自然・文化

2025/11/28

編み物のすすめ

 雪に埋もれる北海道の冬は室内で過ごす時間が多くなるが、そんなときにお勧めなのが編み物だ。お勧めの理由はいくつかあるが、まず挙げたいのは「無心になれる」こと。

 

 このブログで何度も書いているが、私は資本主義の矛盾や弊害に辟易としている。それがコロナ騒動以来より強くなっていて、気が滅入ることが増えた。考えても仕方ない(自分でやれることをやっていくしかない)のだが、それでも、いろいろな雑念が頭に浮かんでしまう。しかし、編み物はそんな雑念を振り払うのにとてもいい。

 

 目の増減がなく、複雑な模様編みもないマフラーのような単調なものはともかくとして、アラン模様や編み込み模様のセーターなどは、余計なことを考えたりちょっとでもボーっとすると途端に間違えてしまい、面倒なことになる。そんな面倒を避けるために編み図とにらめっこし、目の数を数えながら間違えないように気を付けながら編むとなると、必然的に編み物に集中することになり、頭の中から余計な思考が消えてしまう。無心になれる編み物は、雑念を払うのにはぴったりだ。気が滅入るときやネガティブ思考になってしまうときには最適だと思う。

 

 それから編み物は実に奥が深い。本などを購入して編み図通りに編むのも楽しいが、慣れてきたら自分で模様編みを組み合わせてオリジナルの作品をつくることもできる。それに、手と頭を使うのは認知症予防にもなるに違いない。大きな物を編むのは時間がかかるけれど、毎日少しずつ編み進めるのも楽しい。毛糸が余れば、帽子や手袋などの小物を編むのもいい。

 

 こんなことを書くと、男性からは「編み物なんて女性の趣味」と言われてしまいそうだ。でも、そんな考えこそ偏見だろう。手先を使う仕事に性別など関係ないし、「ニットの貴公子」と呼ばれる広瀬光治さんのように、実際に編み物にはまってしまう男性もいる。嶋田俊之さんもそんな一人で、もともと音楽を専攻していた方だがニットも学び、本も多数出している。私は嶋田さんの本でバスケット編みを知ったが、あの編み方は目から鱗だった。

 

 北海道の牧場で3年間過ごした時のことを綴った周はじめさんの「原野の四季」という本には、早朝から晩まで働きながら、夜にはセーターも編んだという若い牧夫の話がでてくる。昭和28年頃の話だが、今のように物が豊富ではない時代、自分たちのセーターは自分で編むというのも当たり前だったのだろう。私の母も若い頃はよく編み物をしており、私も「かせ」で売られている毛糸を玉に巻くのを手伝った。そういえば、若いころ毛糸で靴下を編んでいる男友達がいたし、セーターを編む男性もいる。編み物は決して女性だけのものではない。

 

 今の時代、セーターなど毛糸代よりも安く買うことができる。しかし、そうやって大量生産されたセーターは海外で安い賃金でつくられた物が大半だ。そして、安いがゆえに数年着ただけでまた新たなものに買い替えられていく。果たしてそれが豊かなのだろうか? 「必要なものを自分でつくる」ということこそ本当の豊かさではないか、と思えてならない。手間暇かけてつくった物には愛着もあるし、大事にする。編み物は、資本主義の無駄な消費に対するささやかな抵抗でもある。

 

 先日、革の鞄を作っている職人のつぶやきをXで見かけた。大量生産の鞄が出回るようになって手作りの鞄は売れなくなり、職人さんも激減したという。長く続いてきた伝統的な技術も資本主義に飲み込まれて消えていこうとしている。これは鞄職人に限ったことではないだろう。作っては捨て作っては捨てる消費文化はもういい加減に終止符を打たなければならない。

 

2025/10/11

「観る」から「撮る」へ

 最近は、散歩をしていると望遠レンズ付きのカメラなど、野鳥や野生動物の写真を撮っていると思われる人をしばしば見かけるようになった。いわゆるアマチュアカメラマンだ。

 

 私が若い頃は、野鳥や哺乳類などの写真を撮る人はとても限られていて、一部のプロのほかに趣味で撮っている人がぼちぼちいたくらい。何しろ、野鳥や哺乳類の写真を撮るためには長い望遠レンズや三脚が必要だし、お金もそれなりにかかる。重いカメラとレンズと三脚を持ち歩く体力や何時間も粘る忍耐も必要とする。だから、野生動物の写真を撮る人は限られていた。

 

 野鳥を観ることが趣味だという人は、双眼鏡や望遠鏡を持っては公園や緑地、山や水辺に出かけていってはバードウオッチングを楽しんでいる。私も中学生頃から探鳥会に参加して野鳥を観るようになった。そういう人たちは写真を撮ることにほとんど興味はなく、ただただ自然の中を歩いては野鳥を観て楽しんでいた。私も「写真に撮って残したい」とは考えもしなかった。

 

 今も双眼鏡を首から下げて野鳥を観ている人に出会うが、それ以上にカメラを携えている人が多くなった。デジタルカメラが普及し、フイルムの枚数を気にすることなく写真を撮れるようになったことの他に、小型でもズーム機能がある高性能のカメラも登場し、動物写真が一般の人にまで普及し浸透してきたということなのだと思う。それと、一般の人が自分の撮った写真を公表する場ができたことも大きい。ブログ、インスタグラム、フェイスブック、Xなど、今は誰もが作品を公表できる場が用意されている。

 

