再読の楽しみ
最近はあまり本を買わなくなった。そろそろ断捨離をして蔵書を減らさなければならなくなっていることが大きい。しかし、本を読まなくなったわけではない。私は、学校や職場に行くときも、必ず本を持ち歩いていた。電車の中とか、ちょっと時間ができたときに本を読めるように。旅行のときも文庫本をもっていくことが多い。高齢になった今も、全く本を読まない生活は考えられない。
本を増やしたくない(減らしたい)し、図書館も遠い。そこで最近は家にある本を再読している。正確には、家族が買った本などで読んでいなかった本も含めて読んでいる。そうやって再読をしていると、人は実に忘れやすい生き物だということを実感する。読んだはずなのに、覚えていないことばかりなのだ。本というのは、やはり2度、3度読まないと記憶に残らない。
最近読んだ本は、例えば夏目漱石の作品を何点か。かなり前に読んだものは、すっかり忘れていて一部を朧気にしか覚えていない。漱石の作品を続けて読んでみると、以前はあまり考えていなかった彼の思想などが浮かび上がってきて興味深い。漱石の作品の登場人物の大半は漱石自身を強く反映している。そして、彼は実業家が大嫌いだ。つまり、お金儲けばかり考えているような人物を嫌悪していた。資本主義のなれの果てのような今の社会を目の当たりにしたら、どんな風に思うのだろう・・・。
自伝と言われている「道草」を読むと、妻の鏡子さんとはずいぶんすれ違いがあったようだ。明治時代が男尊女卑が当たり前の社会であったとしても、女性の私としては、鏡子さんの肩を持ちたくなる。「門」の主人公「宗助」夫妻の貧しくも助け合って暮らす様は、漱石の望む夫婦像だったのだろうか。漱石は神経衰弱だとか胃潰瘍を患っていたが、おそらく彼はHSPという敏感体質だったのだろう。登場人物の心情の描写などもそれを感じさせる。明治時代の作品とはいえ、今読んでも味わい深い。
サル学者の河合雅雄氏の本も好きで、少年時代のことを書いた「少年動物誌」や「小さな博物誌」などはそれぞれ2回は読んでいるが、また読んだ。何度読んでも描かれている光景が瞼の裏に浮かぶ。今はほとんど失われてしまった自然の中での体験がどれほど人の成長に大きな影響を与えているのかと思うと、そんな遊びがなくなってしまった現状に心を痛める。
河合氏は動物学者の中でも特段に文章が上手い。彼の研究対象のサルに関する本もいくつか読んだが、やはりだいぶ忘れていた。動物学などは研究が進んでどんどん新しい知見が増えてくるが、それでも過去の本の価値がなくなった訳ではなく、楽しく再読した。
文章が上手いといえば、福岡伸一氏もそうだ。科学の専門的なことも巧な文章でつづられるとぐんぐん引き込まれていき、ミステリー小説を読んでいるかのようだ。「生物と無生物のあいだ」は、野口英世のことや、すい臓の細胞で作られた消化液が細胞の外である消化管に出ていくシステムのことなどは覚えていたが、忘れてしまったこともいろいろあった。
たとえばPCR検査。コロナ騒動ですっかりおなじみになったが、本書にはPCR検査のしくみや、開発したキャリー・マリスに関する逸話も書かれている。ところが、コロナ騒動のときには、すっかり忘れていた。コロナでPCR検査が始まったときに読み返していたら、ずっと理解が早かっただろうと悔やまれた。
今はチンパンジーの研究者であるジェーン・グドールさんの本を読み返している。彼女の自伝である「チンパンジーの森へ」では、甘やかされて育ったチンパンジーの子どもが、妹が生まれても母親から離れることができず、母親が死んでも自立できずに後を追うように死んでしまったという話が書かれている。まるで自立できずに親に依存しつづける人間の子どもと変わらない。
まだまだ再読したい本は山のようにある。いったい、どれだけ読めるのだろうか? そんなことを考えながら少しずつ読み進めている。
昨今は読書離れが著しいと聞く。多忙で本を読む時間がないのならなんとも寂しいが、そもそも本を読みたいと思わない人が増えているなら嘆かわしい。本は「心の糧」に他ならないのだから。
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