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2017/01/31

野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う

 日本アドラー心理学会の初代の会長である野田俊作さんのウェブサイト「野田俊作の補正項」をときどき読んでいるのだが、最近、岸見一郎さんに対する苦言がしばしば出てくる。正確に言うならば、「嫌われる勇気」に対する批判といったほうがいいだろう。野田さんが批判的意見を言うのはもちろん自由なのだけれど、正直なところ私はそれをやや苦々しく思っている。その理由を書きとめておきたいと思う。

 野田さんによる「嫌われる勇気」批判は、このあたりから始まっているのではないかと思う。ここでは書名を書いてはいないが、「嫌われる勇気」を指していることは誰にでも分かる。

 この記事で、野田さんはこんなことを書いている。「彼の意見はさまざまの事項について「標準的な」アドラー心理学から偏っています。たとえば彼はある状況下では協力を拒否することが重要であると述べ、「他者からの承認を求めない」とか「他者の期待を満たす必要はない」とか「他者の問題に介入してはいけないし、自分の問題に他者を介入させてはいけない」というようなことを書いています。」

 またこちらの記事では「アドラー・ブームの火付け役である岸見一郎氏の『嫌われる勇気』は、「課題の分離」ばかり強調して「協力」に関連する考え方をあまり含んでいないので「名目アドラー心理学」だと思っていたが(これはいちおう許容範囲内)、同じ題名を冠したテレビドラマはアドラー心理学に反する考えややり方でいっぱいなので、間違いなく「似而非アドラー心理学」だ(これは完全に許容範囲外)。岸見氏ご自身はこれについてどうお考えなのだろうか。」と書いている。

 もう一つ、トラウマに関する記述についても批判的で、こちらの記事で「なんでも、最近流行の「ブーム型アドラー心理学」では、「トラウマは無い」ということになっているのだそうだ。」と指摘している。私なりに解釈するなら、「嫌われる勇気」の「トラウマを否定する」という書き方が誤解を招くといいたいのだろう。

 そして野田さんは、「嫌われる勇気」は許容範囲内だが、重要な要素を欠いているので「名目アドラー心理学」だと評している。

 一方、私は日本アドラー心理学会の顧問や認定カウンセラーでもある岸見さんがアドラー心理学を正しく理解していないとは思っていない。岸見さんの「アドラー心理学入門」や「不幸の心理 幸福の哲学」も読んでいるが、課題の分離ばかりにこだわっているとも思わないし、援助についても書かれている。トラウマやPTSDについても、それらの症状の存在を否定してはいない。「嫌われる勇気」においてもPTSD症状は存在しないとは書いていない。ただし、「トラウマを否定」という書き方は、読者の誤解を招きやすいのは確かだろう。

 ここで着目すべきは「嫌われる勇気」は岸見さんが一人で書いている本ではないということだ。私は今、野田さんの「アドラー心理学を語る」というシリーズ本の第一巻「性格は変えられる」を読んでいるが(これについては改めて感想などを書きたいと思っている)、野田さんによるアドラー心理学の解説は仔細に渡っていてとても勉強になるし、具体的事例もとりあげていて分かりやすい。しかし、失礼なことを承知で書くなら、いくら優れた解説書であっても、岸見さんや野田さんのアドラー心理学の本が「嫌われる勇気」のように爆発的に売れることはないだろうと思う。

 この違いは、「嫌われる勇気」が単にアドラー心理学の解説書を目指したのではなく、万人に理解できる本にすることで多くの人の手にとってもらうことを目指したことに関わっている。そしておそらくそうした著者らの意図が、野田さんの批判に関係しているのではないかと私は考えている。

 岸見さんにアドラー心理学についての本を出したいと持ちかけたのはライターの古賀史健さんだ。そして「嫌われる勇気」の文章を書いているのも古賀さんだ。この本を書きあげるにあたっては、古賀さんと岸見さん、編集者が議論を重ねているのは間違いないが、企画した古賀さんの方針が強く反映されているのは確かだろう。

