断捨離
断捨離を始めた。心の奥では溜まりに溜まったモノを何とかしなければ・・・とずっと思ってはいたのだけれど、モノが溜まれば溜まるほど断捨離をするのがおっくうになる。所詮、怠惰なのだ。
なぜモノが溜まってしまうのか。いろいろ理由(言い訳)はある。私の親は何でもとっておくタイプだった。だから私もその感覚が自然と身についてしまったということが一つ。古くなったり壊れたりして使えなくなったものはともかくとして、自分の所有物を捨てるという感覚が子どもの頃からなかった。だから子どものときに友だちからもらった手紙まで箱に入れてしまってあったし、それが当たり前だと思っていた。しかし、よくよく考えてみたら、そんな人はいったいどれほどいるのだろう? ここまでくると笑うしかない。
「もったいない」「とっておけばいつか使うこともあるだろう」というのもモノが捨てられない言い訳の一つだ。そうやってとっておいても、結局それを使うことはほとんどない。しかも、何年も経つと何をとっておいたのか、どこにしまったのかも忘れてしまう。そして押入れや棚の空間を占領し続ける。
今回の断捨離も極めて消極的な理由から始まった。クモの標本置き場がなくなってしまったのだ。これを解決するには、棚の中を整理して要らないものを捨てるしかない。そうやって断捨離を始めてみたら、まあ呆れるほどゴミの山ができあがった。よくぞこんなに溜めこんだものだと思う。とくに多いのが自然や自然保護関係の会誌や資料。今関わっている団体の資料だけ残し、それ以外のほとんどをファイルから外して紐で縛る。
40年以上も前の学生時代の資料も出てくる・・・。青春の思い出をばっさりと切り捨てるような感覚になるが、過去に拘り執着したところで感傷でしかない。もういい加減モノへの執着は止めねばならない。
母が亡くなった2年前、実家の片づけをした時のことを思い出した。最終的には業者に処分をお願いしたのだけれど、その前に家の中のモノを一通り確認しなければならない。大量のゴミ袋を買って、個人情報の書かれたものは可燃ゴミに、雑誌や紙類は資源ゴミに・・・といった具合に、汗だくになって仕分けをしてゴミ出しをした。しかし、親のことを言ってはいられない。自分自身も大量のモノを溜めこんでいるではないか。これでは残された者はたまったものではない。
モノが増えれば増えるほど、断捨離の決行にはエネルギーが要る。しかし、歳をとればとるほどエネルギーがなくなってくる。人生の終盤にさしかかったもののまだ多少なりともエネルギーが残っている今やらねば、大変なことになるに違いない。
数日間の断捨離でかなりすっきりしてきた。でも、まだまだ捨てるべきものはいろいろある。本棚の本も減らそう。押し入れの中もチェックしなければならない。衣類の断捨離は一度やったが、もう一回やる必要がありそうだ。時間をみて、少しずつ進めていこう。せめて、残された家族に大きな迷惑をかけないようにしておかねば、と思う。
« 競争の弊害 | トップページ | アドラーのトラウマ否定論について思うこと »
コメント