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2014/11/21

アドラー心理学をめぐる論争とヒューマン・ギルドへの疑問

 今年は、昨年末に出版された岸見一郎さんと古賀史健さんによる「嫌われる勇気」がベストセラーになり、アドラー心理学への関心が一気に高まった。かくいう私も「嫌われる勇気」でアドラー心理学のことを知った一人だ。そして、「空気を読む」という言葉に代表されるように、協調性ばかりを意識し、他者の視線を気にする人が溢れる日本で、アドラー心理学が広まっていくことは大いに歓迎すべきことと思う。

 ところで、「嫌われる勇気」に端を発したアドラーブームで、今年に入ってからアドラー心理学に関わる本が相次いで出版されている。これだけ次々にアドラー関連本が出版されると、なんだか便乗出版のような雰囲気も否めないし、興味を持っていてもどの本がアドラー心理学を学ぶのに適しているのかを見極めることも難しくなる。

 そんな中で、日本のアドラー心理学をめぐり東西での論争があることを知った。東西とはもちろん関東と関西である。学会などの内部で何らかの対立や論争があるのは珍しいことではないが、まさかアドラー心理学をめぐってもこのような論争があるとは夢にも思っていなかった。

 学術学会の内部の論争に関して、学会と関わりのない人がとやかく言うことではないだろう。しかしその論争は、アドラー心理学を広めている人たちの方針や教え方に関わることであり、これからアドラー心理学を学びたいと思っている人には非常に重要なことがらだ。つまり、決して学会内部のことにとどまらない。アドラーブームの今こそ、アドラー心理学に関心を持つ人たちはこの問題を知っておく必要があると思う。

 以下が、日本アドラー心理学会の会誌「アドレリアン」に掲載されたアドラー心理学をめぐる論争が書かれている論文である。

日本のアドラー心理学 (アドレリアン第14巻第1号、2000年2月)

日本のアドラー心理学(2) (アドレリアン第16巻第3号、2003年2月)

 これらは2000年と2003年に発表されている論文なので、すでに10年以上前の議論である。また、この論文で批判されている者も反論があるだろうから、この論文だけで物事を判断してしまうのは危険だとは思う。しかし、それでも以下のことを指摘せずにはいられない。

 つまり、アドレリアン第14号第1号の方の論文で指摘されている、東京の「ヒューマン・ギルド」に関することである。この論文の中で私が特に衝撃を受けたのは以下の部分だ。

「ヒューマン・ギルドの人々はアドラー心理学に関する多くの本を書いています。それらの本には、ただ子どもや生徒を操作する方法を書いてあるだけです。」

「日本のアドレリアンの大部分は彼らが間違っていることを知っていますが、彼らの本を読んだだけの人や彼らの講義を聞いただけの人は、彼らを信じるかもしれませんし、ほんとうのアドラー心理学を学んだと誤解するかもしれません。子どもを罰的な技法で操作するやり方をアドラー心理学の名前で教える人たちが、思いつくかぎりのあらゆるトリックを使って影響力を増やそうとしています。」

「ヒューマン・ギルドが教えることは子どもが親の期待にそって行動するよう強制したい人たち向けにデザインされていますので、ある人たちはそれを熱狂的に受け入れます。しかし、多くの人々は親子関係がしばしば悪くなってしまうので、勇気をくじかれてしまいます。彼らはアドラー心理学は効果がないのだと誤解してしまいます。われわれはヒューマン・ギルドが教えているのは、子どもを対等の仲間として尊敬し信頼するアドラー心理学ではないのだと、人々に告げていかなければなりません。」

 この論文によればヒューマン・ギルドのアドラー心理学は正統なアドラー心理学ではないということになる。アドラー心理学に関する本でありながら「ただ子どもや生徒を操作する方法を書いてあるだけ」という本があるのなら、びっくり仰天だ。またヒューマンギルドで教えているアドラー心理学が「子どもが親の期待にそって行動するよう強制したい人たち向けにデザインされて」いるのが事実であれば、それはアドラーの教えとは真逆ではないか。ヒューマン・ギルドの指導者の中に、アドラー心理学を私生活で実践しようとしない人がいるのであれば、これも驚くべきことだ。学会誌で論争になったり批判が起きるのも当然だろう。そしてこうした対立を経て、1998年にヒューマンギルドの坂本さんと岩井さんは日本アドラー心理学会を退会していたのだ。