 ネットの画像検索で野鳥の名前を入れれば、おびただしい写真が表示される。いかに野鳥の写真を撮る人が増え、それをネットにアップする人が多いのかが分かる。日本野鳥の会の「野鳥」誌も、昔は文章ばかりの雑誌だったが、昨今はカラー写真があふれている。誰もが野鳥の写真を撮る時代になったのだとつくづく思う。

 

 先日、とあるナキウサギ生息地に行ってみたのだが、望遠レンズでナキウサギを狙っている人たちが10人ほどたむろしていた。岩場にナキウサギが姿を現すと、一斉にレンズが向けられる。こんな光景はもうずいぶん前から見られるようになった。

 

 別のナキウサギ生息地では、あまりに写真撮影をする人が多くなって植物が踏みつけられてしまうとのことで、岩場に入らないようにとロープが張り巡らされた。そこも、何人ものカメラマンが押しかける。何回も来ている常連さんもいるようだし、たまたま来たような観光客風の人もいる。かつてはほとんど人が行かなかったような場所でも、ナキウサギの写真が撮りやすいという情報が流れると一斉に人が押し掛けるようになるのだ。こんな風になってしまうと、私などはその場所に行きたいとは思わなくなる。

 

 野鳥なども同じで、猛禽が繁殖しているある場所では、営巣場所を見通せるところにやはり三脚を立てた人たちが群がっていた。一度、アマチュアカメラマンに知られてしまうと、「撮影場所」として定着してしまうのだろう。

 

 東京近郊などでは、「どこそこに〇〇(珍しい鳥)がきている」などという情報が広まると、その写真を撮るために黒山の人だかりができるという。その光景を想像しただけでもぞっとする。私が若い頃には考えられなかったことだ。

 

 野鳥や哺乳類などの写真を撮ること自体をとやかく言うつもりはない。野や山に出かけて動植物に親しみ写真を撮るというのは、ゲーム中毒になったりくだらないテレビを見ているよりもはるかに健全だと思う。私自身も、野鳥や哺乳類の写真はほとんど撮らないものの、昆虫写真は撮っている。もっとも私の場合は記録写真であって芸術的な写真を撮りたいという気はない。標本をつくる趣味はないので、種名を知りたければ写真に撮って調べるしかない。それが最大の目的だ。

 

 ただ、野鳥や哺乳類の写真を撮る人たちのことで気になるのは、気遣いのなさだ。彼ら、彼女らを見ていると、ただただ「良い写真が撮りたい」という気持ちに駆り立てられているように思えて仕方ない。そのために、同じ場所に足しげく通っては何時間も粘っている。私には撮影欲の塊になっているように見えてしまう。そこに暮らす被写体である動物たちへの配慮というものがあまり感じられないのだ。

 

 ナキウサギにしても、野鳥にしても、自分にレンズを向けている人たちのことはもちろん認識しているはずだし、それなりの影響を与えているに違いない。私なら、たとえ写真を撮るとしても何枚か撮影したら満足だし、何度も通って写真を撮りたいとは思わない。彼らの生息地をちょっとだけ覗かせてもらえれば十分で、あとはそっとしておいてあげたいと思う。

 

 しかし、望遠レンズの砲列をつくる人たちにそういう気遣いがどうしても感じられないのだ。野生動物を「観て楽しむ」というより、とにかく「いい写真が撮りたい」という気持ちが強いのだろう。いちど写真を撮ることに嵌ると、少しでもいい写真を撮るためにシャッターチャンスばかりを狙うようになる。そうしているうちに、自分の撮影欲ばかりが強くなっているのではなかろうか。とにかく際限がなくなる。

 

 撮った写真をネットにアップして「いいね」をもらうと、さらに「よりよい写真を撮ってアップしたい」という欲が深まる人もいるだろう。こうなると写真撮影が承認欲求を満たすことにもつながっていく。なんだか悪循環のような気がする。

 

 私にとって自然の中を歩いたり野生動物を観るというのは、動物たちの鳴き声や様々な自然の音を聞き、風や匂い、日差しなどを体全体で感じることに他ならない。いくら素晴らしい写真であっても、そういったもの体感することはできない。自然の魅力はそこにある。

 

 人を感動させる素晴らしい写真というのは確かにある。だから「撮る」ことも否定はしないが、まずは自然への気遣いや節度を持ってほしい。できるだけ「そっとしておく」という気持ちを持ってほしい。そして、五感で自然そのものを体感することを大切にしてほしい。そんな風に思っている。

 

2025/06/04

再読の楽しみ

 最近はあまり本を買わなくなった。そろそろ断捨離をして蔵書を減らさなければならなくなっていることが大きい。しかし、本を読まなくなったわけではない。私は、学校や職場に行くときも、必ず本を持ち歩いていた。電車の中とか、ちょっと時間ができたときに本を読めるように。旅行のときも文庫本をもっていくことが多い。高齢になった今も、全く本を読まない生活は考えられない。

 

 本を増やしたくない(減らしたい)し、図書館も遠い。そこで最近は家にある本を再読している。正確には、家族が買った本などで読んでいなかった本も含めて読んでいる。そうやって再読をしていると、人は実に忘れやすい生き物だということを実感する。読んだはずなのに、覚えていないことばかりなのだ。本というのは、やはり2度、3度読まないと記憶に残らない。

 

 最近読んだ本は、例えば夏目漱石の作品を何点か。かなり前に読んだものは、すっかり忘れていて一部を朧気にしか覚えていない。漱石の作品を続けて読んでみると、以前はあまり考えていなかった彼の思想などが浮かび上がってきて興味深い。漱石の作品の登場人物の大半は漱石自身を強く反映している。そして、彼は実業家が大嫌いだ。つまり、お金儲けばかり考えているような人物を嫌悪していた。資本主義のなれの果てのような今の社会を目の当たりにしたら、どんな風に思うのだろう・・・。

