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2015/05/21

「シャーロットのおくりもの」が伝えるもの

 私が小学校高学年の頃だったと思う。サン=テグジュペリの「星の王子さま」という本が話題になった。たしか国語の教科書にその一部が教材として載っていたことがきっかけだったと思う。私はその教科書に掲載されたウワバミの話にそれほど興味を持たなかったが、友だちの中には星の王子さまを絶賛する人もいた。しかも大人の間でもブームだったらしい。そんなこともあって私も一度は「星の王子さま」を手にとって読んでみたのだが、どうしてもこの物語はピンとこないというか、全部読み終えるのも苦痛だった。そして、なぜこの本がそれほどにまで絶賛されるのかとうとう理解できなかった。

 もちろんそれがファンタジーだったからという訳ではない。小人が出てくる佐藤さとるの作品などは大好きだったし、すぐれたファンタジーは大人向けのつまらぬ小説より遥かに魅了される。

 だいぶ後になって、私が「星の王子さま」に関心が持てないのは、読んだときが子どもだったために著者が意図するところが理解できなかったのではないかという考えに襲われた。それで大人になってからも読んでみだのだが、やはりダメだった。どうしても好感が持てない。その理由は内容があまりに教訓的で、著者のメッセージが物語全体を支配しているとしか思えなかったからだと思う。

 同じように感じた作品に「チョコレート工場の秘密」がある。この本は私が子どもの頃に読んだのではなく、自分の子どもに買い与えた本のひとつだ。これも教訓が強烈に伝わってきて、それだけでお腹いっぱいという気持ちになってしまう。

 作家が物語に何らかのメッセージを込めるのは当たり前だし、伝えたいメッセージがあるからこそ物語を紡ぐといってもいいだろう。しかし、物語の良さとは心に響くときめきであり感性に訴える力だと私は思う。そしてメッセージは作品にそっと織り込んでこそ文学であり、あまりにはっきり書いてしまうとそれはもはや文学というより説教めいてしまう。私にとって、作者のメッセージが露骨すぎるとその物語がいっぺんに色褪せて見えるし、何か安っぽいものにすら思えてしまう。「星の王子さま」はメッセージが独り歩きしている物語だとしか私には思えなかった。

 さて、先日「シャーロットの名付け問題に見る日本人の幼児性」という記事で、「シャーロットのおくりもの」という児童文学のことに言及した。私が好きな物語の一つだ。

 主人公は一匹のコブタ。小さく弱々しく生まれたがゆえに危うく殺されるところを、ファーンという女の子に助けられたコブタのウィルバーのお話だ。命拾いしたウィルバーは、ザッカーマン農場の納屋で飼われることになる。農場の納屋には牝牛のほかにガチョウやヒツジも飼われている。ヒツジやガチョウから相手にされないウィルバーに優しく声をかけ、友だちになったのがクモのシャーロットだ。ところがある日、ウィルバーはヒツジのおばさんから大変なことを聞かされる。この農場の若いブタはクリスマスになると殺されてベーコンやハムになるというのだ。クモのシャーロットは、死にたくないというウィルバーを助けようと考え、いいアイディアを思いつく。そして自分の命が尽きるまで、ウシルバーのために最大限の努力をするのだ

 納屋の一階は牝牛の小屋になっているのだが二階には牛たちの餌になる干し草置き場があり、干し草の香りに満ちている。そして牝牛の小屋の地下にある堆肥置き場がウィルバーの部屋だ。ウィルバーの隣はヒツジやガチョウがいる。ほかにも食いしん坊で狡猾なネズミのテンプルトンが棲みついているし、納屋の一角にはツバメが巣をつくっている。

 納屋の天井からは先端に結び目がついてロープが垂れ下がり、子どもたちは二階の干し草置き場からロ―プにつかまって飛びおり、ターザンのようにぶらんこ遊びをする。一昔前にはどこにでもあったような農家の納屋の光景は、読者を数十年前の世界に一気に引き戻し、想像するだけで気持ちがほんわかとしてくる。そうして、読者は納屋での動物たちの会話や事件にときめくのだ。活き活きとした細やかな描写はそこに今いるかのように錯覚させ、動物たちのおしゃべりに引き込まれる。

 自分のことしか考えない自己中のテンプルトンと、それとは対照的に他者の命のために尽くす短命のシャーロット。お節介なガチョウのおばさんや思慮のないヒツジ。動物たちの性格は人間社会を投影している。そして農家の納屋で繰り返される動物たちの誕生と死。これこそがこの本のテーマであり著者のメッセージなのだが、動物たちの豊かな会話と物語は著者のメッセージを包み込んで、読み手を暗い気持ちにさせない。むしろ、死という重くて暗いテーマを新しい命の誕生という生命の連鎖に持っていくことで、安堵感を与えている。

 子ども達は、否応にもシャーロットの生き方に共感し、友情というものを受け止めることになる。こう書くとすごく教訓的に聞こえるかもしれないが、実際の物語はちっとも教訓的に感じない。子どもにとっては難しい生と死をテーマとしながら、悲しさ以上に暖かさに溢れている。それがこの本の魅力だ。

 恐らく誰もが無意識に共感するのがシャーロットの利他行為だろう。短い自分の命を知りながら、ウィルバーのために最後まで努力を惜しまない。人とは本質的に自己中の側面を持っている。しかし自己中の殻に閉じこもっている限り、私たちは本当の幸福感や充実感を得ることはできない。「シャーロットのおくりもの」は、読者の心に潜む感性を理屈ぬきに呼び覚ますのだと私は思う。

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