 今から15年も前の論争ではあるが、二つの団体は今も存続しており、この論文の著者の一人である野田俊作さんは「アドラーギルド」を主宰している。一方、論文で批判の対象となっている岩井俊憲さんは、現在ヒューマン・ギルドの代表である。そして、岩井さんは、今年のアドラーブームに便乗するかのように次々とアドラー心理学の本を出している。

 実は、アドラー心理学について知りたい、あるいは学びたいと思い「アドラー心理学」で検索をすると、上記の2つの団体のうちヒューマンギルドの方がずっと上位にでてくる。一般の人は、大阪のアドラーギルドと、東京のヒューマン・ギルドが基本的なとことで違いがあるなどとは考えもしないだろう。アドラー心理学を学びたいと思う人たちが、上記の論争のことを何も知らず目立つ方に誘導されているとしたなら、由々しきことではないか。

 私はアドラーギルドの講座もヒューマン・ギルドの講座も受けたことはないので、この論文で指摘されていることについて確たることは言えないし、ヒューマン・ギルドの手法が間違っているとか不適切だと言える立場にもない。どちらの考え方や手法を支持するかは、個人個人が判断することだ。しかし、この論文の最後に書かれている「日本でなにが起こっているか知っていただき、この危機を乗り切るために助言をいただくためにこの発表をしました。」という文章からも、日本アドラー心理学会の人たちがヒューマン・ギルドのあり方に対して疑問を抱き、危機的に捉えていることは間違いないだろう。

 なお、この件に関しては熊本の本郷博央さんの以下のような意見もある。

アドラー以降のアドラー心理学 日本のアドラー心理学(勇気づけのページ)

 ここで本郷さんは以下の主張をしている、

 もしも、いくつかあるグループの内の一つが、「他のグループが学習しているアドラー心理学は正しくない。」とか「他人を操作するためにアドラー心理学を 使っている。」とか「自分たちのグループだけが、アドラー心理学を正しく伝承している。」などと主張していたら(そんなことはないと思いますが)、どうで しょう。

 ある程度アドラー心理 学を学ばれた方ならば分かると思いますが、他のグループを否定すること自体がアドラー心理学の基本原則を踏み外しているということが分かりますね。(だっ て、「不適切な行動には注目しない」で「理性的に話し合う」のがアドラー心理学のエッセンスですから。)

 しかし、私はこの主張には賛同できない。時代の流れとともにアドラー心理学も後継者に受け継がれ発展した部分もあるだろうし、いろいろなグループがあるということも事実だろう。しかし、指導者がアドラー心理学を私生活で実践していないのであれば指導者としての資質を疑うし、アドラー心理学の根幹をなす考え方(例えば他者を支配しないということ)と真逆のことを広めているグループがあるのなら、それはもはやアドラー心理学とは言い難いのではなかろうか。本郷さんのこの文章はこの「真正のアドラー心理学か、似て非なるアドラー心理学なのか」という学術論争の核心的部分を曖昧にしている。

 「アドラー心理学」と謳って、実際にはアドラー心理学の基本的な部分で矛盾することを行っているのなら、批判の対象となるのは当然のことだ。アドラー自身が学説の対立からフロイトと袂を分かっていったのと同じように、これは学術論争である。アドラー心理学が他者を批判することに否定的であるということを理由に、他のグループの批判や否定をすべきではないと主張することは、学術的な議論までをも否定することになると思う。

 また、そのような議論や批判を避けていたなら、アドラー心理学に関心を持ち真正(もしくは正統)のアドラー心理学を学びたいと思っている人が、何も知らないまま自分の意図しないグループに参加したり講座を受講してしまうことにもなりかねない。私は学術的な面からの論争や批判はもっと公にすべきではないかと思う。