 

 自伝と言われている「道草」を読むと、妻の鏡子さんとはずいぶんすれ違いがあったようだ。明治時代が男尊女卑が当たり前の社会であったとしても、女性の私としては、鏡子さんの肩を持ちたくなる。「門」の主人公「宗助」夫妻の貧しくも助け合って暮らす様は、漱石の望む夫婦像だったのだろうか。漱石は神経衰弱だとか胃潰瘍を患っていたが、おそらく彼はHSPという敏感体質だったのだろう。登場人物の心情の描写などもそれを感じさせる。明治時代の作品とはいえ、今読んでも味わい深い。

 

 サル学者の河合雅雄氏の本も好きで、少年時代のことを書いた「少年動物誌」や「小さな博物誌」などはそれぞれ2回は読んでいるが、また読んだ。何度読んでも描かれている光景が瞼の裏に浮かぶ。今はほとんど失われてしまった自然の中での体験がどれほど人の成長に大きな影響を与えているのかと思うと、そんな遊びがなくなってしまった現状に心を痛める。

 

 河合氏は動物学者の中でも特段に文章が上手い。彼の研究対象のサルに関する本もいくつか読んだが、やはりだいぶ忘れていた。動物学などは研究が進んでどんどん新しい知見が増えてくるが、それでも過去の本の価値がなくなった訳ではなく、楽しく再読した。

 

 文章が上手いといえば、福岡伸一氏もそうだ。科学の専門的なことも巧な文章でつづられるとぐんぐん引き込まれていき、ミステリー小説を読んでいるかのようだ。「生物と無生物のあいだ」は、野口英世のことや、すい臓の細胞で作られた消化液が細胞の外である消化管に出ていくシステムのことなどは覚えていたが、忘れてしまったこともいろいろあった。

 

 たとえばPCR検査。コロナ騒動ですっかりおなじみになったが、本書にはPCR検査のしくみや、開発したキャリー・マリスに関する逸話も書かれている。ところが、コロナ騒動のときには、すっかり忘れていた。コロナでPCR検査が始まったときに読み返していたら、ずっと理解が早かっただろうと悔やまれた。

 

 今はチンパンジーの研究者であるジェーン・グドールさんの本を読み返している。彼女の自伝である「チンパンジーの森へ」では、甘やかされて育ったチンパンジーの子どもが、妹が生まれても母親から離れることができず、母親が死んでも自立できずに後を追うように死んでしまったという話が書かれている。まるで自立できずに親に依存しつづける人間の子どもと変わらない。

 

 まだまだ再読したい本は山のようにある。いったい、どれだけ読めるのだろうか? そんなことを考えながら少しずつ読み進めている。

 

 昨今は読書離れが著しいと聞く。多忙で本を読む時間がないのならなんとも寂しいが、そもそも本を読みたいと思わない人が増えているなら嘆かわしい。本は「心の糧」に他ならないのだから。

 

2023/11/26

いくつになっても変わらないこと

 子どもの頃は、自分が高齢者になったときのことなど全く想像ができなかった。まあ、それが普通なのだろう。そして実際に高齢者になってみて思うことは、いくつになっても子どもの頃とほとんど変わっていないのではないかということだった。変わらないというのは性格などではなく、趣味や嗜好が変わらないということ。

 

 私は小学生くらいまでは昆虫が大好きで、友達と遊ぶとき以外はよく一人で虫捕りをしたり、昆虫を捕まえてきては飼育したりしていた。小学校の4年生くらいまでは、夏休みといえば昆虫標本を作っていたと思う。女の子としてはかなり変わり者だった。

 

 小学校高学年からは野鳥に興味を持ち始め、中学生くらいから何度か探鳥会に参加した。また、中学2年のときにそれまで住んでいた借家から庭付きの一戸建てに引っ越したのだが、それを機に園芸も始めた。花壇をつくり、パンジーやサルビア、マリーゴールドなど種から苗づくりをしたし、菊の3本仕立てとか朝顔の行燈仕立てなどもやって、兄からは「老人趣味」だと笑われた。

 

 高校時代の休日といえば、庭で園芸作業をするか、早朝から起き出して一人でおにぎりを作って探鳥会に参加するかのどちらかだったように思う。高尾山には毎月のように通い、山野の鳥はほぼ高尾山で覚えた。同級生は芸能人や男の子の話ばかりしていたが、そんなことには全く興味がなかった。

 

 大学では生物系のクラブに入りもっぱら野鳥を観ていた。夏休みや冬休みには北海道から九州まで野鳥を観に歩き回っていた。また、先輩に誘われてクモにも興味を持つようになった。大学を卒業したあとは、週末になると時折思い立ったように夜行日帰りや夜行一泊くらいの登山にのこのこと出かけて行った。都会で暮らしていると、たまに山に登って新鮮な空気を吸うだけで、なにやら生き返ったような気持ちになったものだ。山友達はほとんどいなかったので一人で行くことが多かった。

 

 結婚をして北海道に移り住んでからは、どちらかというとクモに夢中になっていた。北海道でクモを調べている人がほとんどいないというのがその理由の一つだった。家を建てて庭を持ってからは再び園芸を始め、一時はかなりの花を育てていた。そんなこんなで、いつも昆虫や野鳥やクモや植物を相手にしていたし、登山もときどきした。なんだかんだ言っても、常に動植物とともに生きてきたように思う。

