「観る」から「撮る」へ
最近は、散歩をしていると望遠レンズ付きのカメラなど、野鳥や野生動物の写真を撮っていると思われる人をしばしば見かけるようになった。いわゆるアマチュアカメラマンだ。
私が若い頃は、野鳥や哺乳類などの写真を撮る人はとても限られていて、一部のプロのほかに趣味で撮っている人がぼちぼちいたくらい。何しろ、野鳥や哺乳類の写真を撮るためには長い望遠レンズや三脚が必要だし、お金もそれなりにかかる。重いカメラとレンズと三脚を持ち歩く体力や何時間も粘る忍耐も必要とする。だから、野生動物の写真を撮る人は限られていた。
野鳥を観ることが趣味だという人は、双眼鏡や望遠鏡を持っては公園や緑地、山や水辺に出かけていってはバードウオッチングを楽しんでいる。私も中学生頃から探鳥会に参加して野鳥を観るようになった。そういう人たちは写真を撮ることにほとんど興味はなく、ただただ自然の中を歩いては野鳥を観て楽しんでいた。私も「写真に撮って残したい」とは考えもしなかった。
今も双眼鏡を首から下げて野鳥を観ている人に出会うが、それ以上にカメラを携えている人が多くなった。デジタルカメラが普及し、フイルムの枚数を気にすることなく写真を撮れるようになったことの他に、小型でもズーム機能がある高性能のカメラも登場し、動物写真が一般の人にまで普及し浸透してきたということなのだと思う。それと、一般の人が自分の撮った写真を公表する場ができたことも大きい。ブログ、インスタグラム、フェイスブック、Xなど、今は誰もが作品を公表できる場が用意されている。
ネットの画像検索で野鳥の名前を入れれば、おびただしい写真が表示される。いかに野鳥の写真を撮る人が増え、それをネットにアップする人が多いのかが分かる。日本野鳥の会の「野鳥」誌も、昔は文章ばかりの雑誌だったが、昨今はカラー写真があふれている。誰もが野鳥の写真を撮る時代になったのだとつくづく思う。
先日、とあるナキウサギ生息地に行ってみたのだが、望遠レンズでナキウサギを狙っている人たちが10人ほどたむろしていた。岩場にナキウサギが姿を現すと、一斉にレンズが向けられる。こんな光景はもうずいぶん前から見られるようになった。
別のナキウサギ生息地では、あまりに写真撮影をする人が多くなって植物が踏みつけられてしまうとのことで、岩場に入らないようにとロープが張り巡らされた。そこも、何人ものカメラマンが押しかける。何回も来ている常連さんもいるようだし、たまたま来たような観光客風の人もいる。かつてはほとんど人が行かなかったような場所でも、ナキウサギの写真が撮りやすいという情報が流れると一斉に人が押し掛けるようになるのだ。こんな風になってしまうと、私などはその場所に行きたいとは思わなくなる。
野鳥なども同じで、猛禽が繁殖しているある場所では、営巣場所を見通せるところにやはり三脚を立てた人たちが群がっていた。一度、アマチュアカメラマンに知られてしまうと、「撮影場所」として定着してしまうのだろう。
東京近郊などでは、「どこそこに〇〇(珍しい鳥)がきている」などという情報が広まると、その写真を撮るために黒山の人だかりができるという。その光景を想像しただけでもぞっとする。私が若い頃には考えられなかったことだ。
野鳥や哺乳類などの写真を撮ること自体をとやかく言うつもりはない。野や山に出かけて動植物に親しみ写真を撮るというのは、ゲーム中毒になったりくだらないテレビを見ているよりもはるかに健全だと思う。私自身も、野鳥や哺乳類の写真はほとんど撮らないものの、昆虫写真は撮っている。もっとも私の場合は記録写真であって芸術的な写真を撮りたいという気はない。標本をつくる趣味はないので、種名を知りたければ写真に撮って調べるしかない。それが最大の目的だ。
ただ、野鳥や哺乳類の写真を撮る人たちのことで気になるのは、気遣いのなさだ。彼ら、彼女らを見ていると、ただただ「良い写真が撮りたい」という気持ちに駆り立てられているように思えて仕方ない。そのために、同じ場所に足しげく通っては何時間も粘っている。私には撮影欲の塊になっているように見えてしまう。そこに暮らす被写体である動物たちへの配慮というものがあまり感じられないのだ。
ナキウサギにしても、野鳥にしても、自分にレンズを向けている人たちのことはもちろん認識しているはずだし、それなりの影響を与えているに違いない。私なら、たとえ写真を撮るとしても何枚か撮影したら満足だし、何度も通って写真を撮りたいとは思わない。彼らの生息地をちょっとだけ覗かせてもらえれば十分で、あとはそっとしておいてあげたいと思う。
しかし、望遠レンズの砲列をつくる人たちにそういう気遣いがどうしても感じられないのだ。野生動物を「観て楽しむ」というより、とにかく「いい写真が撮りたい」という気持ちが強いのだろう。いちど写真を撮ることに嵌ると、少しでもいい写真を撮るためにシャッターチャンスばかりを狙うようになる。そうしているうちに、自分の撮影欲ばかりが強くなっているのではなかろうか。とにかく際限がなくなる。
撮った写真をネットにアップして「いいね」をもらうと、さらに「よりよい写真を撮ってアップしたい」という欲が深まる人もいるだろう。こうなると写真撮影が承認欲求を満たすことにもつながっていく。なんだか悪循環のような気がする。
私にとって自然の中を歩いたり野生動物を観るというのは、動物たちの鳴き声や様々な自然の音を聞き、風や匂い、日差しなどを体全体で感じることに他ならない。いくら素晴らしい写真であっても、そういったもの体感することはできない。自然の魅力はそこにある。
人を感動させる素晴らしい写真というのは確かにある。だから「撮る」ことも否定はしないが、まずは自然への気遣いや節度を持ってほしい。できるだけ「そっとしておく」という気持ちを持ってほしい。そして、五感で自然そのものを体感することを大切にしてほしい。そんな風に思っている。
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