対話のための場を設定する試みがなされるべきである。言語道断なことだと考える者に会うべきである。そして、なぜ彼らがそれをしたのか理解しようとし、その行為を別の観点からみる努力をし、共通の基盤を探す試みをすべきである。そうしなければ、どうやって暴力を止めることができるだろうか。敵対する両者がお互いの状況を全く別々の解釈に基づいて突き進んでいけばどうなるだろうか。(143ページ)

 クリスティは、真実を解明すること、そして和解の努力の必要性を説く。被害者と加害者による話し合い、調停、和解である。このような手法を修復的司法という。

 「人が人を裁くとき」ではクリスティによる本論の前に、平松毅氏による「クリスティの人と業績」という解説がある。修復的司法についてはこの中の平松氏の説明が分かりやすいので以下に引用したい。

 修復的司法とは、概括的には「犯罪の加害者に被害者に対する説明責任を負わせ、両者の合意に基づいて、両者間の意思疎通を図り、犯罪により被害者に引き起こされた害悪を可能な限り修復することによって、犯罪に対応するための手続き」と定義される。(18ページ)

 さらに、刑事司法の独占によって失われるものに、被害者の不安と誤解がある。被害者は、事件全体を理解するためには、探偵小説に描かれている犯罪者の古典的なステレオタイプを思い描くしかない。被害者は、犯罪者と接触する機会がないままに、犯罪者を非人間として説明してもらうことを望むだろう。こうしてステレオタイプの犯罪者像ができあがる。
 加害者は、より複雑な状況におかれる。被害者との直接的な接触を経験することは苦痛であるから、しりごみするであろう。それが最初の反応である。しかし、次の段階では若干肯定的になる。人間が行動するときには、それなりの理由がある。その理由は、法律家が選択した理由ではなく、当事者が理由と考えるものである。弁護士は、刑罰を決めるために量刑に関連性のあるものは何かを判断する能力を訓練されている。このことは、逆にいうと、何が関連性があるかを当事者に決定させないように訓練させているということだ。こうして許しを得るという最も重要な機会を失ってきた。そこで、被害者はステレオタイプの犯罪者像を想像し、加害者に対して極刑を主張することにより、鬱憤を晴らしてきた。そこで、被害者に加害者が自己自身を説明する機会を与えること、これがまさに被害者を再度事件に引き込むことによってなされなければならないことなのである。
 そうすれば、被害者が受けた被害や苦痛にも注意が向けられるであろう。損害賠償が議論されるであろう。加害者は、現在刑事裁判においておかれている立場、すなわち、いかなる苦痛を与えられるべきかという法廷の傍聴者から、いかにして彼が更生するかという議論の参加者へと変化するであろう。(20ページ)

 学校でのいじめに対しても、刑事罰の前にこうした修復的司法による和解努力がなされるべきではなかろうか。日本でも、そのような実践例が報告されている。

生徒指導と修復的司法(大阪教育法研究会)

 この事例は、まさにクリスティの主張する修復的司法の効果を裏付けている。いじめを行った生徒は決して怪物ではない。お互いに向き合って話しをすることで相手を理解できれば、加害者は自分の過ちに気づいて謝ることができるし、被害者から許しを得る可能性も高まる。補償の責任感も生じるだろう。また加害者には必要に応じて謹慎処分や停学処分も適用される。和解や調停は決して不可能ではない。

 さらに、こうした取り組みが「学校モード」からの脱却にもプラスに働くのではないかと思う。もちろん、これは単なる一例であり、すべての事例がこのように解決するとは思えない。しかし、例え解決できなくてもこのような機会をつくることは決してマイナスにはならないだろう。

 上記の事例では教師が仲裁役を務めている。しかし、いじめを見て見ぬふりをして何の対処もしない教師もいる。そうした背景には教師自身が修復的司法という手法を知らず、生徒間のいじめにどう対処していいのか分からないという現実もあるのではなかろうか。また、学校があくまでもいじめを隠蔽しようとし、教師が修復的司法の仲裁人の役割を果たせないのであれば、学校関係者以外の第三者を仲裁人(調停員)にするという方法もあるだろう。この場合は教師も修復的司法の当事者に加えるべきかもしれない。

 もちろん内藤氏の主張するように、凄惨な暴力をすぐに停止させるために警察に通報するという方法も全面的に否定するわけではない。しかし警察権力の力を借りるのは修復的司法が実現できない、あるいは実現しても解決せず暴力を停止する方法が他に見つからないような場合に限るべきではなかろうか。その際にも警察を過信すべきではないし、リスクやデメリットも知っておく必要がある。

 ニルス・クリスティについては、以前にも記事にしているので参照していただきたい。

ニルス・クリスティの言葉 

 上記の記事で紹介したNHKの番組制作に関わった森達也さんの記事は以下。

殺人事件は年1件だけ!?ノルウェー紀行(DIAMOND online)

内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(1) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(2) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(3) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(5)

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