 

 さて、高齢者となった今は何をしているかというと、春から秋の無雪期は散歩がてらに昆虫やクモの写真を撮っている。小学生の頃の虫好きの再来で、初めて見る虫に出会うとそれだけで心がときめいてしまう。種名の分からない昆虫を調べるだけでかなり時間をとられるのだが、楽しくてやめられない。

 

 園芸の方は、花卉園芸から蔬菜園芸に変わってきた。というのは、エゾシカが激増して玄関周りに飾っていた花を食べてしまうようになったからだ。そこで花づくりはきっぱりと諦めて庭を鹿避けネットで囲い、宿根草の花壇を少し残して他は蔬菜園芸に切り替えた。いわゆる家庭菜園だ。そんなわけで、春から秋は散歩と園芸にかなり時間をとられる生活をしている。

 

 積雪期になると双眼鏡を持って散歩に行くが、私は寒いのが苦手なので、夏と比べて回数や距離がかなり減ってしまう。しかし、室内でもやることはいろいろある。3年くらい前から、色鉛筆でクモの標本画を描き始めた。これは高齢者になってから新たに始めた趣味の一つで、自己流だが時間があるときに楽しみながら描いている。

 

 それから編み物もする。私は棒針編みが好きなので、もっぱらセーターを編んでいる。手芸は子どもの頃から好きで、小学生の頃からレース編みをやっていたし、中学や高校では手芸クラブに入っていた(本当は生物系のクラブに入りたかったのだが、なかったので仕方なく)。母も手芸が好きで、若い頃はセーターをよく編んでいたし、レース編みもやっていた。高齢になってからは刺繍でテーブルセンターなどを作っていた。手芸好きは母に似たのかもしれない。

 

 あと、趣味ではないが、自然保護活動も高校生のころからずっと関わっている。野生生物が好きであれば、それらの生息環境を保全していかねばならないと思うのは当然の成り行きだ。人間も自然の一部である以上、自然環境を守らねば生きてはいけない。

 

 こうやって振り返ってみると、子どもの頃から好きだった自然との関わりをずっと続けているのだとつくづくと思う。自分が楽しくてやっていることだから、大変だとも思わない。きっと体が動かなくなるまで同じようなことをやっているのだろうと思う。歳をとってもやりたいと思うことがあると、老いも気にならなくなる気がする。クモの標本画などまだまだ一部しか描いていないのだから、終わりが見えない。テレビもないので、漫然と時間を浪費したりマスコミに洗脳されることもない。

 

 世の中には「虫屋」さんとか「鳥屋」さんとか、「釣り師」とか、特定の生物の採集や観察、写真撮影などにはまっている人が一定程度いる。大学受験を機に、あるいは就職や結婚を機にそういった趣味をやめてしまう人も多いが、就職しても結婚してもやめずに続けている人の大半は、おそらく一生同じ趣味を続けるのではないかと思う。趣味というのは認知症防止にも役立っているのだろう。

 

 ここで、ふと思う。ゲームやネットばかりで育った今の子どもたちは、果たしてのめり込めるような趣味をどの程度持っているのだろうか? ちょっと心配になってきた。

 

2018/08/22

晩夏の浮島湿原

 数日前、久しぶりに浮島湿原に出かけた。浮島湿原は上川町の標高860メートルほどのところにある高層湿原だ。アカエゾマツに囲まれ池塘が点在する光景は森林限界の上にある大雪山の「沼の原」や「沼の平」などとはちょっと趣を異にする。

 湿原への歩道入口には立派な看板とトイレを備えた駐車場がある。ここから1.6キロ歩くと浮島湿原の入口だ。浮島湿原はこれまでも4回ほど行っているのだが、入口の階段は浸食されてだいぶ傷んでいる。ウッドチップが敷かれて整備されていた歩道も、今は草がかなり入り込んでいて、ところどころぬかるんでいる。
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 のんびりと30分ほど歩いて湿原に到着。ここが湿原の入口。木道が整備されているが、老朽化が進んで一部は立ち入り禁止になっていた。
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 8月も下旬にさしかかるこの季節は湿原に花の彩りはなく、晩夏というより初秋に近い印象を受ける。タチギボウシも花は終わっている。リンドウの季節だと思っていたのだが、花が見当たらない。が、よく見るとリンドウはちゃんとある。ただし、花のつく頂部がシカに食べられているのだ。やっと見つけたのがこれ。低地にあるエゾリンドウより青色が濃いエゾオヤマリンドウだ。
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 リンドウはシカの好物らしく、十勝三股ではシカが増えてからリンドウが姿を消してしまった。浮島湿原の場合は食べられているのは上の方だけだから株自体は残っているのだが、花が見られないのはちょっと残念。

 木道を歩いていくと、こんな光景が展開する。
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 花がほとんどない中で、白いウメバチソウの花が目立つ。

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 ヒツジグサも1輪だけ咲いていた。
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 林野庁は近いうち歩道や木道の整備をする予定はあるのだろうか? ここ数年の大雨であちこちの林道が流されたりしたので災害復旧等で忙しいのか、それとも予算がないのか・・・。このまま木道の補修がされなければ、じきに湿原の散策もできなくなるだろう。

 そう言えば、かつて大雪山の沼の平から松仙園を経て愛山渓に通じる道があり、学生時代に永山岳に登った帰路に歩いたことがあるが、今は沼の平から松仙園の道は廃道になってしまったようだ。人が歩かなければ登山道はすぐに草木が生い茂り消えてしまう。3年前に行った原始が原の五反沼への道も廃道状態だった。