 私は古賀さんの「20歳の自分に受けさせたい文章講義」という本を読んだ。古賀さんは多数のベストセラーを手掛けてきたライターで、この本にはご自身の経験を元にした文章術がまとめられている。彼は読者を惹きつけるテクニックを良く知っており、「嫌われる勇気」を書くにあたってももちろん「20歳の…」に書いている文章のテクニックを駆使している(と私は思っている)。

 たとえば、古賀さんは「ライターは翻訳者である」と語っている。これが彼の文章を書くにあたっての基本的姿勢でありポリシーだ。つまり、古賀さんがご自身のフィルターを通して岸見流アドラー心理学を翻訳することで、とっつきにくい心理学を誰にでも分かるように解説したのが「嫌われる勇気」や続編の「幸せになる勇気」なのだと私は理解している。

 他にも、たとえば文章にリズムや説得力を持たせるために断定した書き方を入れるとか、文章の構成が重要だとか、あるいは読者を説得するのではなく納得させる文が良いとか、編集(推敲)では「書き足す」よりも「ハサミを入れる」など、古賀さん流の文章テクニックが紹介されている。青年の大げさな発言などはときに吹き出してしまうが、もちろんこうした誇張も読者を惹きつけるためのテクニックだ。

 ただし、古賀さんの翻訳や、断定、取捨選択の編集テクニックによって、切り取られすぎてしまった部分もあるだろうし、誤解を招きかねない部分も生じてしまったのだろうと私は勝手ながら推測している。そして、そこが野田さんの批判の的になってしまった気がしてならない。

 では、「技術を駆使した分かりやすい文章」によって売れる本を目指すことは不適切なのだろうか? こうした本はまがい物なのだろうか? 私はそうは思わない。私自身、ある方のブログで「嫌われる勇気」を知ってアドラー心理学を知り、この本を出発点に他のアドラー心理学の本も何冊か読んだ。本がベストセラーとなって話題になれば、私のようにこれまで心理学と何ら接点のなかった人がアドラー心理学の存在や概要を知る機会が増えるし、それをきっかけに、アドラー心理学をより詳細に解説している本へ誘導することにも繋がる。

 現に、絶版になっていた野田さんの本が昨年末に改訂・再版されたのも、「嫌われる勇気」に端を発しているのだろう。「嫌われる勇気」も野田さんのシリーズ本も一般の人を対象にした本だが、「嫌われる勇気」はこれまで心理学とは縁のなかったような人も対象にした導入のための本であり、アドラー心理学を詳細に解説している野田さんの本とは立ち位置や役割がやや異なる。

 もし「嫌われる勇気」が間違ったアドラー心理学の本なら由々しきことだが、野田さんも「許容範囲」だとしていて誤りだとまでは言っていない。また私自身は、続編の「幸せになる勇気」の発行で、共同体感覚についてはかなり補足されたと感じている。ただし、古賀流の文章術によって、アドラー心理学を誤解してしまう読者がいるなら、それはそれで問題であることは否定できない。

 私が冒頭で「苦々しく思っている」と書いたのは、この問題をめぐって野田さんの意見しか聞こえてこないことだ。アドラー心理学に関わる人たちの中には、この状況に当惑している人もいるのではなかろうか。野田さんと岸見さん・古賀さんの路線の違いといえばそれまでだが、第三者から見たら本当にそこまで批判すべきことなのだろうか?この状況をいくらかでも改善できないのだろうか?とどうしても感じてしまう。

 そこで、余計なお世話かもしれないが、門外漢の私からひとつの提案をしておきたい。すでに売れてしまった本についてはどうにもならないが、増刷する際には増補改訂版にして、野田さんが不十分だとか誤解を招きやすいと考えている部分に注釈をつけるなり、最後にまとめて解説を加えるという方法があるのではなかろうか。そして、その増補部分は出版社のウェブサイトに掲載するなどして、誰にでも読めるようにするというのはどうだろう。すでに誤解してしまった読者に対しては不十分な対応だろうが、このまま何もしないよりずっといいのではないかと思う。

