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2017年11月

2017/11/27

福島の原発事故による被ばくで健康被害は生じないと断定できるのか?(追記あり)

 ここ数日、映画監督の想田和弘さんが早野龍五氏の姿勢を批判したことで想田さんに対する攻撃が続いている。私も「福島の原発事故による被ばくで健康被害は生じない」と断定的な発言をしている菊池誠氏などに対する批判的なツイートをしたのだが、菊池誠氏や早野龍五氏らの批判をすると攻撃的なツイートが湧いてきた。まるでネット右翼の様相だ。

 私の言いたいことの要点は以下。

 福島の原発事故後には体調に異変を来たしたなどの報告が多数あったし、福島県で行われた小児の大規模な甲状腺検査では多数の甲状腺がんが確認された。福島の原発事故よる被ばくと健康被害の因果関係については現時点では明確に否定できる状況ではなく、「健康被害は生じない」と断言するのは科学的な態度ではない。

 私のツイートにムキになって揚げ足取りのいちゃもんをつけてきた人が何人もいた。自分の身分も示さず匿名でいちゃもんをつける人にいちいち返信するつもりはないが、ここでは、現時点で「福島の原発事故による被ばくで健康被害は生じない」などと断定できる状況ではないと考える理由についてまとめておきたい。

過剰診断説について
 健康被害は生じないと主張する人たちは、福島の場合、検査によって放置しても問題のない癌を見つけているだけで、多発ではなく多発見だと主張する。その根拠として持ち出すのが韓国での成人の甲状腺検査のデータだ。これに関しては国立遺伝学研究所の川上浩一教授が以下のように指摘している。

 福島の小児の甲状腺検査によるがんの多発に関し、検査によって問題のない良性のがんが発見された可能性があることは否定しない。超音波診断の専門家である筑波メディカルセンター病院乳腺科の植野映氏は、超音波検査では微小甲状腺癌が多数発見されることを指摘している。また「福島県外でのスクリーニングは論外である。これは香川の武部晃司先生(たけべ乳腺外科クリニック)も述べているが,彼は私と同じく,超音波による甲状腺癌のover surgeryを唱えており,小児でも同じであると警鐘を鳴らしてきた」と書いている(https://togetter.com/li/900034 参照)。ただし、成人と小児でスクリーニング効果が同じであるとするデータは示されていない。

 福島の小児の甲状腺がんで重視しなければならないのは、転移をするような悪性のがんの発症率や、がんの進行速度であろう。これに関しては、手術を行った鈴木真一氏が「過剰診療という言葉を使われたが、とらなくても良いものはとっていない。手術しているケースは過剰治療ではない」と主張しているし、手術している子どもにリンパ節転移をはじめとして深刻なケースが多数あることが分かっている(リンパ節転移が多数=福島の甲状腺がん 参照)。放置しても問題がない良性のがんが検査で見つかっているだけであるなら、なぜ転移もしていて手術が必要な深刻ながんが多数見つかるのだろう。

 私はテレビを見ていないのだが、昨日はNHKのBSスペシャルで「原発事故7年目 甲状腺検査はいま」という番組が放送された。この放送を見た方がこんなツイートしている。

 1巡目で発見されないのに2巡目で悪性腫瘍が見つかった子どもが60数名もいたのであれば、がんの進行が非常に速いということではなかろうか。

 なお、福島とチェルノブイリで甲状腺被ばく量を比較すると、福島の場合は圧倒的に被ばく線量が小さいので、福島での甲状腺がんの多発は放射線の影響とは考えにくいという意見がある。しかし、staudy2007氏の「見捨てられた初期被曝」(岩波書店)では、福島では事故直後に速やかに被ばく量検査が行われなかったために被ばく量の推計を著しく困難にしてしまったこと、3月26日から30日にかけて1080人の小児に対して行われた甲状腺被ばく調査は過小評価であることが指摘されている。

 被ばくと健康被害の因果関係を証明するのはきわめて困難であり、数十年にわたる疫学調査が必要だ。チェルノブイリの原発事故でもスクリーニング効果があることは分かっており、甲状腺癌と被ばくの関係について決定的なエビデンスを得るまでに約20年かかっている(チェルノブイリ甲状腺がんの歴史と教訓 参照)。