 整備を止めたり人が歩かなければ登山道が消えるのは自然の摂理だが、メインの登山道がオーバーユースで荒廃する一方で、消えていく道があるのはちょっと寂しい気もする。

2018/08/13

「お盆休み」をなくして融通性のある「夏休み」に

 今年もお盆の季節がめぐってきた。ニュースではいつもと同じ、お盆の帰省ラッシュが報じられている。高速道路は渋滞、飛行機も列車も満席・・・。お盆の期間は航空券もぐっと高くなるし、予約も大変。ホテルなども早くから満室。

 毎年このニュースを耳にする度に、「お盆休み」という考えを変えた方がいいのではないかと思ってしまう。たしかに「お盆」というのは古くから受け継がれてきた風習だし、それを大事にすることは否定しない。

 でも、時代とともに私たちの生活様式も確実に変わってきている。「お盆休み」といっても宗教的な行事から里帰りや旅行を楽しむ「夏休み」へと変わりつつあるのではなかろうか。夏休みに家族で里帰りしたり旅行をするのならば、お盆の時期に拘る必要もないのではと思う。私は無宗教であり信仰はないので(昨今はそういう人も増えているのではないかと思うが)、お墓参りもお盆やお彼岸にこだわらなくていいと思っている。

 ヨーロッパの人々は夏になると時期をずらして長期間のバカンスをとるというが、交通機関や宿泊先の混雑を緩和させるために当然のことだろう。ホテルだって満遍なくお客さんに入ってもらえたほうがいい。日本でも夏休みを分散させれば里帰りや旅行がお盆の一時期に集中することは避けられる。企業も公務員も「夏休み」にもっと融通性を持たせるべきだと思うのだが、どうしてそれができないのか不思議でならない。

 「正月休み」も同じだ。昔とちがって昨今はお正月もさほど風習にこだわらなくなってきている。例えば、私の子どもの頃は正月といえばお店はどこも閉まり、三が日はおせち料理とお餅を食べて過ごしたが、今は元旦からお店が開いているし、お正月の習慣も薄れてきている。おせち料理も買って済ませる人が増えてきているし、お正月も普段の生活とあまり変わらなくなりつつあるように思う。

 だったら、なにも年末年始に拘らず、「冬休み」をつくればいいのではないかと思ってしまう。北海道では年末年始に大雪や吹雪に見舞われると、交通機関が乱れて大変なことになる。豪雪や吹雪の中の渋滞は事故にもつながる。もちろんお正月に帰省したい人はすればいいのだけれど、「冬休み」制にしたなら、混雑する時期に移動したくない人は大助かりだろう。

 人々の生活が変わっていくのだから風習も変えればいいと思うのだが、伝統的なものは変えたくないという人が多いのだろうか。

2017/05/11

原野の水仙

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 以前はゴールデンウィークの頃に道内のあちこちに野鳥などの調査ででかけた。この時期はクモの採集には早いが、キタコブシやエゾヤマザクラの花が咲き始めるし、芽吹き前の落葉広葉樹林の林床にはスプリング・エフェメラルと言われる早春の花々が可憐な花を咲かせている。民家の庭先には水仙やムスカリ、玉咲きサクラソウなどが咲き誇る。風はまだ冷たいものの、生き物たちの躍動を感じる季節だ。

 生物の調査が目的だから、行くところは人里からやや離れた山間地だったりする。そして、もはや原野としか言えないような荒地でしばしば目にするのが、目の覚めるような鮮やかな黄色い水仙の花だ。

 北海道の平野部には広大な耕作地が広がっている。そして、かつては「こんな所にも人が住んでいたのか?」と思うような山間地も開墾され畑や牧草地になっていた。たいていは川に沿って山間地へと耕作地が伸びている。人里離れた山間地にも、人々の生活があり、学校があった。人が住みつけば庭先に花を植える。学校を建てれば桜の木を植える。

 しかし、山間地ほど離農が進み、かつての耕作地はササや樹木に覆われて自然に戻りつつある。黄色い水仙は、かつてそこに人が住んで暮らしていたことの証だ。建物が撤去されても朽ち果てても、それらの植物は生き続けて毎年花を咲かせる。

 チューリップやムスカリはエゾシカの大好物だから、庭先に植えられていても食べられてしまう。しかし水仙は有毒植物だからエゾシカは食べない。かくして、人々が去ってからもしばらくの間、原野に黄色い水仙が生き続けることになる。ササや樹木にすっぽりと覆われでもしない限り、逞しく花をつける。

 40年ほど前の学生時代、探鳥旅行で北海道に何度かでかけた。当時の北海道は市街地から離れた辺鄙な場所でも、人が住んでいれば小さなお店(よろずや)と小学校や小中学校があった。否、辺鄙な場所だからこそ商店や学校があったのだ。バスに乗って景色を眺めていると、農耕地の中にぽつんと佇む小学校をよく見かけ何かほのぼのとしたものを感じた。しかし、今では過疎化が進んで小規模小学校は次々と姿を消し、農村地帯に住む子ども達はスクールバスで街の学校に通うようになってきている。

 廃校となった学校跡地は次第に草木に覆われ、古びた門柱と桜や水仙だけがかつての面影を偲ばせている。時代の流れとはいえ、寂しいものを感じずにはいられない。

2017/01/29

石城謙吉さんの環境問題講演集「自然は誰のものか」

 昨年末、石城(いしがき)謙吉さんの講演をまとめた書籍「自然は誰のものか」(エコネットワーク発行)が出版された。石城さんは川魚をはじめとした動物の研究者であり、北大苫小牧研究林の林長として森林問題にも関わってこられた方だが、同時に自然保護にも取り組まれてこられた。植物学者の故河野昭一さんもそうだが、自分の研究に没頭するだけではなく自然保護に尽力される研究者に、心から敬意を表さずにはいられない。本書は石城さんの講演会から11話を選んで書籍にまとめたものだが、どの話しも幅広い知識と経験、深い洞察力に裏打ちされている。

