小野昌弘氏の放射能恐怖に関する連載記事についての感想
英国在住の免疫学者である小野昌弘氏の「放射能恐怖という民主主義の毒」という連載記事に関し、ツイッターで賛否両論が交わされている。私は小野氏の放射能に関する認識は間違っており、間違った認識によってお門違いの批判を展開していると捉えている。
この小野氏の主張は、ニセ科学批判クラスタの人たちによる、根拠薄弱な放射能安全論と深く結びついていると私は考えている。そして、放射能による影響が明確になってきている今だからこそ、このようないい加減な安全論の流布に対してはっきりと批判しておくべきだと思う。
小野氏の連載最終回の記事を読んでの私の連続ツイートを以下に貼り付けておきたい。
①小野昌弘氏はこちらの記事http://bylines.news.yahoo.co.jp/onomasahiro/20160102-00053053/で、原発事故後に「『御用学者』というレッテルを貼る動きが科学者・専門家全体に拡大し、本来的検証の動きを阻害した」と言うけれど、御用学者など原発事故前から大勢いた。
②ただ、原発事故前はそれほど目立たなかったにすぎない。否、日本の大学等の研究機関において、公の場で堂々と政府批判をする研究者は少数派で、多くの研究者は立場上、自由に批判もできず沈黙しているか、あるいは魂を売って御用学者になってしまっているといっても過言ではなかろう。
③大学教授などの科学者が政治とまったく無関係でいられるということにはならない。とくに多額の研究費が必要な自然科学系の研究者が研究費を得ようとしたなら、政府の望む研究を手がけるというのが当たり前の状況だ。大学教員の多くは自分の探究心より研究費や地位を優先せざるを得ない。
④つまり研究費を得、昇進するためには、政府の望む分野での研究を手がけるのがもっとも手っ取り早い。そうやって、科学者は政府に利用され御用学者になっていく。国立大の教授を定年退職したある知人から聞いた話しだが、在職中はなかなか自由に物を言えないというのが現状らしい。
⑤そんな中で御用学者にならないよう自分の意志を貫くのは強い意志が必要だし、場合によっては昇進もあきらめねばならない。小出裕章氏が助教のまま退職したのも、原発に反対しつづけてきたからだろう。しかし、小出氏のように地位や高給を望まず自分の意志を貫ける人はほとんどいない。
⑥study2007氏は「科学」への投稿も匿名だったし、「見捨てられた初期被曝」も匿名で出版した。彼が匿名でしか被ばく問題を書けなかったのも、研究者として名を明かせない事情があったのだろう。この国では研究者が良心に忠実で誠実な態度を貫くことはとても困難だ。
⑦日本の研究者の置かれた状況を考えるなら、権力者の意向に流されず自分の主張を貫く研究者は冷遇される。だから多くの研究者は御用学者になってしまうか、あるいは政治的発言を控えて沈黙を貫く。しかし、魂を売った御用学者の嘘が暴かれ批判されるのは当然の成り行きだろう。
⑧一方で、小野氏の言う「御用学者パージ」とは何なのだろうか? 私が思うに、小野氏は「原発業界御用学者wiki」の批判がしたかったのではないかと思う。専門家に対し、こういう吊るしあげや晒しをするなと。もちろん、御用学者wikiが間違いだらけならそういう批判も有りだろう。
⑨しかし小野氏はここで完全な勘違いをしていると思う。原発問題、被ばく問題に関しては、原子力や放射線の御用学者が明らかに存在した。しかしそれ以外にもニセ科学批判クラスタ等による浅薄で根拠薄弱な放射能安全論が流布された。彼らの大半はエア御用と称された。
⑩つまり、利害関係の絡む御用学者と、リテラシーの欠如と思い込みで「健康被害は生じない」と流布した科学者の問題は分けて考える必要がある。前者は自分の利益のために意図して嘘を撒き散らすが、後者は善意と思い込みで嘘を撒き散らしているのであり、ともに有害だが質がまったく違う。
⑪そして小野氏はニセ科学批判の人たちの言説を真に受け、彼らの放射能安全論を具体的に検証もせず、彼らを批判する反原発の人たちを「放射能おばけ」と揶揄して批判した。つまり、小野氏の被ばくに対する認識は、ニセ科学批判クラスタの人たちと何ら変わらないということだ。
⑫確かに反原発の人たちの中には、これから首都圏では被ばくで○万人が死亡するとか、東京は滅亡するといった根拠のほとんどない発言をする人たちもいるし、妄想としか思えない陰謀論を振りまいている人たちもいて、私はそういう人たちは警戒して距離を置くようにしている。
⑬しかし放射能安全論を振りまく科学者に何の疑問を持たずに専門家として持ちあげ、根拠なく危険を吹聴する一般人のみを「放射能おばけ」と批判する姿勢にはとても賛同できない。小野氏はリテラシーのなさから的外れの批判を展開してしまったとしか私には思えない。
それから、以下はニセ科学批判の人たちに対する私のツイート。
ニセ科学批判の人たちを見ていて感じるのは、彼らは常日頃から批判できる対象探しに目を光らせていて、これぞと思う事例を見つけては批判をして悦に入るという習性が身についてしまったのではないかということ。批判することが目的になると、批判のネタが目についたらすぐに飛びつく。
福島の原発事故のあとも、彼らは放射能絡みのニセ科学批判に飛びついた。批判が的を射ていればいいのだが、誤認や思い込みで批判を展開してしまったがゆえ反原発の人たちから批判される結果となった。早い時点で過ちに気付いて訂正すればよかったのだが、なぜかそういう判断はしなかった。
彼らの危うさは、「はじめに批判ありき」という意識が強くなりすぎ、批判すること自体が目的になってしまって否定の根拠を探すことに躍起になり、自分たちへの批判を真摯に受け止めないこと。そして誤ちを訂正する方向に向わず、集団の同調性によって暴走してしまうことだと思う。
*ツイートをあとから読み返すと日本語としておかしな言い回しもあるが、ツイートは訂正できないのでここではそのまま掲載した。
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反原発の人々が、反原発の衣を被ったニセ科学を積極的に批判し、議論から排除しないことに驚きです。ブログ主も「警戒して距離を置く」だけのようですし。
ひょっとして自分たちの主張も一部(大部分?)はニセ科学に属する内容だからでしょうか?
だとすると、後半のニセ科学批判者への批判も理解できます。他人事とは思えないでしょうから。
投稿: 通りすがり | 2016/07/03 03:41
通りすがりさん
「反原発の衣を被ったニセ科学」というのは具体的にどのようなことを指すのでしょうか?
投稿: 松田まゆみ | 2016/07/03 12:29