 アドラーギルドもヒューマン・ギルドも共にアドラー心理学を学ぶ講座などを行っていることもあり、おそらく同じアドラー心理学を広める立場として公の場で相互の批判をすることは慎んでいるのだと思う。互いに批判をしあったらイメージの悪化にもなるし、場合によっては業務妨害にもなりかねない。だからこの問題は重要かつ深刻でありながら、なかなか表にでてこないのだろう。

 しかし、アドラーブームが巻き起こり、書店には何種類ものアドラー心理学の本が平積みされている今だからこそ、日本アドラー心理学会においてこのような論争があったこと、そしてその問題はおそらく今も変わっていないことを私たちは今こそ知る必要があると思う。「今も変わっていない」というのは、以下の平成26年9月20日に発行されたアドラーギルドのアドラーニュースからもうかがい知ることができる。

アドラー心理学基礎講座理論(アドラーギルド)

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コメント

私の意見にすぎませんが、私が実際に会った感覚と、お二人とのやり取りでは、アドラー心理学を生活の中で実践されているのは、周囲を勇気づけされているのは、岩井俊憲氏の方だと思います。だから、アドラーの孫弟子にあたるペルグリーノ博士が岩井俊憲氏と親しくされているのだと思います。ペルグリーノ博士も、生活の中でアドラー心理学を実践されていると、強く感じます。「こっちのやり方が正統派のアドラー心理学だ」と主張するよりも、自分と自分の周囲との関係をアドラー心理学にそって作り、自分のあり方を見つめて行くことが大事だと私は思います。

本郷博央さん

ご意見ありがとうございます。お二人というのはヒューマンギルドの岩井俊憲さんとアドラーギルドの野田俊作さんのことかと思います。私はお二人とお会いしたりお話をしたことがありませんので、お二人のアドラー心理学の実践に関して自分の経験に照らし合わせて言及することにはなりせん。

ただし、記事で引用している論文中に「これを知って、ヒューマン・ギルドの経営者である岩井俊憲氏はひどく怒って、高橋氏を大阪から招いた人を激しく非難しました。」(2ページの上から18行目)という記述がありますが、私はこの岩井さんの態度はアドラー心理学を実践していないと感じました。アドラー心理学を実践されているのであれば怒りという感情を用いずに冷静に意見を述べ、非難するということもなさらないと思います。

本文に引用した論文があるのは事実であり、私はここに書かれていることが間違っているとは思えないと考えています。また、この論争がすでに解決し、日本アドラー心理学会がヒューマンギルドを認めているのであれば、アドラー心理学会のHPの「リンク」の「国内のアドラー心理学学習グループ」にヒューマンギルドが掲載されていてもよさそうなものですが、掲載されていません。そして、「以下の団体の活動内容については、日本アドラー心理学会が内容を把握し、アドラー心理学を正しく伝承しようとしているものと認めます」と書かれています。

つまり、日本アドラー心理学会は今もヒューマン・ギルドをアドラー心理学を正しく伝承しようとしている団体として認めていないということです。

アドラーの孫弟子にあたるペルグリーノ博士が岩井さんと親しくされていることは、岩井さんがアドラー心理学を正しく伝承しようとしていることの根拠にはならないと思います。論文中(3ページの下から11行目以下)にも権威付けのために外国のアドレリアンに接近しようとしているとの懸念が述べられており、そのような目的で接している可能性も否定はできません。

なお、日本アドラー心理学会認定の資格取得と連携しているのはアドラーギルドです。日本アドラー心理学会の認定資格ではないカウンセラー資格などについて、野田さんは無免許運転と指摘しています。

日本アドラー心理学会認定の資格の有無はカウンセラーの質にも関わることであり、アドラー心理カウンセラーを志望する人にとっても、またアドラー心理カウンセリングを受けたいと思う人にとっても関心事であると思います。