 福島の場合も、現時点で「被ばくによる健康被害はない」などと断言できる状況ではないと思う。

ホットパーティクルに関する最新の知見について
 私は原発事故による人工放射能の問題について、「科学と認識」というさつきさんのブログをしばしば参照し、紹介もしている。さつきさんは大学の教員であり、放射線に関して専門的知識がある方だ。とりわけさつきさんが今年8月に紹介している福島の事故で放出されたホットパーティクルに関する論文は興味深い。その概要とさつきさんのコメントは以下だ。

放射性セシウム微粒子についての最新の研究論文の紹介(その1) 
放射性セシウム微粒子についての最新の研究論文の紹介(その2) 
放射性セシウム微粒子についての最新の研究論文紹介(コメント) 

 私は専門的なことは分からないが、さつきさんは「コメント」で重要な指摘をしている。その部分を引用したい。

 ポイントは、この論文の要旨で「CsMP は、放出された放射性核種のうち体内に吸引摂取され得る形態のものを運搬する重要な媒体であった」と指摘されている点であり、また、イントロに書かれている「難容性の CsMP は、東京に最初に降下した Ce の主要なキャリアとして認定された」も重要である。(中略)

 核兵器の爆発の場合は、その破壊力に比べて実際の核分裂生成物の量は原発よりはるかに少ないし、メルトダウンに引き続く、コアーコンクリート反応のような、比較的ゆっくりとした反応が進行する時間的余裕もない。実際、大気圏内核実験によるグローバルフォールアウトの人工核種をトレーサーとした海洋の三次元的海水循環の研究(例えば、Eigle et al., 2017 )を参照すると、採水測定によって得られた鉛直方向の拡散速度は、粒子として沈降した成分の存在を否定しており、大部分が海水に溶けていると模擬することでうまく説明できるという。

 チェルノブイリはどうか。これは黒鉛炉であり、メルトダウン時に還元的な雰囲気になった筈で、この点で軽水炉である福一とは反応環境が大きく異なっていたであろう。チェルノブイリ周辺でこのような放射性微粒子を探す努力がどの程度なされたか知らないが、ATOMICA に記載されているチェルノブイリで見つかった粒子は、本来のホットパーティクルの概念とは異なる性質のものである。もしかしたら、福一から放出された放射性物質の主成分が CsMP であったことは、地球上に本格的な多細胞生物が出現したおよそ6億年前以降、生命が初めて直面する種類の脅威であるのかもしれない。

 福島の原発事故で放出されたホットパーティクルは、核実験によって放出された放射性物質ともチェルノブイリの原発事故で放出された放射性物質とも形状が異なるそうだ。そして、3月15日に東京にまで流され降下したホットパーティクルは「体内に吸引摂取されえる形態のものを運搬する重要な媒体」であるという。

 また、さつきさんはICRPの被ばく線量評価に最高を迫る最先端研究を無視するサイエンスライターで、上記の論文の著者のお一人が書かれた健康影響についての予察を引用して紹介している。福島の小児の甲状腺がんを含め、健康被害について考える上でも重要な指摘だ。

 こうした新知見が提示されているのだから、内部被ばくの人体への影響に関しては福島とチェルノブイリを単純に比較できないのではなかろうか。ホットパーティクルの健康への影響については分かっていないことも多く、この点を考慮せずに「健康への影響はない」などと断言するのは安易と考えざるを得ない。

「断定できない」について
 私が「福島の原発事故による被ばくで健康被害は生じない」とは断定できない、と書いたら、「UNSCEARの報告を信用しないのか」という批判がきた。これについては以下のツイートを貼っておく。

 「断定」に関しては、悪しき相対主義 を読めという意見もあった。

 私は今までに公表された情報や専門家の指摘から、「エビデンスを得るためには長期間にわたる調査が必要であり現時点で安易に断定するべきではない」という立場で意見を述べているにすぎない。この記事で指摘しているような相対主義的な考え方を推し進めているわけではない。私が批判しているのは菊池誠氏や早野龍五氏といった大学教授であり科学者だ。彼らはその立場から社会に与える影響がきわめて大きいゆえ、発言には慎重さや正確性が求められると考えている。

