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2025/03/11

震災から14年に思うこと

 東日本大震災、そして福島第一原発の過酷事故から14年を迎えた。テレビやネットに流れてきた大津波の映像は今も頭の片隅から消えない。あの巨大地震によって自然の驚異を見せつけられた(人工地震という説もあるが、それが事実だったとしても自然に発生する巨大地震の時期を早めたにすぎないだろう)。

 

 原発の建屋が吹き飛んだ映像は腰を抜かすほどショックだった。「とうとうやってしまった・・・」と。原発事故は間違いなく人災だ。そして、今も事故の収束には程遠い。あれ以来、ふたたび福島第一原発に大地震や大津波が襲ったらと、ずっと不安な日々を過ごさねばならなくなった。

 

 あの大事故で私たちは「原発は決して安全ではない」ということを身をもって経験したはずだ。福島第二原発も女川原発も大事故をおこす寸前だった。能登の地震でも、志賀原発は危うかった。プレートの境界に位置する日本は、必ず大地震に襲われる。そんなところに原発を建て続けたことが大きな間違いに他ならない。このまま原発を稼働させ続けたら、いつかふたたび大事故を起こすだろう。それが福島の教訓だった。

 

 福島の原発事故で、日本の原発が一斉に稼働を停止したときには心底ほっとした。もちろん燃料プールに使用済み燃料が保存されている以上、安心・安全ではない。しかし、稼働していないというだけで、どれほど安心感がもたらされたことか。福島の原発事故は、原発依存から抜け出すチャンスだった。

 

 ところがどうだろう? あれから日本は廃炉どころか再稼働の道に足を踏み入れた。そして、私たちは大きな地震が起きるたびにまた恐怖に襲われることになった。大津波は予見できたにも関わらず、裁判で東電の責任者たちは何ら責任をとらずに終わってしまった。なんという無責任な国なのだろう。

 

 原発事故が起きれば大地は汚染され、そこに住む人々も動植物も被爆する。そして、福島の事故を見ればわかるように、事故の収束すら見通せないことになりかねない。事故処理のためにも作業員は被爆を強いられることになる。被爆で病気になった人、今も避難している人が大勢いる。原発事故というのはあってはならない人災だ。

 

 結局、日本は福島の事故に学ぼうとはしない。アメリアだって大地震が起きる可能性のある場所には原発は建てないというのに、日本はそんな当たり前のことですらできない。人々の命や暮らしより、利権や利便性が大事なのだ。

 

 北海道では半導体生産のラピダスで大量の電気が必要だという。だから、泊原発を再稼働させたくて仕方ない人たちがいる。しかし、原発事故のことを考えるのなら、半導体生産の方を考えなおすべきではないか。なんでもかんでもデジタル化を進め、ITだとかAIに頼ろうとするから半導体が必要になる。それを止めればいいだけではないか。

 

 デジタルをいっさい否定するつもりはないが、なんでもデジタルにすればいいというものではない。そんなことを続けていたら、人は機械や人工知能に振り回され、人間らしい生活からどんどん遠ざかっていくだろう。人は頭や体を使ってこそ健全な生活が送れるのだろうと私は思っている。頭や体を使わなくなればなるほど、心も体も蝕まれていくように思えてならない。

 

 震災、原発事故から14年。教訓から学ぶどころか、相変わらず利権にしがみつくこの国に希望を持つことができなくなっている。

 

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