はじめまして。最近「嫌われる勇気」がきっかけでアドラー心理学を学びだしました。
今度本格的にアドラーギルドの講座を受ける予定です。
ちなみに、ヒューマンギルドも調べた上でアドラーギルドに決めました。
理由は「本流だから」というだけです。
必要あればヒューマンギルドも受けてみたいとは思っています。

個人的主観ではありますが、
日本アドラー心理学会は型を気にしすぎている感じと情報が複雑化している印象を受けますし、
ヒューマンギルドはシンプルではありますが自己啓発への勇気づけを意識しすぎている印象を受けます。
なお、岸見先生の著書と野田先生の文献を比べると、岸見先生は非常に本質的でシンプルだと感じますが、
野田先生の文献は色々深堀しているため複雑化している印象を受けます。

私は個人で社会人の知人との間で「嫌われる勇気」の勉強会を開いたことがあります。
人それぞれがこの本を読んでどのように感じるのかという部分と意見交換するためです。
そこで気づいたのですが、アドラー心理学の最大の欠点はシンプル過ぎて解釈に幅があるということだと感じました。
それがアドラー心理学が広まらない一番の要因だろうと考えられます。

アドラー心理学での教えは非常にシンプルだと思います。
しかしながら、人が生きるために使うライフスタイルとアドラー心理学の理論の間に生まれる感情とのギャップにより、
アドラー心理学を曲解して解釈してしまいがちであるという事が解りました。
そのライフスタイルを紐解いていく事がアドラー心理学の真骨頂なわけですが、
いかんせんシンプルなものをシンプルに受け止められない人が多いという事実があるのは理解できました。

最初は、アドラー心理学はすごく人間の本質的なアプローチであり哲学的な学問だと思いました。
それに感銘を受け、私はアドラー心理学を学びだしたわけですが、
まだ、ちゃんと学んでいるわけではないですがオープン化されている情報や動画を見ていけばいくほど
私は一つの考えに行きつこうとしています(それを確認する為に講義を受けるのですが)。

アドラー心理学は哲学ではなく、アドラーの思想なんだと理解するようになりました。
アドラー心理学を学ぶ上での終着駅ともいえるだろう「共同体感覚を養う」事はある意味アドラー心理学の目的でもあると思うのです。
「共同体感覚」という考え方そのものがアドラーの思想だと今は思います。

色々と理論立てて会話されているので、私たちは人間は理屈や哲学的な解釈に捉えがちですが、
アドラー心理学は学問でありただの情報でありその本質は
世の中を社会を人を、ただただ単純にシンプルに考えられるようになる
「生きる為の道具」でしかないという事をまずは理解するべきなのではないかと感じるのです。

アドラー流で言えば、その道具をどのように使うかは使い手(双方の団体)の自由だと思いますし、
使われたもの(講義)をどのように理解するかは参加者の課題のはずです。
最終着地点が「共同体感覚を養う」という目的に準じる事ができているのであれば正しく使えているのだろうと思います。
そういう意味ではアドラーギルドもヒューマンギルドも双方の共同体を破壊しているとは言い切れないと思いますし、
避難したり否定したり優劣を語ったりしている時点で双方とも「団体あり方」について考えるべき点はあると感じました。

これから講義を受けに行くのが楽しみです。

渡邊幸太郎さん

ご意見ありがとうございました。

>「生きる為の道具」でしかないという事

この部分にちょっと違和感を覚えました。アドラーが願っていたのは、自分の心理学が広まることで戦争や差別のない平和な社会の構築を目指す人が増えてほしいということではないかと思うのです。

競争しない、対等、課題の分離といったことを多くの人が理解できれば、争いごとはぐっと減るのではないでしょうか。

すべての人の幸せを願っているのがアドラー心理学ではないかと私は思っています。

はじめまして。
岸見一郎氏の「嫌われる勇気」を読んでアドラー心理学を知り、興味を持っている者です。

なんとなく日本のアドラー心理学関係者に流派?がありそうだと感じていましたが、こちらのブログで初めてはっきりとこのような論争があることを知りました。

リンクにありました日本アドラー心理学会の会誌「アドレリアン」の論文、

日本のアドラー心理学 (アドレリアン第14巻第1号、2000年2月)

の一歳児が熱いマグカップを触ることへの坂本氏の関わりが気になりました。

勉強が足りず、何が問題なのかよくわからないのですが、もし可能でしたら解説していただけないでしょうか?

