山本太郎批判は野党を分断し与党を利するのか?
私はツイッターでれいわ新選組(以下れ新と略す)や党首である山本太郎氏の批判をしているが、「野党支持者が山本太郎氏の批判をするのは野党の分裂につながり自公を利するからやめるべきだ」という意見をときどき見かける。しかし、私はこうした意見には賛同できない。与野党問わず、政治について批判的な見方をすることは「どのような社会にしたいのか、そのためにはどうすべきか」という提言と共に非常に重要なことだと思っているからだ。そこで、政治に関する批判について私見を述べておきたい。
政党の政策や政治家の姿勢について意見を持ち発言することは当然の権利だし、おかしいと思うことを率直に言えるというのが民主主義の基本であり表現の自由だ。この権利は誰も侵してはならないし、そもそも他人の口を封じることなどできない。平和で安心して暮らせる社会を構築するためにも政治に対して批判精神を持ちつつ合意形成によって社会をより良く変えていくことは、国民としての責務だと思う。
ただし、批判する相手は政党の政策や、公人である政治家、政党党首のほか、影響が大きく公人に準ずる立場である著名人や知識人、文化人、専門家、ジャーナリストやメディアに限るのが基本だと思う。政党や、公人および公人に準じる立場の者に対する正当な批判は公共性や公益性があり、虚偽でなければ通常は名誉棄損に問われることはない。
従って、私は自分とは意見の異なる一般人に対して名指して批判することは原則としてしないようにしている(ただし事実誤認は指摘することがある)。個人がどの政党を支持するかも、政治的にどのような考えを持つかも自由であり、それにいちいち反応して目くじらを立てるのは思想信条の自由を尊重する態度ではない。自分の主張はするが、他者の主張も尊重するというのが民主主義のルールだ。
立憲民主党も共産党もれ新も自公政権を倒したいという方向性は同じだが、基本的考え方や政策は異なっている。だから、立民支持者が共産党やれ新の政策や政治家を批判することもあるだろうし、共産党支持者が立民やれ新の政策や政治家を批判することもあるだろう。れ新の支持者にも同じことが言える。
野党支持者であっても人それぞれ考え方が違うのだから、個々の政党の掲げる政策や政治家の姿勢が納得できなければ批判するのは当然のことだ。そうした批判は野党内の紛争や分裂とは言わない。公党や公人である以上、批判は受けて立たねばならないし、誠実に対応すればいいだけの話だ。
野党の政党同士がいがみ合っていれば、確かに与党を利するだろう。しかし、今は野党は共闘を進めておりいがみ合いはそれほどない。では、冒頭で述べた「野党支持者が山本太郎氏の批判をするのは野党の分裂につながり自公を利するからやめるべきだ」という主張はどうして生じるのだろうか? 私は、意見の異なる野党支持者同士が言い争うことが問題ではないかと思っている。
一般市民の論争や紛争は個人的な権力闘争(論争での主導権争い)であり、公共性も公益性も乏しい上に一般の人に悪印象を与えてしまう。野党支持者同士の批判と応戦は内紛と見られ、無党派層から敬遠されて与党を利することにもなりかねない。本来なら政策や政治家そのものに対して批判をすべきなのに、批判の矛先を一般市民の言論に向けることで内部紛争を印象づけかねない。
そもそも、なぜ野党支持者同士が争ってしまうのか? 私は「議論」そのものを否定するつもりはないが、議論というのは意見を異にする者たちがお互いに理解を深める努力をすることでより良い提案をしたり問題解決を図るためにするものだと思っている。だから、そういう姿勢がない人と議論しても意味がない。
そういう姿勢がない人というのは、競争心が強く劣等感の強い人ということになる。このような人は相手を言い負かすために議論をふっかけて相手の意見を否定する。あるいは自分の意見こそ正しいと主張して相手を説得したり屈服させようとする。これは意見の強要であり他者の支配ともいえる。ツイッターで個人の意見に反論してくる人の大半はこのようなタイプだ。
反論の目的が初めから個人間の「権力闘争」や意見の押しつけだから、建設的な意見交換にはなり得ない。もし個人に対して異論や反論があるのなら、個人に直接返すのではなく「こういう意見があるが、自分はこういう理由でこう思う」と主張すればいいのだ。こうすれば紛争状態にはならない。
