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2025/11/11

激動の時代に地球は持ちこたえられるのか

 少し前から周はじめ(本名 吉田元)氏の本を読み返している。周氏は、1930年今治市生まれで、学生時代に鳥類研究者の内田清之助氏や野鳥写真家の下村兼史氏に師事。二人の影響を受けてのことだと思うが、大学卒業後、北海道西別原野の友人の牧場で写真を撮りながら3年間の放浪生活を送った。その時の原野の自然や人々の暮らしを綴った著作は「カラスの四季」「原野の四季」「牧場の四季」「牧人小屋だより」として出版された。他に、「鳥と森と草原」や「草の中の伝説」などがある。

 

 私は学生時代に周はじめ氏の著作に出会い、彼の緻密で豊かな描写の文章に引き込まれてこれらの本を入手した。そこにはまだまだ原始の姿を留めた原野の姿がありありと描かれていた。私の世代以前の野鳥愛好家なら、周はじめの名を知る人も多いと思う。

 

 周氏が西別原野に移り住んだのは1953年のことだ。私が生まれる一年前になる。当時、道東の原野にはまだ電気すらなく、夜はランプやカンテラを灯し、川の水を生活用水としていた。暖房は薪ストーブ。馬や馬車が日常の交通手段であり、搾乳した牛乳を運ぶのも馬だった。私は長野県の上諏訪生まれで、その当時はもちろん電気も水道もあったが、北海道の東のはずれの原野では、まだまだそんな原始的な生活をしていたことを知って驚きだった。とはいうものの、その数年後には電気が通じ、それを機に人々の生活は大きく変わっていったという。

 

 もっとも私が生まれた頃も電化製品などというものはほとんどなく、電気を使うものといえば照明やラジオくらいだったのではなかろうか。家に冷蔵庫や洗濯機、テレビなどが入ったのは東京に越した幼児期以降だった。1950年代のはじめは、人々はまだまだ貧しい暮らしをしていた。人々の暮らしがどんどん豊かになっていったのは、私の小学生以降だったと思う。

 

 周氏は「草の中の伝説」で、人々が馬とともに生きた道東の開拓の歴史をたどっているのだが、原野に電気が引かれてから、人々の暮らしが大きく変わり、「馬の時代」が終わったことを惜しむように綴っている。その頃が、人々が化石燃料に頼らずに暮らした最後の時代なのだろう。電気が引かれ、道路が舗装され、自動車が馬にとって代わり、北海道の原野も変わり果てた。確かに格段に便利になり、重労働からも解放されたのだろうけれど、かつての原生的な自然は惜しげもなく切り開かれ、広大な農耕地へと姿を変えた。

 

 さて、それから70年ほど経った今、先進国は凄まじい発展を遂げ、私たちの暮らしは驚くほど豊かになった。動力といえば馬くらいだった時代から、生活のあらゆることが「電化」され、自家用車を持つことが当たり前となり、人々は自分の足で歩かなくなった。この70年ほどの間こそ、人類の歴史の中で一番劇的な発展を遂げた時代に違いない。そう思うと、私たちは何という目まぐるしい時代に生まれついたのだろうかと思う。

 

 斎藤幸平氏の「人新世の『資本論』」の第一章に「大加速時代における人間活動と地球システム」とのタイトルで1750年から現在までの人口、実質GDP、エネルギー消費、自動車の台数、大気中の二酸化炭素濃度、大気中のメタンの濃度、熱帯雨林の消失、漁獲量の推移のグラフが示されている。それらのグラフの1950年のところに線が引かれているのだが、どのグラフもその線を境に右肩上がりに激増している。1950年くらいを境に、化石燃料を大量に消費するようになったのだが、それこそ私が生きてきた時代と一致している。

 

 しかし、その利便性と反比例するように、地球はどんどん病んできている。先進国の発展は、グローバル・サウスからの搾取によって成り立ってきたのだ。斎藤幸平氏は、そのことを「ともかく、旧来の南北問題も含め、資本主義の歴史を振り返れば、先進国における豊かな生活の裏側では、様々な悲劇が繰り返されてきた。いわば、資本主義の矛盾がグローバル・サウスに凝縮されているのである」と書いている。豊かさを享受してきた私たちは、まずそのことを自覚する必要があるだろう。さらに斎藤氏はこう指摘する。

 

 しかし、人類の経済活動が全地球を覆ってしまった「人新世」とは、そのような収奪と転嫁を行うための外部が消尽した時代だといってもいい。
 資本は石油、土壌養分、レアメタルなど、むしり取れるものは何でもむしり取ってきた。この「採取主義」(extractivism)は地球に甚大な負荷をかけている。ところが、資本が利潤を得るための「安価な労働力」のフロンティアが消滅したように、採取と転嫁を行うための「安価な自然」という外部もついになくなりつつあるのだ。

 

 地球温暖化や環境汚染による影響は、すでに先進国の人々にも迫っている。ただし、まずは負荷を周辺に転嫁しつづけることで資本主義がすぐに崩壊するほどの致命傷にはならないだろうとも指摘する。斎藤氏は、米国の環境活動家ビル・マッキベンの次の言葉を引用している。

 

「利用可能な化石燃料が減少していることだけが、私たちの直面している限界ではない。実際、それは最重要問題ですらない。石油がなくなる前に、地球がなくなってしまうのだから。」

 

 人間の採取主義によって地球は限界に近づいており、資本主義が崩壊する前に地球は持ちこたえられなくなってしまうだろうという指摘だ。夏の気温が40°になっても、高市首相も他の多くの政党も、まだ「経済成長」を掲げ、大半の国民もそれを支持しているのだから、この指摘は的外れとは言えないのかもしれない。

 

 今やいたるところにソーラーパネルが設置され、風力発電も増えた。それにも関わらず、二酸化炭素の排出量は増えつづけている。いくら技術開発が進んだり再生可能エネルギーを増やしても、電気使用量は増えるばかりなのだから、二酸化炭素排出量が増え続けるのは当然だろう。事実が物語っている。そして、地球はどんどん壊れていく。気が付けば、野鳥も昆虫も激減している。きれいな水や空気、食べ物を育む自然環境は人の生活基盤だというのに・・・。

 

 さて、70年という人生を振り返ってみて、豊かさと幸福度は比例しているかと言えば、必ずしもそうではない。携帯電話もパソコンもなかった学生時代が不便だと実感したことなどなかった。電話など通じない山小屋は予約も不要で、気軽に山に登れたのはメリットですらある。スマホなどに時間を取られない分、自由時間も多かった。私たちは何でも便利になることがいいことだと思わされていただけではなかろうか。

 

 かつては洗濯した衣類は外に干して自然に乾燥させたが、今は乾燥機を使う人も多い。トイレで手を洗ったらハンカチで手を拭いたが、今はその必要すらない。電化させる必要など全くないことにまで無駄に電気を使っている。我が家ではテレビを見なくなってから久しいが、テレビなどなくても生活には何の支障もない。むしろ洗脳されずに済む。刈り取った稲も以前は天日で乾燥させたが、いつの間にか「はさがけ」の光景は見られなくなってしまった。「はさがけ」こそ自然エネルギーの有効利用だというのに。

 

 利便性に浸り過ぎれば、環境は破壊されるし人間はどんどん劣化していく。私などは、1970年くらいの生活レベルに戻してもいいとすら思っている。そのくらいの生活レベルに戻して経済成長も諦めれば(資本主義を止めれば)、まだ地球の寿命も延ばせるかもしれない。

 

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