アドラー心理学の「トラウマを否定する」という考え方について、納得できないという人は多いと思う。なぜなら、トラウマ(心的外傷)とかPTSD(心的外傷後ストレス障害)は実際に存在するし、それが当事者にとっては生活上の大きな支障になっていると認識されているからだろう。
しかし、私はアドラーの主張は基本的に間違っていないと思う。岸見一郎さんはアドラーのトラウマ否定論について、「幸福の心理 幸福の哲学」(唯学書房)で以下のように説明している。
主人の側について歩くことを訓練された犬がある日、車にはねられた。この犬は幸い一命をとりとめた。その後、主人との散歩を再開したが、事故にあった「この場所」が怖い、と、その場所に行くと足がすくみ、一歩も前に進めなくなった。そしてその場所には近づかないようになった(Adler, Der Sinn des Lebens, S29)。
「事故にあったのは、場所のせいであって、自分の不注意、経験のなさではない」と結論付けた犬は、この考えに固執し危険はこの場所で「いつも」この犬を脅かした。
アドラーが比喩で語るこのケースは、PTSD(心的外傷後ストレス障害)のケースであると見ることができるだろう。神経症の人もこの犬と同じである、とアドラーはいう。面目を失いたくはないがために、ある出来事を自分が人生の課題に直面できないことの理由にするのである。
(27ページ)
私はこの部分を読んで、自分が犬に咬まれたときのことを思い出した。あれは小学校高学年の時だったと思う。道端のフェンスに犬が繋がれていた。動物が嫌いではなかった私は犬に近づいて頭を撫でようとしたのだが、犬はいきなり私にとびかかって腕に咬みついた。私はびっくりしたと同時に「しまった!」と思ったが、後の祭りだった。腕には犬の歯形がしっかりとつき血がにじんだ。ただし、犬も本気で咬みついた訳ではなかったようで、大事に至るような怪我ではなかった。
犬が嫌いではないがゆえに、咬みつかれるとは考えもせず不用意に近寄ったことが不幸を招いた。その後しばらくの間、私は大きな犬を見たり犬に吠えられるたびに恐怖に襲われた。アドラーの比喩にある交通事故にあった犬と同じであり、いわゆるPTSDといえるものだろう。これは、恐らく咬まれたときの恐怖が「犬=恐怖」という記憶となって脳にインプットされてしまったのだと思う。しかし、いくら犬が吠えたてたとしても、繋がれているなら近寄らなければ咬まれないし、人に咬みつく犬は多くはない。よく考えれば犬という動物はそれほど怖がる存在ではないのだ。それを自分で認識するようになるにつれ、犬への恐怖感は消えていった。
「クモ恐怖症」も同じだ。クモ恐怖症の人はクモが大嫌いで、クモを見ただけで怖がりパニックになったりする。これもトラウマ、PTSDと言えるだろう。クモ恐怖症になってしまう人は、恐らくクモに咬まれて痛い思いをしたとか、テレビや映画などでタランチュラなどに襲われる場面を見たことが「クモ=恐怖」として脳にインプットされ、その思い込みから逃れられないのだろうと思う。
しかし、私を含め、クモが大好きな人はたとえクモに咬まれて痛い思いをしてもクモ恐怖症になることはない。クモ愛好者の多くは素手でクモを採集するが、たまに咬まれてしまうことがある。そんなときは自分に問題があったと自覚しているから、クモが悪いとは考えない。また、クモの毒性についても知識があるから、たとえ咬まれても冷静に対処できる。大半のクモは怖い存在ではないと理解していれば、クモ恐怖症にはならない。
ちなみにクモや昆虫を素手で触る私を見て育ったわが家の子どもたちは、クモも昆虫も怖がることはない。恐怖症になるか否かは、過去の経験や周囲の人の影響で「○○は怖い」という情報が脳に刻まれてしまい、それに強く支配されてしまうか否かというところにありそうだ。そして、恐怖に支配されるか否かは、当事者の意識が大きく関わっている。
夫のモラハラ(モラルハラスメント)でPTSDになったという人のブログを読んだことがある。モラハラ夫は妻を自分の所有物のように支配しようとする。その女性は、モラハラ夫が単身赴任になり週末にのみ自宅に帰ってくる生活になってから、週末になると酷い体調不良で入院するようになった。そして、医師からPTSDだと告げられる。その後、彼女は離婚を決意して離婚のための行動にでるとPTSDがなくなったそうだ。この女性が夫のモラハラによってPTSDを発症したのは事実であっても、意識の転換によって発症を抑えることができたのだから、PTSD発症の鍵を握っているのはモラハラそのものというより女性の意識が大きい。ならば、モラハラがPTSD発症の直接の原因だと決めつけることにはならない。