 最近は講演会を聞きに行くことがめっきり減ったが、以前はときどき講演会や学習会に参加して、専門の方たちの豊富な知識のおすそ分けに預かった。ただ、悲しいかな、講演会や学習会で知り得た知識や情報のうち頭脳に鮮明に記憶されるのはごく一部であり、話しの多くはなかなか記憶として留まらない。しかし、本書のように講演者が自ら講演内容をまとめて文章として残してくださると、あとで何度も読み返すことで理解を深めることができる。しかも、石城さんの講演は実に中身が濃く、示唆に富んでいる。このような話しをまとめて書籍にした意義は大きい。

 本書のタイトルともなっている第1章の「自然は誰のものか」は1989年の講演記録だから、今から28年も前の時点での話しだ。本章では、日本の大規模開発計画が昭和35年に発足した池田内閣の「全国総合開発計画(一全総)」に端を発し、昭和44年の佐藤内閣による「第二次全国総合開発計画(二全総)」、昭和47年の田中内閣による「日本列島改造論」、昭和52年の「第三次全国総合開発計画(三全総)」、昭和62年の「第四次全国総合開発計画」やリゾート法(総合保養地域整備法)へと受け継がれてきたことが示されている。戦後の高度経済成長の中で進められていった政府の開発計画こそ、日本の自然が次々と失われていった元凶だ。

 乱開発が始まった当初から自然保護に関わってきた人々は、程度の差こそあれこうした背景を理解しているだろう。重要なのは、石城さんが明確に指摘しているように、日本の自然を滅茶苦茶にした開発計画の目的は、中央集権体制の強化と再編にあるということだ。大規模工業開発やリゾート開発の流れの根源にあったのは、国と大資本による地域収奪であり、国と大資本による経済成長のための戦略だ。だから、開発に伴って全国各地で生じた自然破壊、環境破壊に対する反対運動の大半は、まさに国や大資本との闘いだった。そして、今もその構図は続いている。リニア新幹線などはその典型だろう。

 先日、昔書いたエッセイを3編アップし、最後に青字で注釈を添えた。「シギと私」では、東京湾や有明海をはじめとした干潟が失われていったことに触れ、「」では、八ヶ岳山麓のリゾート開発について触れた。海にも山にも押し寄せた開発の嵐は、かろうじて残されていた日本の自然を切り刻み、地方を切り捨ててきた。今更ながら、そのことを痛切に感じる。

 本書では、水や川をめぐる講演も2つ取り上げられているが、実に奥深い。「人間と水」という章に出てくる信玄堤や分水の事例は、現在の治水の見直しにも役立つだろう。武田信玄は、御勅使川(みだいがわ)支流を分けて釜無川との合流点を増やすことで水の勢いを弱めたり、堤防に切れ込みを入れて水の勢いを分散させる信玄堤(霞堤)という治水工事を行った(この工事についてはこちらを参照いただきたい)。こうした手法は自然の摂理に沿った治水といえるだろう。

 また、利水と治水の両方の機能を兼ね備えていた諏訪市の角間川の分水についても取り上げているが、昔の人の知恵に驚かされる。諏訪は石城さんの故郷だが、私の生まれ故郷でもあり、角間川は子どもの頃からなじみがある川だ。石城さんによると、角間川は上流で分水され、諏訪市街の東側にある山の裏側を通って市街地側の斜面に流れ込み、さらに分水されて農業用水や生活用水として使われていたという。

 この話しを知ってすぐに頭に浮かんだのは、諏訪の茶臼山の叔母の家の近くを流れていた小さな川のことだった。子どもの頃、夏休みに叔母のところに遊びに行くと、冷たい水が勢いよく流れているその川に遊びにいったものだが、細い道にそって流れるその川は子どもながらに自然の川とはどこか違うと感じていた。そこで、インターネットで公開されている国土地理院の地図から角間川を辿ってみた。

 なるほど、角間川は上流の2カ所で分水されている。一つは蓼の海(たてのうみ)という人造湖(ため池)を経由して山の鞍部を越し、もう一つは角間新田の上流で分水され鞍部を越えている。それぞれの分水地点からは鞍部に向かって等高線に沿うように水路が掘られ、鞍部を越えて反対側の斜面へと流れているのだ。こんな上流で分水をしていたとは知らなかった。そして、叔母の家の近くに流れていた小川は、角間川の下流部で分水されたものだということも分かった。諏訪の街中にはあちこちに水路があったことは子どもながらに記憶していたが、あの水路の意味に納得した。

 人の手によって本来とは異なる水系に水を流す行為は自然の摂理に反するものだ。しかし、節度をわきまえてさえいれば大きな災害には結び付かないだろうし、むしろ洪水の抑制につながる。自然との共生を目指した先人の知恵だ。ところがダムや河川改修などの大規模な治水や利水事業によって、昔ながらの優れた利水・治水は今ではほとんど姿を消してしまった。諏訪の水路網も今は使われていないという。

 公共事業という名の元で進められたダム建設や河川改修は自然を破壊しただけではなく、ダムの放水による洪水や、河川の直線化による破堤、溢水など新たな災害を生むようにもなってきている。自然を制御しようという考えが根底から間違っていることを教えてくれる。