最後に
 原発は「トイレのないマンション」と言われるように核廃棄物の処理技術すら確立されていない未完成の技術といえる。現時点では原発事故を完全に防ぐこともできないし、環境中に放出された放射性物質を回収することもできない。福島第一原発では融け落ちた核燃料も手をつけられず、放射性物質は未だに海へ大気へと垂れ流しが続いている。原発こそニセ科学といえるものではなかろうか。

 私は菊池誠氏や早野龍五氏にはこうした原発の問題点についてご自身の意見を明らかにしてほしいと思っている。

 原発が国策として推進され、安全神話という嘘が振りまかれてきた以上、原発問題は政治とは切り離せない。したがって、原発についての意見を述べることは政治的姿勢と関わらざるを得ない。しかし、被ばくに関する意見を発信して注目を浴びている科学者である以上、原発に対する自らの意見、立ち位置を明らかにする責任があるのではなかろうか。

 今回の想田さんへの攻撃や私への攻撃は、いわゆるネット右翼と呼ばれる人たちの言動と何ら変わらない。私は原子力推進派がツイッターを利用し、菊池氏や早野氏などの安全発言をする科学者を擁護し、彼らを批判する人たちを攻撃することで情報操作をしているのではないかという疑念が払しょくできない。つまり、菊池氏や早野氏は原子力推進派に利用されていると感じている。

 彼らが御用学者ではないという立場であるなら、なおさら原発にまつわる問題に関し、科学者としての意見を明らかにすべきだと思う。

 なお、原発事故後の体調不良や健康被害の増加に関しては、以下の記事が客観的データとして信頼できると考えている。

東京電力原発事故、その恐るべき健康被害の全貌 ―Googleトレンドは嘘をつかない― ②データ編 

【11月29日追記】

林 衛氏が以下のツイートをしている。

 ここで引用している鈴木眞一「福島原発事故後の福島県小児甲状腺県信と小児甲状腺癌」(「医学のあゆみ」2017年3月4日号特集:甲状腺疾患のすべて)の内容は以下。

 一方では過剰診断治療が問題とされている。超音波検査の利益・不利益は当初から理解し、わが国の甲状腺専門家たちのコンセンサスを得たうえで抑圧的な検査基準を設定している。すなわち著者らは、健診をはじめる際にも超音波を健診に用いると多数例がみつかることを想定し、二次検査での精査基準を設けた。5mm以下は細胞診をしないで経過観察。5.1mmは甲状腺結節の超音波診断基準の悪性7項目のほとんどが合致する場合は細胞診を、それ以外は経過観察としている。10.1~20mmでは同じ診断基準悪性7項目のうち、1項目でも悪性を疑う場合やドブラ法で貫通血管が認められる場合に細胞診をする。20.1mm以上では前例細胞診を施行することとして腫瘍径とエコー所見で制限をかけ過剰診断にならないように努めている。ATAのガイドラインでも10mm以下は細胞診をしないとされているが、悪性を疑う場合は別であり、同様の対応を明確にしているものである。また、非手術的経過観察には勧められない画像をLeboulleuxらは提示しているが、著者らの精査基準と同様であり、今回の手術された微小癌のほとんどが湿潤型で被膜外湿潤、リンパ節転移も高率であった。このように、抑制的にしているにもかかわらずアメリカ・韓国の過剰診断論から同様に問題とする方がいる。

 鈴木氏によれば超音波の検診ではスクリーニング効果があることを認識しており、福島の検診では過剰診断にならないよう基準をつくって抑制したとのこと。したがってアメリカ・韓国の過剰診断論をそのまま当てはめられないことが分かる。過剰診断にならないよう抑制的にしてもリンパ節に転移しているなど手術を必要とする事例が多数あったのだから、今後はその原因が問われることになるだろう。

2017/11/16

賠償金の踏み倒しは防げるのか

 「弁護士ドットコム」というサイトにこんな記事が掲載されている。

ひろゆき氏の方法はもう終わり? 賠償金「踏み倒し」撲滅へ、法制度見直し議論 

 民事訴訟で賠償金の支払い命令が出た場合、判決に従って賠償金を支払うというのは自分の行いに責任をとるという意味で当然のことだ。裁判所の命令に従わないということは法に従わないということであり、無法者といっていいだろう。ところが、ときどき支払わずに踏み倒してしまう人がいる。代表的なのが元2ちゃんねる管理人の西村博之氏だろう。彼の場合、資産があるにも関わらず踏み倒していると言われているから悪質だ。