一市民の見解を否定して論争をふっかけてくる人達は、批判の矛先を間違えていると思う。れ新の支持者が、れ新の政策こそ正しく他の野党の主張は間違っていると考えるのなら、他の野党の政策のどこがどう間違っているのか主張するのが筋だ。一市民を批判するのはお門違いというものだろう。
だから、私は政治問題で異論・反論をふっかけてくる人は原則として対応しないことにした。相手の土俵に乗りさえしなければ紛争状態にならないし、第三者が見ても内部紛争を起こして与党を利しているようには見えないと思う。
最後に、なぜ私が山本太郎氏の批判をするのか、今一度明らかにしておきたい。
一つは、彼の財政政策だ。彼の主張する消費税廃止とMMTを基にしたバラマキ政策を実行したなら、最悪の場合財政破綻を招きかねないし、財政破綻しなくとも将来世代に大きな負担を強いることになる。具体的には過去記事をお読みいただきたい。
二つ目は、彼の主張の正しさの問題がある。彼は、誤った認識(例えば今はデフレだという主張)を振りまいたり、不正確な言説を振りまいたり、誇張やミスリードをしたり、根拠を示さず他の野党の批判をしている。具体的なことはツイッターやブログで指摘しているのでここでは言及しないが、多くの人が同じ指摘をしている。
三つ目は、彼の手法の問題だ。私の目から見れば、彼の街宣は明らかにマインドコントロールの手法と重なる。マインドコントロールとは、あたかも自分の意思で選択したかのようにあらかじめ決められた結論に誘導する技術や行為のことを指す。要は騙しだ。例えば複雑な物事を単純化して繰り返すことで刷り込むという手法がある。増税を嫌う市民感情を利用し、消費税の欠点だけを強調して悪税と断言したり、複雑な経済を無視して消費税廃止が景気回復につながると断定し、消費税廃止論に誘導することなどもマインドコントロールだろう。弱者の不安や不満を利用して「こうすれば一挙に解決する」と提示し安心感や希望を与えたり、他の野党の批判をして差別化を図ることで自党こそまっとうな政党であると印象づける手法も当てはまると思う。
こうした手法はナチスでも用いられていた。以下の記事にゲッペルスの宣伝術について詳述されているが、とても興味深い。
これを読むと、宣伝は識者ではなく大衆にのみ向けるべきであること、宣伝は大衆の注意を喚起するものでなければならず大衆の感情的観念界をつかんで心に入り込むことが必要であること、重点を絞りスローガンのように利用し継続的に行うこと、などの手法を用いていたことが分かる。「街頭を征服するものは、いつか必ず国家を征服する。なぜならあらゆる権力政治や独裁政治はその根を街頭にもっているからである」などという記述にはドキリとさせられる。こうした手法を山本氏が自覚しているかどうかは分からないが、彼の街宣にかなり当てはまる。
街頭記者会見の質問でも、真正面から答えられないことに関しては質問の趣旨から逸れた自説を主張して、なかば誤魔化してしまう。図表などを使い、一見、ていねいに説得力のある説明をしているように見えるが、正面から答えられないことに関しては論点を逸らして自己主張にすり替えるところは非常に巧みだ。
四つ目は彼の矛盾した言動だ。野党が共闘しないと与党を利することになると言いながら、野党共闘の話し合いに積極的に参加する姿勢がない。それどころか「だらしない野党にお灸を据える」「消費税5%に同意しなければ共闘できない」などといって、野党に刺客を立てると言う。野党を分断し与党を利する行為に他ならない。明らかに矛盾した言動だ。実に傲慢であり、合意形成を重視しているとはとても思えない。
五つ目は、政党組織の問題がある。最近になって党の綱領や規約がHPにアップされた。私はこれを読んで仰天した。代表や役員の選出についての規定が何もない。しかも、この規約に定めていない事項については代表が決定する(第12条)とのこと。民主的な党運営どころか代表の独裁政党といっても過言ではない異様な規約だ。山本氏の独裁的性格がよく表れている。
以上のことから、私は山本太郎氏は独裁的で危険な人物ではないかと疑っている。
れ新支持者で立民支持者を批判、攻撃している人が一定程度いるが、立民支持者を批判するのではなく、是非とも立民の政策や政治家の姿勢について具体的に根拠を示して批判してほしいと思う。そうしてこそ、公共性・公益性のある批判になる。
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