 もう一つ、野田さんはこちらの記事でアドラー心理学は本や講演では学べないと書いている。本ではアドラー心理学がどういう思想であるかを知ることはできるが、アドラー心理学を身につける、すなわちアドレリアンとして実践するには講習会やワークショップでの体験が必要だということだろう。

 私は「嫌われる勇気」を読んだ人は、以下の三つのタイプに分かれるのではないかと考えている。

1.アドラーの思想を理解できない(しようとしない)。あるいは間違っていると思う。
2.アドラーの思想は理解できるし間違っているとは思わないが、実践しようとは思わない。
3.アドラーの思想を理解し、より深く学んだり実践しようとする。

 このうち圧倒的に多いのが1ないしは2だと思う(単なる勘だけれど)。より深く学んだり講座などを受けて体験的に身につけようと行動に移す人は限られているだろうし、野田さんの本を読んでみても、「本を読めば身につく」というほど簡単なものではなさそうなことも分かる。

 ならば、「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」がベストセラーになって売れることは意味がないかというと、そうは思わない。これらの本によって、アドラー心理学がどんな思想であるかを知ることはできるし、自分の抱えていた問題に気づく人も多いだろう。上記の1や2の人でも、今後の人生で思い悩んだときに本を読み直し、ライフスタイルの再選択を決意する人もいるのではなかろうか。本が多くの人の手に渡り、アドラーの思想が頭の片隅にでも引っかかることは、それなりに意味があると私は思っている。私も、生きているうちにアドラー心理学に出会えて本当によかったと思っているし、野田さんの本も知ることができた。これも「嫌われる勇気」に出会えたからに他ならない。

 なお、「嫌われる勇気」のテレビドラマについては見ていないし興味もないが、主人公のふるまいがアドレリアンと程遠いのなら、それはドラマの脚本を書いた人の理解の問題が大きいのではないかと思う。

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コメント

「野田俊作の補正項」読んだ印象からすれば、残念ながら、野田俊作氏と岸見一郎氏はのっぴきならない関係に陥ったと思います。
そもそも野田俊作氏は自身が認めないアドラー心理学の解釈については、徹底批判するお気持ちなんでしょうね。それはそれで良いと思います。
野田俊作氏独自の語り口なのでどこまで真に受けて良いかわかりませんが、ドラマ「嫌われる勇気」に対して相当お怒りのようですね。でも野田俊作氏にも屈託があるようで、自分は岸見一郎氏を追い出すつもりはないということを「寿司屋」の例え話で述べてみたり。自分は「教祖」と呼ばれているがドライカースと比べれば「寛容」だと述べたり。はたまた岸見一郎氏は野田氏に相談を乞う関係性にないと拗ねてみたり・・・

昔々の中国の文化大革命の頃、政権首脳の劉少奇や鄧小平ら改革派は、紅衛兵という毛沢東支持者の若者たちに土下座し、自分の誤りを謝罪させらましたね。
もし野田俊作氏と岸見一郎氏の「和解」があるとすれば、岸見一郎氏が日本アドラー心理学会の場で「嫌われる勇気」の誤りを認め、謝罪するしかないと思います。
しかし、それをするかしないかは岸見一郎氏の自由です。かつての師弟ですが、今の岸見一郎氏は日本アドラー心理学会という「マイスター制度」がなくても、十分活躍できる方です。私が岸見一郎氏なら学会を退会しますね。そういえば、さっき学会のページを見たら、以前専門家の欄に掲載されていた岸見一郎氏のコメントが削除されていました。中井会長他学会の幹部が、岸見一郎氏は専門家として認められないという意味かも知れません。
逆に、日本アドラー心理学会にとって「嫌われる勇気」の解釈は、「マイスター制度」の根幹に関わるので、決して許されない思います。