 なぜこんなことができるのかは記事で説明されているが、現在の法律では債権者にとって債務者の財産の強制執行がとても困難だという現状がある。しかも支払わなくても刑事罰がない。踏み倒して10年たてば時効になってしまう。西村氏の場合は海外の金融機関に口座を持っていると言われており強制執行も簡単にはできない。そしてすでに時効がきているので債務はゼロだと豪語している。

 彼が2ちゃんねるの管理人を辞めたのは、ずっと支払い拒否を続けていたら賠償金が膨れ上がってくる一方だしそのうち法改正があるかもしれないしなので、管理人を辞めることで区切りをつけ、溜まった賠償金を時効に持ち込んでチャラにするという思惑があったのではなかろうか。刑事罰がないとはいえ、債務者は裁判で決まった賠償金を支払う責務があるのだから、無法者であることは確かだ。

 不法行為で民事訴訟を起こす者の多くは弁護士を雇い、裁判に費用と時間を費やす。それにも関わらず西村氏のような無法者がのさばっていたら何のために法律があり裁判があるのかということになってしまう。

 そして懸念されるのは西村氏の話しが有名であるがゆえに、この手法を真似する人がいるのではないかということだ。単に「払いたくない」「判決が納得できないから払わない」などという自分勝手な理由で支払わない人もいるだろう。このような無法者が溢れるようになれば、損害賠償訴訟が無意味になりかねない。そんなこともあって、法の抜け穴を塞ぐための検討がようやく始められたということなのだと思う。

 ただし、中には支払い能力がない人がいるのも事実だし、損害賠償によって人生が暗転してしまう人がいるのも事実だ。例えばかつて文芸社商法の批判をした冊子を配布した渡辺勝利氏は文芸社から名誉毀損と業務妨害で訴えられた裁判に敗訴してしまった。この裁判に関してはスラップだと私は考えているが、たとえ理不尽な裁判であっても確定した判決に従うというのが裁判に負けた者の責務だ。納得がいかなければ控訴せねばならないが、彼は控訴を断念した。

 ところが彼は別の裁判でも敗訴して高額の賠償金を抱えてしまった。困った彼は文芸社に頭を下げて賠償金の免除を求めたらしい。その後、彼は文芸社を擁護する側に回り、文芸社を批判していた私まで攻撃するようになった。あの気骨ある渡辺氏が賠償金が払えないゆえに文芸社に屈服せねばならないとはなんと哀れで惨いことかと思ったものだ。債務者と言えど、最低限度の生活は保証されており強制執行で身ぐるみはがされるということにはならないのだが、責任感の強い彼は支払い不能を理由に切り抜けることを良しとしなかったのかもしれない。

 ただし、債務者の支払い不能を理由に債権者が賠償金の受け取りを諦めねばならないというのもおかしな話だ。記事では払わない人の対策として賠償金を国が立て替え、国が直接加害者への取り立てを行うというノルウェーの事例も紹介されているが、債権者が泣き寝入りしないで済む仕組みも検討していくべきだろう。もっともそのためにマイナンバーを利用するという話しなら、賛同はしかねるが。

 現代はネット上に誹謗中傷、名誉毀損が溢れている。被害者がお金と時間をかけて加害者を特定し、さらにお金と時間をかけて裁判を起こしても踏み倒されたらたまらない。ネット上では無責任人間がのさばり、すでに加害者天国のような感がある。西村氏はおよそ30億もの賠償金を踏み倒したあげく時効がきたと開き直っているが、今回の見直しは遅すぎた感がある。

 いわゆるザル法は損害賠償問題に限らずいろいろなところにある。法治国家である以上、ザルの穴を塞ぐことは当然だろう。

2017/11/14

頭髪や服装に関する校則は必要か

 少し前に大阪の府立高校の女子生徒が頭髪の黒染め強要で大阪府に対して損害賠償を求める裁判を起こしたことが話題になった。詳しくはこちらを参照。

 この学校では染髪や脱色を禁止しているという。染髪を禁止していながら、生まれながらの茶色い髪を黒染めにしろと強要するとは倒錯としか言いようがない。学校という教育現場で未だにこんな人権無視の強要が行われていることに驚愕する。そしてさらに驚くのは、大阪府の全面的に争うという姿勢だ。まともな人権感覚があるのなら、教師の非を全面的に認めて謝罪し慰謝料を支払うことで和解すると思うのだが。