 本書で取り上げられている講演はいずれも充実した内容のものばかりだが、人間社会の福祉と戦争について取り上げた「動物学からみた人間」についての考察は、考えさせられることが多い。直立二足歩行によって両手を自由に使えるようになり脳が発達して文化を発展させてきた人間は、高齢者や障害者、病人などといった社会的弱者を見捨てないという他の生物には見られない独自の生き方を選んできた。このような生き方を否定するような弱者切り捨ての行く末には、人間の将来はないだろうと石城さんは言う。

 昨年は相模原の障害者施設で入所者や職員多数が殺傷されるという凄惨な事件が起きた。安倍政権は、弱者切り捨ての法案を次々と成立させているばかりか、平和憲法をかなぐり捨てて戦争ができる国へと突き進んでいる。ネットでは気に入らない者、社会的弱者を叩いて優越感に浸ろうとする人が溢れている。人間以外の生物ではありえない殺伐とした光景だ。こんなときだからこそ、福祉と戦争について取り上げたこの章は、意味深いものになっている。

2016/03/19

小学校の卒業式での袴姿に思う

 先日、新聞に小学校の卒業式の記事が掲載されていたのだが、女の子が振袖姿で卒業証書を受け取る写真を見て目が点になった。写真をよく見ると、ほかにも振袖を着ている子が何人もいる。いったいいつから小学生が和服で卒業式に出るようになったのかと驚いたのだが、インターネットで調べてみるとどうやら数年前から振袖に袴で卒業式に出る子どもが増えており、ブームになってきているらしい。

 これにはもちろん賛否両論がある。賛成派の人の意見は「振袖や袴は日本の伝統的な正装であり、卒業式という記念の場に相応しい」、「ほとんど着ることのないスーツなどを買うならレンタルの和服の方がいい」、「振袖は親などが持っているものを着せられるので、袴だけのレンタルなら安い」などなど。しかし、私には、子どもに華美な服装をさせたいという親の見栄や満足感が先にあり、自己正当化のために後づけでこのような言い訳をしているとしか思えない。

 そもそも卒業式というのはひとつの区切りの儀式であり、通過点に過ぎない。義務教育である小学校の卒業式で正装をしなければならない理由はないし、まして日本の伝統だからという理由で和服を着る必要もなければ、お金をかける必要もない。服装は卒業式の本来の目的とは関係がないし、とってつけたように伝統に拘るのは意味不明だ。私は普段着だってまったく構わないと思っている(ジャージなどの運動着やジーンズなどは避けるべきだとは思うが)し、むしろなぜ学校が「普段着で出席するように」と言わないのかが不思議だ。私が小学校の頃は、卒業式には中学校の制服を着ていった。それは着る機会がほとんどない服にお金をかけることがないようにという学校の配慮でもあったのだろう。しかし、そういった配慮はいったいどこへいってしまったのだろうか?

 もうだいぶ前のことになるが、自然保護の集会で旭川のあるホールに行ったときのこと、ピンクや水色などの華やかでヒラヒラとしたドレスを着た子ども達が大勢いて何があるのかと不思議に思ったのだが、どうやらピアノの発表会だったらしい。しかし、いつからピアノの発表会がドレスのファッションショーのようになってしまったのかと唖然とした。私も子どものころピアノを習っていたが、発表会はいわゆる「よそゆき」程度の服装だったし、中学生のときは制服だった。しかし、最近では、発表会は日頃の練習の成果のお披露目というより、きらびやかな衣装を着ることの方が楽しみになっているのではなかろうか? あのお姫様のような衣装を着たいがために楽器を習いたいという子もいるのではないかと思ってしまうほどだ。

 成人式でも大学の卒業式でもそうだが、昨今はかつてに比べてはるかに画一的になっている。私は成人式には出席しなかったが、私の頃は振袖のほかに洋服の人もそれなりにいたと思う。今はほぼ全員が振袖だし、和服の男性もいる。まるで振袖のファッションショーと化している。大学の卒業式も同じで、私が学生の頃は袴のほかに洋装の女性も結構いて、人それぞれだった。私は卒業式以外でも着る機会のあるワンピースにした。しかし、今は袴の女性が圧倒的ではなかろうか。

 成人式も卒業式も、あるいはお稽古ごとの発表会でも、本来の目的とかけ離れ、衣装の見せびらかしの場になってしまっているように思えてならない。親も親で、子どもを着飾らせることが愛情だと思ったり、皆と同じ衣装を用意してあげないと可哀そうという感覚なのかもしれない。しかし、そこには個性のかけらもない。そして、そんな見かけばかりに拘る風潮が小学生の卒業式にまで及んでしまったというのが昨今の袴ブームなのだろう。

 こうしたブームの陰には間違いなく貸衣装業者の営利主義がある。インターネットで「小学校 卒業式 袴」と入力するとおびただしい数の貸衣装業者のサイトが出てくる。貸衣装屋こそが親の見栄と同調意識を利用してこうしたブームをつくりあげている張本人ではなかろうか。だからこそ、成人式や卒業式、発表会がファッションショー化し、全国各地で小学生の袴が流行るまでに至ったのだろう。