まとめとして、管理人様の期待するように野田俊作氏と岸見一郎氏が和解する道は、99.9%ないと思います。
それは、野田俊作氏や日本アドラー心理学会にとってドラマ「嫌われる勇気」は決して許されない内容であるからです。野田俊作氏はお弟子さんたちに焚き付けられたのか、相当頭に血が上っていますが、それよりも岸見一郎氏を許せば「マイスター制度」が揺らぐので許せないのでしょう。
片や岸見一郎氏も、野田俊作氏や学会がここまで強硬とは想定外だったのかも知れませんが、学会の資格取得者なので抵抗があることはわかっていたと思います。現状、野田俊作氏の批判に対し公的な発言は全くありません。学会に出席し謝罪するか、退会するか、腹を括っていると思います。

 私は野田俊作さんからアドラー心理学に入り、岸見一郎さんの著作も好きで読んでいます。
「嫌われる勇気」はそれまで岸見さんの主張と特に変わりはないと考えて読んでいませんし、ドラマも一部分しか見ていないのであぶなっかしい意見になりそうですが、野田さんをはじめ日本アドラー心理学会は、ドラマの「嫌われる勇気」の脚本の内容がアドラー心理学だと誤解されることを危惧し、原案者の岸見一郎さんの責任を問うているのだと考えています。

野田さんは「嫌われる勇気」が出版された当時は岸見さんを評価していると感じていました。多忙になった岸見さんの彼の健康を案じていました。

ただマスコミに対するスタンスがお二人は大きく違うようです。かつて岸見さんが「ドラゴン桜」の宣伝で大きく新聞に登場したことがありました。私が違和感を持ったと岸見さんのブログ(かミクシィか)にコメントしたところ、アドラー心理学を伝えることができる場だと積極的に捉えているといきたいと答えていただきました。
野田さんはテレビや新聞を通してアドラー心理学を伝えることにはずっと否定的です。

私自身は、研究者ではなく、生活で実践していきたいと考えているので。読みものは岸見さん、語るのは野田さん、適材適所でいいと考えいてます。アドラーを学びたいという人には岸見さんの「アドラー心理学入門」を勧めます。しかし岸見さんの講演は寝てしまいそうになりました。本の内容と一緒だったからです。

野田さんのお話は毎回新しい世界が開けていく尽きない魅力があります(最近ご無沙汰していますが)。一方でカリスマ性のある野田さんのおっかけにならないように自覚しようとも思っています。

ドラマは30分も見ていないのですが自己主張が単なる意地悪に見えたり、学者が専門用語を振りかざし協力的でなかったり、アドラー心理学とはかけ離れていると感じました。

マスコミに対するスタンスの違いについては、私もそう感じています。岸見さんは、アドラー心理学をより多くの人に知ってもらうために書籍やテレビが有効だと考えているのだと思います。知らせることに意義を感じているのでしょう。

それに対し、野田さんはアドラー心理学はお稽古ごとであり、書籍では共同体感覚は学べないということを一貫して主張されています。

これは考え方の違いであり、どちらが正しいとか間違っているとか言えるものではないように私には思えます。

私は書籍「嫌われる勇気」でアドラー心理学に出会い、いままでもやもやしていたものがすっきりと説明されていたので、この本をきっかけにアドラー心理学に興味をもち、より深く学びたいと思いましたし、同じような方も多くいらっしゃるのではないかと思います。ですから、書籍やテレビなどでアドラー心理学というものを広く知らしめることは意味があると思います。書籍でアドラーの思想を理解することは可能ですし、ます知ることが実践の一歩につながるでしょう。

野田さんの「お稽古ごと」という主張に関しては、そういう側面も大きいとは思いますが、書籍などではアドラー心理学を身につけることはできないと決めつけてしまえるものでもないと思います。書籍でアドラー心理学を身につけられるか否かは、恐らく人によってかなり違いがあるのではないかと思います。

アドラー心理学を知らない人でも「横の関係」を意識したり尊重している人はいます。そのような人にとっては書籍での理解は比較的たやすいでしょうし、実践することもそれほど難しくないように思います。ただ、実際には多くの人が「縦の関係」で生きていますので、そのような方がアドラー心理学を理解し実践するのは書籍だけでは困難と言えるかも知れません。