 私は中学や高校の頃から身なりについて細々定めた校則は馬鹿げていると常々思っていた。女子は髪の毛が肩にかかったらゴムで縛りなさいとか、スカートの丈は膝下とか、パーマやカールは禁止とか、なぜそんな細かいことを規制するのだろうと不思議でならなかった。髪が長くなればたしかに煩わしくなるが、不便なのは本人なのだから自分で適宜対処すればいい話しだ。髪の毛の色が茶色であろうと、カールしていようがいまいが(生まれつきくせ毛の人だっている)、スカートが多少長かったり短かかったとしてもが学校生活には何の関係もない。

 もちろん人が社会生活を営むためには法律やルールは不可欠だし基本的には守るべきだ。しかし、立場が上の者が下の者を縛ることを目的にしたルールは独裁者が好むものでありとても危うい。また民主主義国家では、ルールは基本的人権を尊重したものでなければならない。中学や高校の校則の中で、頭髪や服装などの生活面に関するルールは生徒の権利を侵害してはいないだろうか。そして本当に必要なものなのだろうか?

 私は頭髪や服装に関しては本来自由であるべきだと思う。染髪は頭皮にも髪の毛にも悪影響があるし個人的には賛同できないが、だからといって禁止すべきものでもないと思う。禁止したところで、規則を守らない子どもはいるものだし、日頃は守っていても夏休みなどに染髪する子どももいる。染髪にしても化粧にしても必ずリスクがあるわけで、まずは学校でそうしたリスクをしっかりと教育するのが先決だろう。その上で、自由にさせればいいのではなかろうか。

 制服も必要だとは思わない。制服に関しては賛成意見が多いのは承知しいている。私服にしたら華美になる、お金がかかる、服を選ぶのが大変・・・などという意見も根強い。しかし、デメリットもいろいろある。たとえば、気温や天候の変化に対応しづらい、堅苦しく活動的ではない、簡単に洗えない、値段が高い、成長期の子どもに適さない、個性がないなど。

 「華美になる」というのは勝手にそう思い込んでいるということもあるし、他者からの評価を気にしすぎる日本人らしい感覚だと思う。小学校や大学などで果たしてそんなに華美になったり競争になったりしているだろうか? もちろん中にはブランド物を好んだり、服装に拘って毎日着替える人もいるだろうが、それはむしろ一部にすぎないと思う。現に、私服の高校で華美になっているという話しは聞かない。

 「お金がかかる」「服を選ぶのが大変」というのも、他者の目を気にして競争をしよう(あるいは皆と同じような服装にしなければならない)と考えるからだろう。「フランス人は10着しか服を持たない」という本がある。この著者は、「なぜフランス人は服を10着しか持たないのか? 本当の自分らしさをもたらす、小さなクローゼットのつくりかた」でこんなことを書いている。

同じ服を何度も何度も着るという考えですが、私たちはそれを少し恥ずかしい事だと思っています。たくさんの人や過去の私もそうでしたが、同じ服を1週間に2回も着たくはありません。特に同僚の前だったり、学校では他のお母さんたちの前では。

 これは私もすごく感じる。たとえば子どもがいる母親の場合、入学式や卒業式などが立て続けにあったりするが、その度に違う服を着て行く人がいる。これなど明らかに他者の目を気にしており「同じ服を何度も着ることが恥ずかしい」と思っているのだろう。しかし、一昔前、たとえば私の親が若かった頃などは持っている服も少なく、同じ服を繰り返して着ていたのではなかろうか。ところが戦後の高度成長で物が豊かになるに従ってすっかり感覚が変わってしまったのだと思う。

