競争の弊害
私はスポーツにはとんと興味がないし、オリンピックも関心がない。オリンピックがすでに商業主義になっていることもあるが、メダルや勝敗にばかりこだわることにどこかうんざりとした気持ちがある。テレビも見ていないからどうでもいいといえばそうなのだけれど、新聞は毎日、トップでオリンピックでの選手の活躍ばかり伝えているので、興味がなくても目にはいってくる。
そんな中で飛び込んできたのが、レスリングで銀メダルをとった吉田沙保里選手が「金メダルが取れなくて、ごめんなさい」と泣いて謝る痛々しい姿。彼女の謝罪には、日本の代表として競技に臨む選手の重圧がそのまま現れている。彼女の謝罪に違和感を覚えた人は多いと思うが、こうした無言の圧力こそ無用なものだし、私がスポーツに関心を持てない理由のひとつだ。
吉田選手は謝る必要などまったくない。彼女は日本のためにレスリングをやっているわけではないし、彼女を応援している人のためにやっているわけでもない。最善を尽くしたのだからそれでいいではないか。今回は金メダルをとれなかったが、次もダメだとは限らないのだし、自分の期待がかなわなかったからといって他人がとやかくいうことではない。王者といわれる実力の人でも、永遠に王者でいることはできないし、いつかは後進に道を譲らねばならない。第三者が勝手に期待をかけてしまうこと自体が間違いだと言わざるをえない。
日本では、中学や高校の部活動においても勝敗にこだわる教育がなされている。とにかく勝つことが目的になっている感がある。これは何もスポーツに限らない。文化系の部活でも、コンクール、コンテストなどで競うことは少なくない。もちろん、試合において勝利を目指すことを否定はしないのだけれど、なぜそこまで競い、勝敗は順位に拘るのかと、私は不思議でならない。
たとえば写真甲子園という高校生の写真選手権大会がある。新聞に掲載された入選写真を見ていつも思うのは、結局「選ばれること」を意識した写真になってしまうということだ。はじめから入選を意識するので、「撮りたい写真」ではなく審査員の目を意識した「入選するための写真」を撮ることに必死になる。写真のような芸術は、本来、評価されるために撮るものではないし競うものではないと思うのだけれど、なぜそこまで競いたいのか私には理解しがたい。
勝敗にこだわり、子ども達を追いたてれば無言の圧力になってしまうし、ときに本来の目的や楽しさから外れ、他者の期待を満たすことが目的になりかねない。競争も圧力もマイナス効果しか生まないと思う。
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