それから、野田さんは、岸見さんはしばらく学会などから離れているので、共同体感覚を忘れているのではないかと指摘されていましたが、そんなことは第三者が安易に言えることではないと私は思っています(私自身は、そんなことはないと捉えています)。

ドラマに関しては見ていないので何とも言えませんが、「ナチュラルボーン・アドラー」というキャッチフレーズに学会が過剰反応したのではないかと感じます。ドラマなのですから完璧なアドレリアンの刑事というのはそもそも無理筋な設定だし、むしろそんな刑事は気持ち悪いと思いますが、あのキャッチフレーズのために完全無欠のアドレリアンをイメージしすぎたのではないでしょうか。

テレビドラマに抗議したり岸見さんを批判するより、学会の言う正統なアドラー心理学をどうやって広め定着させるかを考え提案したほうが建設的だと思います。一部の人たちが学会に集まって正統なるアドラー心理学を継承しているだけでは、アドラー心理学は人類のために生かされません。

野田さんは知りませんが岸見さんじたいが攻撃的な面があるので反論されても仕方ないと思います。

幸せになる勇気にてパニック障害について間違えた解釈を広めてますよね。(私はパニック障害ではありませんが)

アドラーの時代に発見されてなかったであろう病をアドラーで解釈する意味は私にはわからないです。

通りすがりさん

あなたのご指摘が私には理解できません。具体的に説明していただけないでしょうか。

岸見さんが攻撃的な面があるとのことですが、私には全くそのように感じられません。何をもって攻撃的と判断されたのでしょうか。「他者への批判」という点で言えば、岸見さんは公の場で他者の批判はほとんどしていないと思いますが、野田さんはご自身のホームページなどで批判をなさいますので、野田さんの方が批判的だと私は捉えています。

パニック障害についての間違った解釈という指摘も具体性がなく、私には理解しかねます。

再度すみません。
パニック患者は仕事に生きたくないからパニックを起こしてるのような記載がありますよね。(パニック障害は一度発作を起こしてしまうと後は実際に発作を起こしてなくても発作が起きるかもという予期不安で電車に乗れなくなるという理解をしています)

攻撃的という表現は不適切だったかもしれませんが、アドラー心理学の対象は心が健康な範囲のはずなので、赤面症やパニック障害などの具体的疾患名を持ち出して批判だけすることでそれらの患者が読んだら少なくとも傷つくだけで勇気づけにはなってないと思うのです。(個人的には乗り越えようというニュアンスは感じられなかったです)

私はアドラーを本格的には学んでないので間違いや不理解はあるかもしれません。不愉快にさせてしまったら申し訳ないです。

通りすがりさん

目的論から考えると赤面症もパニック障害も目的があってそのような症状を起こしているという説明になりますし、それが間違いだとは私は思いません。

私もはじめて「嫌われる勇気」を読んだときには、目的論による赤面症や引きこもりの説明に戸惑いましたが、読み進めるにつれて次第に目的論が納得できるようになりました。目的論の考え方が間違いだとは思いませんし、基本的にはパニック障害なども目的論で説明できるかと思います(もちろん支持しない方もいるでしょうけれど)。

「嫌われる勇気」では、青年の質問に応える形で哲人がアドラーの思想を単刀直入に説明しています。このような書き方は、アドラー心理学を分かりやすく説明するための古賀さんの手法ではないかと思います。あくまでも対話を用いた「説明」ですから不適切なライフスタイルを選択した方を批判しているわけではないのですが、人によっては自分が批判されていると受け止めてしまうかもしれませんね。この点については、たしか野田さんも指摘していました。

「嫌われる勇気」の書き方が「ストレートで明確な説明」と捉えるか、「批判されている」と捉えるかは人によって違うと思いますが、これは自己受容ができるかどうかの違いが大きいのではないでしょうか。

批判されていると感じてしまう方は、野田さんの「アドラー心理学を語る」という4冊シリーズの本の方が受け入れやすいかと思います。

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