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2025/04/03

欲と悪

 私は子どもの頃、知恵ある人類はもう戦争など起こさずに平和な社会を築いていくのだろうとなんとなく思っていた。なにしろ日本は太平洋戦争で大きな痛手を受け戦争放棄を宣言したのだし、戦争がどれほど残酷で悲惨なものかは子どもだって理解できる。

 

 しかし、実際にはその後も世界のあちこちで戦争が繰り広げられている。人はいつまでたっても過去から学ばないし、残忍なことも平気でできるのだと痛感した。もちろん戦争を起こそうとする人たちは、自分だけは安全なところにいて命令をしているだけなのだけれど、残忍であることには変わらない。いったいヒトという生物の残忍さはどこからくるのだろうか? そんなことをよく考える。

 

 先日、霊長類学者の故河合雅雄氏の本「サルの目ヒトの目」(平凡社)を読み返していたら、こんなことが書いてあった。

 

 河合氏がゴリラの調査でアフリカのウガンダとコンゴに行ったときのこと。1959年に未開の数種族の人々と接したときは、どの人たちも親切で人懐こかったという。ところが、それから10年ほどたってから再訪したとき、ウガンダは治安が悪化して殺人強盗事件が多発し、身の危険を感じたというのだ。10年の間に文明国から様々な物が入り込むようになり、人々は物欲で強盗までするようになったそうだ。河合氏は、こんな風に書いている。

 

 ウガンダはもともと豊かな国である。赤道直下だけに気候は温和で、主食であるバナナは放っておいても年中実っている。100坪もの土地にバナナを植えておけば、一家は食べるのに苦労しない。パパイヤやマンゴーなどの果物も豊富にある。夜はバナナ酒を飲んで、歌って踊り、眠りにつけばいいのだ。働かなくても、食べるには事欠かない。いわば天国のような国である。
 そこへ消費文化という、文明が生んだ怪物が侵入してきた。ひとびとはたちまちのうちにその毒気に当てられ、心を蝕まれてしまった。物質欲がいつも心の飢餓感をあおり、純朴で平和な心はすっかり荒れ果ててしまったのである。

 

 文明国から持ち込まれた自動車や洋服は、それまで穏やかな暮らしをしていた人々に強烈な物欲をもたらしてしまったらしい。その物欲は簡単に「悪」へとつながっていく。この人に備わった強欲こそが、悪の根源ではないかと思えてならない。

 

 河合氏の同書では、狩猟採集民族であるピグミーやブッシュマンの社会のことにも触れていて、彼らは狩猟で獲った獲物は射ちとったものが少し優先権を持つだけで、あとは全く平等に配分するという。彼らの社会では特定のリーダーが存在せず、平等主義に貫かれていると。この平等主義はおそらくアイヌやイヌイットなどでもほぼ同じではないかと思う。

 

 また、平等なだけではなく協力的な社会でもあっただろう。例えば、家を作るときもコミュニティの人たちが協力し皆で建てただろうし、大きな動物を狩る場合も基本的にはグループで協力して行っていただろう。人が地球の生態系の中で狩猟採集民として暮らしていた頃は、人の社会は基本的に協力的で平等な社会だったに違いない。そんな平等の社会であれば、「自分だけ多く持ちたい」などということは許されないし、物欲というものも表立って出てこないのではなかろうか。また、非協力的で自分勝手な行動をしていたら、コミュニティで生きていけないだろう。だから、支配的な自己中人間は存在できない。

 

 それから、争いごともなるべく避けていたのではないかと思えてならない。なぜなら、ヒトの繁殖力は高くはない。子どもは通常一人しか産めないし、成人になるまでに何年もかかる。寿命もさほど長くないだろうから、戦いをして仲間を失ってしまうのはその民族やコミュニティの存続には大きな痛手になる。ヒトという生物は、協力的で平等で平和を重視する社会を選択したのではないかと私は想像している。

 

 しかし、やがて農耕や牧畜などを始めたことにより、「富」を手にするようになった。そして、自然の生態系から次第にはみ出してさまざまな「物」を作り出すようになった。その富をコミュニティの中で平等に分配していれば大きな問題はなかったのではないかと思う。しかし、ひとたび富を手にしてしまうと自ずと欲が出てくるのだろう。この欲こそが悪の根源ではなかろうか。ウガンダの人たちがたった10年ほどで、「欲」におぼれてしまったように、富の偏在は人々に妬みを抱かせ、悪に手を染めてしまうことになりかねない。

 

 「欲」はもちろん物欲に限らない。富を手にすると多くの人は「お金さえあればなんでもできる」と思ってしまうようだ。欲しいものがなんでも手に入るようになると、支配欲や権力欲が頭をもたげてくる。そんな物欲や支配欲が極限にまできてしまったのが現代社会なのかもしれない。利権などというのも、お金と支配の構造にほかならない。戦争も、欲と軍事産業の利権によってつくられる。

 

 現代の資本主義社会は富の偏在があまりに極端になってしまった。気の遠くなるような莫大な財産を手にしている億万長者もいれば、その日食べるものすらない人たちまでいる。そして、支配欲、権力欲が強まった人たちは、自分たちこそ社会の勝者であると勘違いし、他者を支配しようとし、その自分の目的の達成のためには、騙しでも邪魔な者の排除でも何でもやる。資本主義というのは「欲の製造システム」ではないかと思う。

 

 ここまできてしまうと、果たしてこれを正すことはできるのだろうかと思えてくる。いくら税金によって富の偏在を小さくしようとしても、富める者は富を手放さないためになんでもやるだろう。こんな社会を見ていると、ため息がでてしまう。

 

 もっとも、こんな社会であっても、物欲がさほどなく定常的な生活を送って幸福感を得ている人もいる。定常的な生活というのは、余計な消費はせずに物を使い切るという生活だ。衣類なら傷んだりよれよれになるまで着、電化製品や自動車なども修理しながら使えなくなるまで使う。無駄な消費をしなくても幸福な人はたくさんいる。しかし、消費することに慣れ、他者の目を気にする人ほど物欲が強くなる。

 

 また、物欲はさほどないのに支配欲の強い人もいる。例えば、家族や部下を自分の望み通りにさせたいような人だ。このような人は、おそらく協力的な生き方を選択せず、自分の利益を優先する生き方を選択したのだろう。いずれにしても、物欲や支配欲というのは個人の考え方で強くも弱くもなるものなのだけれど、いちど欲にはまってしまった人は、そう簡単にそこから抜け出すことはできそうにない。

 

 人が、本当に争いのない平和な社会を築いて維持していきたいのなら、やはり原点に戻って協力的で平等な社会システムへと変えていくしか道はないのではなかろうか。そういう社会では、悪へとつづく「欲」そのものが抑制されるのだろうと思う。人は、言葉でコミュニケーションできる生物だし、理性や良心、知恵も持つ。トラブルは話し合いで解決を目指すべきだし、平和に暮らしている狩猟採集民族から学ぶなら平等で協力的な社会の構築も不可能とは言い切れない。

 

 とはいうものの、ここまで酷い社会になってしまったのに、いまだに資本主義を支持し、経済成長にこだわる人が大半なのだと思うと、なんともやりきれない気持ちになる。落ちるところまで落ちないと気づかないのだろうか。

 

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