 本来、子どもは他人の目など気にしない。わが家では子どもが小さい頃、知人からいただいたお下がりの服が沢山あった。私が服を選んで着せようと思っても、子どもは自分の好きな服ばかりを着ていた。ところが小学生くらいになると、他人の目を気にしはじめる。そして皆と同じような格好をしたがるようになる。他者の評価を気にし始めるのだ。そして、「皆と同じ」でなければ悪口を言われたり冷やかされたりするのだと学んでしまう。もちろん子どもがそのように変わってしまうのは大人の価値観が大きく影響している。私たち大人が、日頃から自分の好きな服を身につけ、同じ服を着回すことが当たり前の生活をしていれば、子どももそれが当たり前だと思うに違いない。

 同じ服を繰り返して着ることに抵抗を持たなければ、沢山の服を持たなくてもいいしお金もさほどかからない。服選びに時間がかかることもない。制服であれば毎日同じ服でも平気なのに、私服だと同じ服を繰り返して着るのは恥ずかしいという感覚こそおかしいことに気づくべきではなかろうか。つまり「同じ服を繰り返し着るのが恥ずかしい」という意識さえ変えることができれば、制服のメリットはほとんどないと思う。そして、これは個人の意思でできることだ。

 21世紀になっても頭髪や服装を自由にさせたがらない日本の学校は、生徒を管理して従わせることしか考えていないのだろう。これでは生徒が主体性を持つことも難しい。というより、生徒が主体性を持たないように教育しているとしか思えない。

2017/11/05

日本人には全体主義が染み込んでいる

 ツイッターで日本人はそもそも全体主義だと言っていた人を見かけたのだが、ドイツ人に関する以下の記事を読んでたしかにそうなのだろうと思った。

デキる人は「他人は別の惑星の人だ」と考える(東洋経済)

 上司と部下の関係に関する冒頭の話しはとても興味深いので一部を引用する。

 日本の銀行でドイツ支社に勤務していたときの話です。部下だったドイツ人女性から、彼女のミスでトラブルが起きているという報告を受けました。トラブルの内容は、彼女がある顧客との間で、ルールで定められている書面を交わさないままに仕事を進めてしまったということでした。
 その報告を受けて、私は開口一番「なんでそんなことをしたの?」と言ってしまいました。すると彼女は、
 「ミスター・スミタ、あなたの仕事は『なぜ?』と聞き返すことではない。事後処理にベストを尽くすのが、あなたの仕事だ」

 と言い返してきたのです。

 日本では部下が失敗したら原因探しをし、責任を部下に押しつけて叱責する上司が大半だ。しかし、ドイツでは上司が部下の失敗の責任も引き受け事後処理にベストを尽くすのが当たり前になっているようだ。部下を叱りつけたところで失敗の事実が消えてなくなるわけではないし、まずやらねばならないのは事後処理でありその後に再発防止だろう。

 失敗から学ぶことは大事だし失敗の原因究明がどうでもいいとは思わない。しかし、失敗したからといって叱責したり批判する必要はない。怒りという感情を使えば人間関係が悪化する。叱られれば仕事へのモチベーションは下がる。部下は上司の顔色を窺って臆病になり、主体性を失ってしまう。

 考えてみれば当たり前のことなのだが、日本ではドイツ人のように考える上司はとても少ない。なぜそうなるのかを考えてみると、上司と部下という関係において、上司が絶対であり部下は上司の指示に従うものという全体主義が染みついているからなのではないかと思う。部下は上司あるいは組織の命令を聞くのが当たり前とされる社会だから、記事に出てくる女性のように部下が上司に自分の意見をはっきりと言うということすらほとんどない。「上から下」という縦社会が徹底しているのが日本だ。そればかりではなく、部下が上司に忖度をしてしまうということすら起きる。欧米では考えられないことだろう。

 ドイツでは組織より労働者を大事にするという考え方も同様だ。労働者を大事にしてこその会社だから労働者の権利を尊重する。労働者が自分に合った働き方をするし、それができる社会だ。日本のようにブラック企業がはびこるということもないのだろう。労働者が会社のために酷使される日本とは正反対だ。

 「人は人、自分は自分」という意識がはっきりしているという指摘もあるが、これは「課題の分離」ができているということだ。つまり他人からどう思われるかを気にせず自分の人生を生きるということなのだが、日本人の大半はこれができない。常に他者の評価を気にして周りに合わせてしまう。自分というものを持たず、全体の流れに従う。するとどうなるか。自分で決めたことならその結果責任は自分で引き受けなければならない。ところが「世間に従う」「全体に従う」ことで自分の責任をあいまいにできる。

