資本主義がもたらしたバッシング社会
オリンピックにはほとんど関心がないが、オリンピックが始まるとメダルの数や選手に対する期待の強さに辟易とする。と思っていたら、リテラにこんな記事が出ていた。
平昌ではジャンプの高梨沙羅が標的に・・・五輪選手への道徳押しつけバッシングの異常! 今井メロや國母和宏が心境告白
スノーボードハーフパイプで予選落ちした今井メロ選手に対する嫌がらせ、高梨沙羅選手、國母和宏選手、里谷多英選手、安藤美姫選手らへの異常なバッシング。これらは批判(物事に検討を加えて、判定・評価すること)といえるものでは決してなく、単なる暴言、悪口だ。ここまで酷いのかと思うと、気分が悪くなってくる。
これらのバッシングは、選手に対する過大な期待だけの話しではない。何でもいいから批判できることを探しては叩く、つまり人を叩くこと自体が目的になっている人たちが一定程度いるということだ。
思い返せば、2004年にイラクで日本人の3人の若者が拘束された時のバッシングも凄まじかった。あの頃はインターネットも広く定着してきた時期だったが、人質になった今井紀明さんのところには罵声や嫌がらせの電話のほか、大量の非難の手紙が送られてきて、彼はしばらく部屋に引きこもったという。
近年では、2015年から2016年にかけて活動した安保法制案に反対する学生グループSEALDsのメンバーに対する異常な攻撃もあった。ネット空間で名指しで攻撃されてもまったく平気で動じないという人はほとんどいないだろう。自分は決して傷つかない匿名で、他人を傷つけることこそがバッシングする人たちの目的なのだろうと思うとおぞましい限りだ。
匿名で言いたい放題にできるインターネットが、バッシングや炎上を広げていることは間違いないだろう。しかしリテラの記事にあるように、言いがかりとしか言いようがないことでバッシングするというのはもはや常軌を逸している。鬱屈した人間が異常なほどに増えてきているとも思う。
ツイッターを見ていても、他人の意見にいちいち言いがかりをつけたり揚げ足取りをする人の何と多いことか。この精神の歪みは、やはり社会を反映しているものなのだろう。他人をバッシングして憂さ晴らしをするという精神の根底には、競争社会と格差の拡大が間違いなくある。
競争というのは、自分がのし上がるために他人を蹴落とすことでもある。競争をさせられると周りの人たちはすべて敵になってしまう。そして「敵か味方か」「勝ちか負けか」という物の見方をするようになる。競争に勝った人は負けた人たちを見下すことになりかねない。また、競争に負けた人たちは、他人の粗探しをしてバッシングすることで優越感を得ようとする。妬みや恨み、復讐心に満ちた世界に平和などない。
「他人の不幸は蜜の味」という言葉があるが、他人の不幸を喜ぶという心理は、人間のネガティブな感情に起因するらしい。こちらの記事によると、以下のようなことが分かってきているそうだ。
“相手に対して「妬み」の感情を抱いている時、脳はその人の不幸を、より強く「喜び」として感じます” “一方で私たちは、相手に特に妬みの感情を抱いていない場合、不幸にみまわれた人を心配したり、かわいそうな境遇にいる人に同情したりします”
日本では子どもの頃から競争にさらされ、勝者と敗者に分けられていく。さらに富裕層と貧困層の二極化が進めば進むほど、ネガティブな感情が渦巻いていく。こうしてバッシングの土壌がつくられていくのだろう。その根源は人々を競争に追い立て、挙句の果て格差を拡大させた新自由主義的な資本主義に行きつく。このまま資本主義を続けようとする限り格差はさらに拡大し、バッシング行為は激しくはなっても収まることはないだろう。
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