ところが、PTSDに苦しんでいる人はしばしば自分の不幸や辛さを、トラウマを生じさせたできごとのせい、あるいは加害者のせいだと考える。このような原因論に捉われてしまうと、意識の転換ができないのでずっとPTSDに支配されることになる。そして、自分の責任をトラウマに転嫁させてしまうことになりかねない。アドラーはこれを「見かけの因果律」と言った。
モラハラ夫でPTSDになった女性の事例で言うなら、モラハラ男との結婚という選択をした責任は彼女にあるし、夫の支配になんら対策を講じずに結婚生活を続けた責任も彼女にある。その責任を自覚して自分の抱える「愛の課題」に向き合い離婚の決意をしたときにPTSDから解放されたといえるだろう。
自分自身に何ら責任がない事件や事故、自然災害などによる恐怖もトラウマになる。しかし、そのトラウマは前述したように、脳が勝手に刻み込んだいわば「思い込みによる恐怖」といえるものだ。事件が起きた場所に行くとPTSDを発症するという場合があるが、そこに行ったらまた同じことが起こるというわけではない。脳に記憶された恐怖が場所と結びついているだけだ。
事件や事故、自然災害に巻き込まれることは稀であるし、その教訓を今後に生かそうと自覚できれば、トラウマの恐怖に支配されることもなくなるだろう。PTSDになるかどうかは当事者の意識が大きく関わっているのに、過去の事件や事故のみに原因を求めて固執する人は、いつまでもPTSDから抜け出せなくなり、やがてトラウマやPTSDを、自分が人生の課題に取り組まないことの言い訳にするようになる。
岸見さんの著書から再び引用したい。
アドラーは、トラウマは必ずしもトラウマである必要はなく、いかなる経験もそれ自身では、成功の、あるいは、失敗の原因ではない、人は経験によって決定されるのではなく、経験に与えた意味によって自分を決めている、と考えている(What Life Could Mean to You, P42)。
トラウマによる不安を訴える人がもともと困難を回避する傾向があるということはありうる。働きたくないと常々思っていた人であれば、職場に行かないでいることを正当化する理由ができたと思うかもしれない。最初は事故にあった場所や事件に巻き込まれた場所に行った時、不安になったり心臓の鼓動が速くなったり頭痛がするという症状が出ただけだったのに、やがてその場所の近くを通りかかるだけでも症状が出るようになり、そうなると外へ一歩も出られなくなるのはすぐのことである。
(30ページ)
アドラーはトラウマやPTSDの存在そのものを否定しているわけではない。過去の辛い経験について、当事者がトラウマだと思えばトラウマになってしまうが、そう考えなければトラウマにはならないと指摘しているのだ。トラウマになるか否か、PTSDを引き起こすか否かは過去の経験そのものより、当事者の考え方(経験にどのような意味づけをするか)によって決まる。だからこそ、同じ辛い経験(たとえば大津波で家族を失うなど)をしても、PTSDになる人とならない人がいるのだ。
岸見一郎・古賀史健著「幸せになる勇気」で、アドラー心理学を説く哲人は以下のように語っている。
彼らのような生き方を選ぶのは子どもだけではありません。多くの大人たちもまた、自分の弱さや不安、傷、不遇なる環境、そしてトラウマを「武器」として、他者をコントロールしようと目論みます。心配させ、言動を拘束し、支配しようとするのです。
非常に厳しい言い方であるし、PTSDに苦しんでいる人にとっては受け入れがたい考え方かもしれない。しかし、この指摘はやはり真実だと思う。過去の経験にどのような意味付けをするかでトラウマになるかならないかが決まるのなら、意味付け(考え方)を変えることでトラウマやPTSDから抜け出すことができる。それにも関わらず、「自分の不幸は不遇な環境やトラウマのせいであり、自分には一切責任がない」という思考にはまってしまうと「意味付けを変える」という思考ができず、いつまでもPTSDに捉われて前に進めない(人生の課題に取り組まない)ばかりか、無意識のうちに他者を支配することになりかねない。
アドラーのトラウマ否定論については、以下も分かりやすい。
http://diamond.jp/articles/-/52954?page=4
http://yuk2.net/man/110.html
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