 先の民進党の希望の党への合流劇の際、「みんなで決めたことに従っただけ」と言う元民進党議員がいたそうだ。希望の党への合流という提案を両院議員総会で了承したのは事実であっても、踏み絵を踏んで希望の党に入党するかしないかかの選択は個人にある。いくらみんなで決めたことだからといっても安保法制や改憲に賛成できないのなら希望の党へは行かないという選択肢もあった。立憲民主党も発足したのだから「他に公認を得るための選択肢がなかった」と言うことにはならない。「みんなに従った」という言い訳で、自分の選択責任を逃れているとしか思えない。

 ツイッターを見ていてうんざりとするのは右派とか左派に関係なく罵詈雑言で溢れていることだ。他者におもねることなく主体性をもって自分の意見を言うことは大事だし、権力者を監視し批判したり政治に関して意見を述べることも主権者として必要だと思う。事実誤認があれば指摘したり、公益目的に公人や企業などを批判することも意義がある。ところが、そういう指摘や批判ではなく、自分と違う意見を言う人に対する攻撃や罵詈雑言で溢れているというのはどういうことなのだろう。自分と正反対の意見に対し好感を持てないのは分かるが、他人の意見は尊重するというのが民主主義の基本ではないか。

 自分の意見を述べたり他者の意見に反論をする際に、意見の異なる個人を叩いて貶めたり誹謗中傷する必要など何もない。たとえ事実であっても公益性のないことで他人の社会的評価を低下させたら名誉毀損という犯罪になる。批判的意見と誹謗中傷や人格否定は全く別のものだ。インターネットでは匿名の無責任さがモラルの低下につながっている。

 異なる意見の人を敵であるかのごとく攻撃するという行為は「人は人、自分は自分」という区別ができておらず個が確立されていないということに他ならない。

 こういう人は時として意見を同じくする集団に依拠している場合があり、仲間がいるからこそ強気になっている人もいるようだ。あるいはインターネットを他人を叩いて優越感に浸る道具にしているのかもしれないが、学校でのいじめと何ら変わらない。学校でのいじめが個を尊重しない全体主義に根差しているように、ネットでの誹謗中傷の根源も匿名による無責任さと全体主義にあるように思う。

 こうやってみると、やはり日本人の多くは全体主義が染み込んでいて責任をとりたがらない人たちなのだと思わざるを得ない。このまま進めばどうなるのか? 独裁的な人たちにいとも簡単に騙されることになる。自分が騙されて独裁政権を選択しても、独裁者のせいにして自分の選択責任をとろうとしない。安倍強権政治の存続を許し、憲法が改悪され、個人の基本的人権が制限されるようになるだろう。そして完全な独裁政権となり自由に意見も言えない社会になるだろう。共産党が弾圧されたあの時代の再来になりかねない。

 ドイツは過去にナチスによるユダヤ人の大虐殺があった。その反省と戦争責任から新しい憲法が生まれたという歴史がある。これに関しては「戦争責任に向き合うドイツと目をそむける日本」をお読みいただきたい。しかし、日本では過去の侵略戦争に対していまだに責任をとろうとしない。とりわけ天皇に関する戦争責任はうやむやにされたままだ。ここがドイツと日本の大きな違いだ。日本では全体主義からくる無責任が戦後ずっと続いて今日に至っているように思えてならない。ここまで書いて、なんだか辺見庸氏と同じことを言っていると改めて思う。

 では、どうやったらこの全体主義から抜け出せるのだろうか? まずは、自分の選択したことの責任をきちんととるということ。もし誤った選択をしたならそれを認め軌道修正する勇気を持つこと。そして、自分が騙されないようにできるかぎり物事を客観視する努力をすること。人は誰でもバイアスがかかっており間違いを犯すのだから、自分が絶対に正しいという視点から異なる意見の人を叩かないこと。しかし、間違いを犯すまいと沈黙をしてもいけない。私はそんな風に思う。

 全体主義から抜け出すには個人個人が主体性と責任感を持つしかないと思うのだが、独裁国家の出現はもう眼前に迫っている。どうやったら最悪の事態になる前に個人が主体性を持てるのか・・・。諦めてはならないと思うのだが、どうしても無力感がつきまとう。

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