式根島とヤマトウシオグモの思い出
2001年8月末、私は母と伊豆諸島の式根島へ向かった。この年の8月は私はあちこちに出歩いていた。中旬にサハリンに出かけ、下旬には母が人で暮らす東京の実家に寄ってから沖縄で開かれた蜘蛛学会の大会に参加。そして再び実家にもどってきてから式根島に行こうということになった。式根島に行ってみたい、というのは母のたっての願いだった。急いで宿と船を予約し、29日の夜、竹芝桟橋初から船に乗った。夜行2泊の旅である。
なぜ式根島なのかといえば、それは父が若き日にその島で何日間かを過ごし、「トベラの島」という随想を残していたからだった。大島に旅に出た父はそこでSさんという女性に出会い、彼女の実家のある式根島を訪れることになった。その旅をつづったのが「トベラの島」だ。
船ではほとんど眠れないまま、30日の朝に式根島に降り立った。8月末といえばもう夏休みも終わり観光客もあまりいない。船を降りた人たちはマリンスポーツを楽しむ若者などが大半で、高齢の母と40代半ばの私はちょっと風変わりな旅行者だった。
式根島は面積がおよそ3,7平方キロメートル、周囲が12キロメートルという小さな島だ。島の形はちょっと北海道に似ている。島は岩礁に囲まれており、北東に野伏港と小浜港という二つの船着場がある。台地状の島の中央から東側が市街地になっている。西側は何か所か展望台があるあだけで自然のままになっている。南北が2キロメールほどしかないので、どこでも歩いていける。
朝、野伏港に降り立った私たちは、宿に荷物を置くとまずは島の南端にある地鉈温泉に向かった。「トベラの島」では「地獄」として登場する海中温泉だ。父が行った頃はこの温泉に降りる階段は岩に刻まれた狭くて急な道だったというが、今はすっかり整備されて手すりつきの階段になっていた。しかし自然の岩に囲まれた湯舟はおそらく昔とさほど変わってはいないのだろう。地熱で暖かいのか、岩の上には無数のフナムシがうごめいている。私たちは海風に吹かれながらしばしの時間をこの温泉で過ごした。父とSさんは夕暮れ時にランタンを手にこの温泉にきたというが、夜なら確かに地獄というのも頷ける。
地鉈温泉を後にして入り口の道路に戻り、足付温泉への道をたどった。トベラやツバキなどの常緑樹の中の道は人通りもなく、そこここにジョロウグモが網を張って道をふさいでいる。私は、母とのんびりと歩きながら、道沿いのクモにも目を凝らしていた。照葉樹林の島には、北海道では見られないクモが多くて楽しい。レストランで昼食をとってから石白川海岸に出て、その後は東要寺という島に一つだけあるお寺に寄った。このお寺も「トベラの島」に登場するが、お墓には花を絶やさないというのが島の習慣だという。その習慣だけは保ちたかったのだろうか、今はお墓に供えられた花はすべて色鮮やかな造花になっていた。
二日目は神引展望台に向かった。できれば西側(北海道の地図に見立てると渡島半島部分)をめぐる遊歩道を歩いてみたかったが、70代後半という高齢の母のことを考えて神引展望台だけに絞った。ここは島で一番標高が高いところだという。つまり、この島には山らしい山はない。展望台への歩道をゆっくりと登っていくと、眼下に岩礁海岸の素晴らしい光景が広がってくる。観光シーズンも過ぎて展望台には誰もいない。静かなひとときを楽しんでから、海岸沿いの遊歩道をたどって中の浦海水浴場、大浦湾海水浴場を回った。この二つの海水浴場は、岩礁に囲まれた天然の入江で、湾奥は美しく弧を描いた白い砂浜がある。8月末ともなると海水浴客もまばらで、私たちは静かな海辺で小休止した。
私は岩礁に海岸特融のクモがいるのではないかと気になり、母を砂浜に残して海岸縁をうろついた。岩礁にはイソハエトリがいた。そろそろ帰ろうかと思ったとき、砂浜の汀線付近を歩いている一頭の雄クモが目に入った。海岸のクモに疎い私はイソタナグモだろうか?と思ったが、上顎が長くて違う感じがする。他にも同じクモがいないかと母を砂浜に待たせたまましばらく歩き回ったが(歩き回るといっても小さな海水浴場なので行ったり来たりしただけだが)、結局その一頭しか見つけることはできなかった。
家に帰ってから、それがヤマトウシオグモであることを知り驚いた。ヤマトウシオグモは日本固有種で、満潮時には水没してしまう海岸の潮間帯に生息するという変わったクモだ。しかも個体数は多くない。満潮時は岩のくぼみや干潟の石の下などに住居をつくって潜んでおり、干潮時に餌を求めて徘徊するという。それまでは和歌山県の白浜が北限とされていたが、式根島での発見で伊豆諸島が北限かつ東限になった。式根島に生息しているのだから、伊豆諸島の他の島に生息していてもおかしくはない。きっと、誰にも気づかれることなくひっそりと暮らしているのだろう。
そんなこともあって、式根島は思い出深い場所となった。式根島を訪ねてから13年後の2014年に母は亡くなったが、まだ母が十分に元気だったあのときに行っておいて本当に良かったと思う。母も願いが叶い、よい思い出を胸に旅立てただろうと思っている。
この式根島への旅のことは、父の遺稿集「山の挽歌」のあとがきで少しだけ触れている。

ヤマトウシオグモ色鉛筆画






















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