優しさとは何か
イワシさんの「ぼくには優しさが欠けていた」という記事を読んで、優しさとは何なのだろうかといろいろ考えさせられた。イワシさんは、7月15日の裁判をレポートしたあと、黒木さんからフォローを外されたそうだ。自分の報告が彼女を傷つけてしまった以上、自分は加害者であり応援者とは言えないと彼は言う。
私はイワシさんのツイートも裁判関係の記事もほとんど目を通している。彼はとても気配りができる優しい男性だ。黒木さんに対しても彼女を傷つけまいと言葉を選んでいるのが感じられる。それに対して、私の方がずっとストレートに自分の意見を言うことで彼女を傷つけていると思う。
実は私も少し前から黒木さんにフォローを外されている。いつ頃外されたのかはっきり記憶にないが、7月に入ってからだと思う。私は、こちらの記事で彼女が裁判の争点や立証責任について勘違いをしているとはっきりと書いてしまった。もちろん黒木さんは自分が勘違いをしているなどとは思っておらず、自分の納得いくやり方で臨んでいるだけだ。
ただ、彼女の勘違い(または錯誤)は客観的事実だし、本人尋問になればさらにそれがはっきりすることは分かっていた。
たとえ事実であっても、勘違いのことをはっきり書いてしまえば彼女に不快な思いをさせるのは避けられない。たぶん彼女を傷つけてしまうことになるだろう。それに、「あちら側の人たち」(黒木さんや彼女を応援している人たちの誹謗中傷をしている人たち)が黒木さんを揶揄するネタにするに違いない。彼女にとっていいことなど一つもない。だから、勘違いと書くことに躊躇がなかったわけではない。
私はとても重大な告発を堂々としてきた彼女を批判する気はない。でも彼女はたとえ事実の指摘であっても批判と受け止めるだろう。だからちょっと逡巡はしたけれど、この問題に関心を持ち追いかけてきた以上、やはり客観的事実や自分の感じたことをそのまま書くしかないと思った。勘違いのことを書かないと、弁護士もつけず応援者からの援助も断って一人で闘うという行動がすんなりと理解できないからだ。
優しさとは何なのか・・・。たぶんその答えは人によって違うのだろう。相手を傷つけないという気配りだと考える人もいるだろう。しかし、相手が気分を害することが予想できたとして、はたして本当の気持ちを隠して寄りそうことが本当の優しさなのだろうか・・・。相手には厳しいことであっても、事実をありのまま書くことが必要なこともあるのではないか・・・。それは単なる言い訳にすぎないのだろうか?
ちょっと脱線するが、私はそもそも自分のツイッターフォロワー数にそれほど関心がない。知らないうちに増えたり減ったりしている。フォローしてもらうことを期待してフォローするわけでもないし、フォローされたからといってフォロー返しをするという習慣も持ち合わせていない。自分がフォローしたいと思ったアカウントをフォローしているだけだし、それもかなり気まぐれだ。まして、フォローを外されたりブロックされることを恐れて、自分の本当の気持ちを封じてしまうなどということは私には考えられない。それは自分に嘘をつくことに他ならないから。
誹謗中傷や粘着、人格攻撃はもちろんのこと、相手を見下したり貶めたり執拗に自分の意見を押しつけるのはマナー違反だと思っている。このような方はフォローを外したりブロックすることはある。とりわけ意図して情報操作や嫌がらせをしているいわゆる工作員のような人たちは、いい加減な情報を流して錯誤させたり挑発して疲弊させたりするのが目的だから、ブロックに限ると思っている。
ただ、私は自分の考えと違う意見だからとか、批判されたからといってブロックすることは基本的にはしない。互いにフォローしている人であっても、意見が違うことがあるなんて当たり前のことだ。そして意見が違うことに関して批判するのも言論の自由の範疇だろう。ただ、批判をしたなら相手が気分を害するのは必至だ。人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じることを批判という(コトバンク参照)。自分は正しく他人は間違いだと評価を下すのだから、相手が気分を害するのは当然だ。
優しさとは何かということに話しを戻そう。たしかに他人を傷つけてしまような言動は優しいとは思えない。人を傷つけないことに越したことはない。しかし、だからといって社会的なことや政治的なことについて黙っているのがいいわけはない。個人個人が主体性をもち、意見表明をするというのは民主的な社会の構築のために不可欠だ。しかし、批判をしてしまうと相手は感情的になり人間関係はぎくしゃくしてしまう。
はたして人は誰も傷つけず、しかも自分に嘘をつかずに意志表明することができるものなのだろうか? これは限りなく困難なことに思える。
それでも、できる限り他者を傷つけず優しくありたいと思うなら、相手を悪く評価したり、指図するような押しつけがましいことはせず、単に事実を指摘したり自分の意見を書くよう心がけるしかないのではなかろうか。相手の考えを尊重した上で、事実の指摘や意見表明に留めるよう気をつけていれば、相手が感情的になるのを抑えることができると思う。
もっともそう努めていても相手が批判と受け止めて腹を立ててしまったのなら、それは相手の受け止め方(内面)の問題でしかないだろう。
たとえば、(意見の違いではなく)明確な事実誤認を指摘したときの反応は人さまざまだ。誤りの指摘に感謝して訂正するというのが常識的な対応だと思う。ところが自分が馬鹿にされたと思う人、自分の過ちを認めたくない人は不快になって腹を立てる。プライドの高い人ほどこういう傾向にある。極端な人は、そのことを根に持って相手の個人情報を晒したり、事実無根のネガキャンをするなどの報復に出ることすらある。また、相手が事実誤認であるという認識を持たず自分は正しいと確信していれば、やはり間違いという指摘は不快だろうし場合によっては反発心を抱くだろう。
誤りの指摘をありがたいと思うか不快と思うかは、受け止める側の意識の問題だ。黒木さんは恐らく自分が錯誤しているとは考えていない。だから、私が勘違いと書いたことで傷ついてしまったのは無理もない。この点において完全に平行線になってしまった。でも、裁判をどう闘うかは当事者である彼女が決めることだから、彼女が正しいと確信している闘いをすることに対し、誰も彼女を批判する権利はない。
そして、ムラ社会の同調圧力にも屈せず、スラグの埋め立て問題にたった一人で疑問を投げかけ抗議しつづけた彼女の行動は評価されることだし大きな意味がある。たとえ抗議行動に行き過ぎたところがあったとしても、彼女の告発は決して間違っていない。「黒木睦子さんの本人尋問で見えてきたこと」に書いた通り、私はこの裁判はスラップであり実質的には黒木さんの勝ちだと思っている。
それと最後にもう一つだけ言っておきたい。今回のことで「あちら側の人たち」は、恐らく相変わらず私への誹謗中傷をしているのだろう(ブロックしているから見てはいないが)。私はあなたたちが何を言おうと、発言を止めるつもりはない。あなたたちの意図はもう丸見えだ。目的が分かってしまえば、何を言われても腹は立たない。そして、あなたたちの言動はあなたたち自身の内面を映す鏡であると思っている。
« 黒木睦子さんの本人尋問で見えてきたこと | トップページ | 原始が原 五反沼探訪記 »
「雑記帳」カテゴリの記事
- にがりの効用(2025.03.06)
- 家事に定年はいらない(2025.02.21)
- デジタルからアナログへ(2025.01.16)
- 他責思考と「反ワクチンではない」の心理(2024.11.03)
- 健康の責任(2024.08.31)
コメント