資本主義とホセ・ムヒカ氏
5月13日、ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領が89歳で亡くなった。ムヒカ氏は「世界一貧しい大統領」と言われたが、彼は「貧しい人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」と言って、消費社会を批判し、報酬の9割を寄付して質素な生活を貫いた。こうした思想や行動は多くの人が共感し称賛した。その彼も、かつては民族解放運動で武装闘争の道を歩み投獄もされた。つまり暴力をも支持したということだ。老年期のあの温和なムヒカ氏もゲリラ戦で戦ったのかと思うと、なんとも複雑な気持ちになる。
人はしばしば「性善説」とか「性悪説」などという言葉を使う。性善説とは、「人の本性は生まれながら善である」というもので、性悪説は「人の本性は悪」だとする。ただ。私はこのように分けることに意味はないと思っている。なぜなら、ヒトとは善と悪の両者を持ち合わせているとしか思えないからだ。
生物は生きていくためにどうしても利己的な側面を持つ。しかし、ヒトは文化を発達させ、良心や倫理観、理性も持ち合わせている。世の中には利己的な人もいれば利他的な人もいる。暴力的な人もいれば、倫理的な人もいる。こうしたライフスタイル(性格)は、心理学者のアドラーが言ったように、子どものころに回りの影響を受けながら自分自身で選択したものだろう。
自分の利益を優先する生き方を選択した人は利己的になって金の亡者になったり支配的になる。富と権力を手にすれば無限の欲が目覚め、暴力や人の命を奪うようなことにすら手を染める。良心を優先する生き方を選択した人は、理性的で倫理を重んじる。資本主義の競争社会では、生きていくために利己的なライフスタイルを選択する人が多くなることは想像に難くない。
もちろん利己的といっても人によって程度の幅はあるわけで、多くの人は利己と良心のはざまで苦悩しているのだろう。ムヒカ氏は、資本主義に矛盾を感じて社会の改革を目指したという点では利他的に見える。しかし、理想の実現のために武力闘争も辞さなかったのは、彼の内なる利己によるものではなかろうか。そして、投獄生活を経て利己性に気づき、ライフスタイルを変えたのではないか。私はそんなふうに思っている。ライフスタイルを自分で選んでいる以上、ライフスタイルを変えるのは自分でしかない。
ところで、ムヒカ氏の思想は、巨額の富を手にして世界中の人々を支配しようとしているグローバリスト(DSとか超国家権力と言われる人たち)と対極にある。彼らは人の命を奪うことすら躊躇せず、罪悪感も持たない。グローバリストらは良心など持ち合わせない利己的な人たちなのだろうか?
これについては、苫米地英人氏が「超国家権力の正体」(ビジネス社)の中で興味深い指摘をしている。
苫米地氏は西洋人が大航海時代に残虐行為をしてきた歴史を掘り起こしている。彼らは残虐な行為をする際に、「神の意志を忠実に実行するために攻撃する」と宣言することで、「良心を安んじさせている」のだという。つまり、神の許しを得ているのだといって残虐行為を正当化してきたというのだ。
それともう一つ、「資本主義は神の教えに敵っていた」ということを強調している。マックス・ウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でこのことを解き明かしている。禁欲的なプロテスタント信者が勤労に励み、その結果として富が蓄積される。それを再投資することでさらに富が蓄積され資本主義の発展につながったというのがこの本の要旨だ。苫米地氏は、今の資本家たちは「神の意志のもとに本気で資本主義を邁進している」とし、彼らが世界のためには人口を減らすべきだと平気で考えられるのは、単なる強欲だけではないだろうと考察している。神の後ろ盾があるから彼らは強いのだと。
大富豪の資本家たちは資本主義によって利己性が肥大化したのだろう。彼らは、良心がないわけではなく、「神」の名のもとに「良心」をごまかし、残虐行為ですら「善」だと信じているのかもしれない。彼らを左翼だとか共産主義などと言う人たちがいるが、私はゴリゴリの資本主義者だと思っている。
「欲と悪」でも触れたが、私は、資本主義こそ富を肥大化させる「欲の製造装置」であり、ヒトの内なる利己性を増幅させ独裁も残虐行為も厭わない人間をつくりだすシステムだと思っている。ほんの一握りのグローバリストたちのアジェンダ(グレート・リセット)も、資本主義のなれの果てなのだろう。こんなシステムに終止符を打つには、一般市民が目覚めて抵抗するしかない。
ムヒカ氏は消費社会を批判しお金持ちを批判しているが、では、彼を称賛する人がみな資本主義をやめようと主張しているかといえば、そうではない。世の中の大多数が今も資本主義支持者だ。なんとも不思議だ。
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