きままなる旅に思う
5月になり、木々の枝先には日に日に明るい緑が広がっていく。この季節になると、萩原朔太郎の「旅上」という詩を思い出す。
旅上
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
この詩は1925年に発行された「純情小曲集」に収められている。萩原朔太郎は1886年生まれだから、おそらく30代の頃の作品だろう。今からおよそ100年前の詩だ。
木々が芽吹いてまぶしい緑に包まれる春の日、新しい背広を身にまとい、ふと思いついたようにきままな旅に出かける。汽車はもちろん蒸気機関車で車輪の音がゴットンゴットンと響き、座席は硬く座り心地は悪い。でもそれは当たり前のことで、気にもならない。都会の喧騒を離れて自由になれることが何よりも嬉しい。そして山あいの光景を眺めながらひとり旅に思いをはせる・・・。
私は若い時にこの詩を知ったのだが、情景が目に浮かぶだけではなく、自分自身が同じように汽車に乗っている気持ちになった。私の子どもの頃はまだ蒸気機関車が走っており、規則的な車輪の音は今も脳裏に残っている。学生時代(たぶん萩原朔太郎がこの詩を書いてから半世紀ほどたった頃)でも、まだこの「旅上」に近い旅行はできたように思う。さすがに蒸気機関車はなくなっていたが長距離の鈍行列車や急行列車は健在だったし、週末に思い立ったようにふらりと野や山に出かけることもあった。携帯電話などというものに振り回されることもなかった。
私がはじめて遠出の一人旅に出かけたのは、大学2年のときの北海道旅行。周遊券を買い、東京から北海道までの列車は指定をとったが、北海道内は急行の自由席や鈍行列車で移動し、宿は主にユースホステルに前日に電話をして泊まっていた。一応計画は立てたけれど、けっこうきままな旅だった。その後も、似たような旅は何回かしている。
しかし、今はどうだろう? ちょっと遠出するとなれば、ネットで飛行機や列車の指定席を予約し、ホテルを予約する。乗り物は空調が効いているし座席の座り心地も良く快適だが、窓は開かない。新幹線などは速度が速すぎて近くの風景は飛ぶように流れ、のんびりと景色を楽しむという感じではない。かつての鈍行列車のように、ボックス席で見知らぬ人と語らうこともない。
亡き母は、父が亡くなってから東京(高尾)からお墓のある上諏訪まで中央本線の鈍行列車で往復するという一日がかりのお墓参りをしていた。母も特急で行くよりものんびりと鈍行列車で行くのが性に合っていたようだ。その気持ちはとても良く分かる。しかし、今は高尾から上諏訪まで乗り換えなしで日帰りで往復できる列車はなくなってしまった。そして特急の「あずさ」は自由席もなくなった。
以前、母と私と娘2人の4人で、上諏訪への墓参、霧ヶ峰散策、そして志賀高原へと旅行をしたことがあったが、この時も鈍行列車を利用しての旅だった。志賀高原からの帰りは思いつきでバスで草津白根を経由して草津に行き、吾妻線と高崎線を乗りついで帰った。列車の予約などをしていないからこそできる気ままな旅だったと思う。
昨今は時間短縮や快適さは増してきたが、料金は上がる一方で貧乏旅行ができなくなってきている。そして自由できままな旅もどんどん遠のいているように思う。私のような田舎住まいの高齢者はこういう変化になかなかついていけないし、新幹線や特急ばかりの旅は情緒もなく寂しく思う。
果たして速さや快適さばかり追い求めることが本当に幸せなのだろうか? のんびりとした暮らしやきままな旅だって大切なんじゃなかろうか? 萩原朔太郎の「旅上」を思い出すたびに、利便性を追い求めた人類は、何か大切なものを失ってしまったように思えてならない。ゆったりと流れる時間、移りゆく自然の風景を愛おしむ心、予定にとらわれないきままさ、見知らぬ他者との交流などといったものを・・・。
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