 ハロウィンやバレンタインのチョコレートもそうだが、日本人とは何と安易に商業主義に利用されてしまう民族なのかと思う。

2016/02/29

十二社と熊野神社の思い出

 子どもの頃住んでいた新宿の十二社(じゅうにそう)と熊野神社には2013年に訪れているのだが、先日東京に行ったときに再び足を延ばしてみた。十二社に住んでいたのは4歳くらいから小学校4年生の夏休み前までだから、7年ほどの間でしかない。でも、東京にくるとなぜか足が向いてしまう。昔のことを懐かしく思うのはおそらく歳をとり郷愁が湧いてくるといいうこともあるのだろうが、はるか昔のこととなった自分のおぼろげな記憶の中の風景と今の変容ぶりを確かめたいのかもしれない。

 あの頃の面影が残っているのは3年とちょっと通った淀橋第六小学校、小学校の近くの児童公園、住宅街の中の狭い通り、そして熊野神社くらいだろうか。当時からそのままの建物はほとんどなく、皆、あたらしい住宅やマンションに建て替えられ50余年の歳月は景色を一変させている。当たり前といえば当たり前なのだが、やはりどこかに昔の面影を探してしまう。

 今回は1年間通った幼稚園のあった場所にも足を延ばしてみた。幼稚園がなくなっていることは知っていたが、かつて幼稚園のあった敷地は集合住宅になり、記憶の世界とはまったく違った光景が何事もなかったかのように空間を占領している。

 考えてみれば、数歳の子どもの行動範囲はなんと狭かったのだろう。地図を片手に一人で出歩いた行動圏を目で追うと、東は十二社通りを渡ったところにある熊野神社までだった。南は甲州街道、西は山手通り、北は方南通りに囲まれた、住んでいたアパートから大人の足なら片道5分程度のところが当時の私の行動圏だったことを改めて思い知った。ちょうど、こちらのブログの地図の範囲が私の行動圏とほぼ重なっている。時期も私が住んでいたときと重なる。

 もちろんそれより外側に出かけたこともあるが、そういうときはたいてい友だちと一緒だった。そういえばよく母と一緒に買い物に出かけた商店街はどこだったのだろうか? 現在の地図を見てもどこだったのか見当もつかないが、たしか方南通りを渡った先の路地だったと思う。

 あの頃はよくアパートの庭で虫とりをして遊んだ。もちろんアゲハチョウやキタテハ、シオカラトンボなどどこにでもいる普通種ばかりだったが、ときどき見かけるアオスジアゲハは別格の存在だった。黒い翅の中央にエメラルド色のグラデーションの帯が走る素晴らしく魅惑的なこのチョウがこんな都会の片隅にいることだけでも心がわくわくしたし、動きがすばやくて子どもには捕まえるのが難しいチョウだった。ときどき舞いこんでくる金属光沢に輝くタマムシにも心をときめかせたし、カマキリなども恐る恐る捕まえては遊んだものだ。夏の夕方にはどこに棲んでいるのかアブラコウモリがひらひらと舞っていた。コンクリートの冷たい建物が増えた今、はたしてどれほどの生き物が生きのこっているのだろう。

 行動圏の東の端にある熊野神社は一番変わっていない場所かもしれない。それでもあの頃とはだいぶ変わってしまったとどことなしに感じる。おそらく建物が改修されたり整地されるなどして少しずつ変化してきたのだろう。観光客の姿が見られるのもあの頃とは違う光景だ。

 熊野神社といえばやはり夏祭りの縁日が思い出される。今はどうなのか分からないが、あの頃は十二社通りから境内一杯に屋台がびっしり並び、それはそれは賑わっていた。お面、綿あめ、べっこう飴、カルメ焼き、得体の知れないジュースなどを売る屋台、金魚すくい、ヨーヨーつり、輪投げ、射撃などが所せましと並んでいた。今、境内を見回すと、この狭い場所にどうしてあれほどの屋台があったのだろうと思うくらいの広さしかない。視線の低い子どものことだから広く感じたのかもしれないが、なんだか拍子抜けするほど狭い。

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 熊野神社では梅がほころび始めていた。社務所にパンフレットが置いてあるのに気付いて手にしてみると、この界隈の歴史のことが書かれている(http://12so-kumanojinja.jp/page-01.html)。十二社の池のことも書かれているが、私が住んでいたころにもまだこの池は健在だった。ただし、有刺鉄線に囲まれて道路から緑色にどんよりと濁った池が垣間見えただけで、近寄りがたい不気味な池という印象しかなかった。だからこの池がかつて景勝地で料亭や茶屋があり、ボートや花火大会で賑わったなどということが書かれていて驚いた。神社の近くには滝もあったという。

 この池は昭和43年に埋め立てられたそうだが、以下のサイトにはかつての十二社池の写真や絵が掲載されている。

 http://ameblo.jp/sasabari/entry-11528230700.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/shinjyukunoyamachan/2846.html 

 昔の絵や写真を見ていて思い出したのだが、私が子どもの頃は十二社のごく一部に自然のままの地形が僅かに残っていた記憶がある(もちろん現在はきれいさっぱりなくなっている)。十二社あたりの古地図(明治13年測量、24年修正)を掲載しているサイト(http://collegio.jp/?p=86)があるのだが、今の西新宿一帯は角筈(つのはず)村で、どうやら畑や竹林、雑木林などが広がっていたらしい。もちろん十二社の池も描かれている。明治時代に角筈村に住んでいた人たちが今の光景を目にしたら、腰が抜けるほど驚くに違いない。古地図を見ていると、住宅とビルで埋め尽くされた今の西新宿の変貌に呆然とするばかりだ。

 十二社や角筈という地名は私が子どもの頃も使われていたが、なぜ西新宿などというつまらない地名に変えてしまったのだろう。地形や景色は変わっても、せめて地名くらいは残しておけないものだろうか。そんなことを思いながら熊野神社を後にした。

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