自分の人生を生きれば戦争をなくせる
この国は(といっても海外に住んだことはないが)「周りの人たちに合わせていれば安心」という人がなんと多いのだろうかと思う。
子どもが小学生のとき、ある家庭で子どもにマウンテンバイクを買い与えたら、マウンテンバイクが流行ってびっくりしたことがあった。秋祭りになると子どもたちが神輿(本格的なものではなく手作りの小さな神輿)をかついで町内を回るのだが、法被の下に黒いハーフパンツ(サイクルパンツのようなパンツ)をはいてくる子がいたら、翌年は大半の子が黒のハーフパンツをはいていたこともあった。とにかく、1人、2人が始めたると周りの皆が真似をするのだ。子どもの間での「流行り」というより、親が「うちの子も・・・」となるのだろう。
近年は小学校の卒業式で女の子の袴が流行るようになったが、その心理もたぶん同じなのだろう。可愛い、かっこいい、と思ったら子どもも親も真似をする。それが伝染病のようにどんどん広まっていく。成人式の振袖や羽織袴も同じで、まったく個性というものがない。そして、そういう傾向はどんどん強くなっているように思えて仕方ない。
もちろん服装や持ち物だけではない。いつも他人にどう思われるかを気にし、陰口を言われないようにと周りに同調する人もいる。「周りの人が皆打つから」とか「周りの人から『反ワクチン』と言われたくない」、という理由でコロナワクチンを打った人も同じだ。
結局、他者と同じようにしたがるというのは、自分の人生を生きていないことに他ならない。自分の人生を生きていないというのは、他人の目や他人の評価を基準にして生きているということであり、自分の本心で生きていないということだ。いったいどうしてこんなことになってしまうのだろうかと思う。
私は若い(若いというより子どもの頃だったかもしれない)ときに、「他人にどう思われるか」とか「他人に嫌われないように振る舞う」という生き方を捨てた。なぜなら、自分がどうしても好きになれない人がいるのだから、自分のことを嫌う人がいるのは当たり前だし、自分の悪口を言う人がいるのも当たり前だと理解したからだ。そう考えると、「人に好かれるとか嫌われる」ということなどどうでもよく思えてくるし、他人に自分を合わせるなんて馬鹿らしいとしか思えなかった。ところが、世の中にはそのように考えない人がとても多いらしい。
いつも他人からどう思われるかということを気にしていたら、それだけで神経をすり減らし疲れてしまうだろう。そもそも、自分らしい生き生きとした人生を送ることなどできるはずもない。死ぬ間際に「もっと自分の本音で生きたかった」と後悔する人は多いようだが、死ぬ間際に気づいたのでは遅すぎる。
日本が太平洋戦争へと突入したとき、国もマスコミも「お国のため」「天皇のため」と国民を洗脳した。でも、それを心の中でおかしいと思った人はそれなりにいただろう。しかし、大半の日本人は「非国民」と罵られたり特攻に捕まることを恐れて戦争に反対も抵抗もしなかった。
ただ、戦争に駆り出された若者たちが本心で戦争を肯定していたとはとても思えない。息子を兵隊にとられた母親も、つらい気持ちを隠して送り出したのだろう。多くの人が本音を隠して口先では勇ましいことを言い命を落としたのだろうと思うと、何ともいたたまれない気持ちになる。
高校生か大学生の頃だったと思う。岩波新書の「兵役を拒否した日本人」という本を読んだ。詳しい内容はもう覚えていないが(本書は人に貸したら返ってこなかったので手元にはない)、軍国主義がはびこるこの国にも、兵役を拒否して抵抗した市井の人たちがいたことを知った。もちろん彼らは弾圧されたのだけれど、もしこのように本心を隠さず不服従を貫く人たちが大半だったなら、世の中はまったく違っていたのではないかと思う。
誰もが「人を殺したくないし、自分も殺されたくない」に違いない。ならば、少なくとも思想信条の自由がある限り私たちはその本音を隠してはならないし、その自由を奪おうとする者に抵抗しなければならない。それこそが戦争に加担しない唯一の道ではなかろうか。そのためには、思想信条の自由を決して手放してはならないし、日ごろから他人に同調せずに自分の人生を生きていなければならない。
今日は「敗戦の日」。とりわけ若い人たちは、自分の人生を生きてほしいと切に願う。
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