くまさん

私自身はアドラー心理学の専門家ではないので、あくまでも私の意見として書かせていただきます。

坂本氏は一歳の女児の手をとってカップのところに持っていき、女児に触らせました。熱いということがまだよく理解できない女児はされるままにカップに触り熱くて泣き出しました。これは大人が恣意的に女児に熱いカップを触らせ、それによって女児に恐怖を抱かせたということになるのではないでしょうか。こういうやり方は、大人に不信感を抱かせ子どもの勇気をくじいてしまうことになるのではないかと思います。

はじめまして、

1994年、私自身がうつ症状を体験し、解決方法を模索するうちに 野田俊作著「勇気づけの家族コミュニケーション」に出会いました。
この中で 「自己決定、自己責任」の考え方にカルチャーショックを受け、アドラー心理学にはまりました。

以来、実践と学びを続けています。
Adler School Professional Psychology でカウンセリング心理学を学びました。

アルフレッド・アドラー博士の主張は
「目の前に問題のある子ども、生徒がいたら親や教師が対応の方法を学ぶべきだ。」
「勇気づけの対応」

「将来の精神病理を防ぐことができる」ととして 親や教師への教育に力を入れました。

この部分を日本の政治家、教育者、養育者の方々に知って頂きたいと 活動しております。

シェシャドゥリ(福田)さん

私も「嫌われる勇気」をきっかけにアドラー心理学に興味をもちましたが、アドラーの考え方は胸にストンと落ちました。そして、他人の目を気にする人が多い日本人こそアドラー心理学が必要だと直感しました。

多くの親や教師がアドラー心理学を学んで実践することができたら、精神病理面はもちろんのこと、対等で平和な社会の構築にもつながるだろうと思います。

また、日本にはうつ病に限らず精神を病んでいる方が実にたくさんいますが、優秀なアドラー心理学のカウンセラーこそ増えてほしいと思います。

はじめまして、私はアドラーギルドでアドラー心理学を4年前から学んでおります。基礎講座も理論編も、パセージもパセージプラスも受講しております。嫌われる勇気が発刊されるまで、日本ではどちらかというとマイナーな心理学だったようの思います。しかし、空前のブームに乗って、実に色々な方が講座を開き、書籍も多数出版されております。先日、買いました本。。。途中で読むのを止めてしまいました。アドラーは共同体感覚を大切に、世の中の平和を願っていたように思います。また、その言葉使いも大切に丁寧に
翻訳されています。その本には。。。「勇気づけてあげられました。」っという言葉が毎ページに書かれてありました。私は不快な思いでそこで、そのページでその本を閉じました。上から目線、これは縦の関係では?そう感じるのは私だけでしょうか?アドラーが説く、横の関係、共同体感覚ではないと感じました。正しくは「勇気づけることができました」もしくは「勇気づけられました」だと思うのです。本のタイトルは。。。「アドラー流人をハッピーにする話し方」もうこの本を開くことは、今後一切ありません。どちらがどうというつもりも、ましてやそんな身分ではないのですが、私は使う言葉は大切に、大切に、したいなと思いました。野田先生はとても尊敬しております。惜しみなくご自分の知識を皆んなに共有してくださり、教えてくださいます。また、アドラー心理学の事、アドラーの言葉をとても大切にされているという事がひしひしと伝わってきます。

あかいろさん、コメントありがとうございました。

ご指摘の本を私は読んでいませんが、おっしゃる通り上から目線で対等には感じられませんね。アドラー心理学を正しく理解して伝えるという態度ではないと思います。今でもアドラーを冠してそのような本が出版されているのであれば、15年前に論争になった問題は今もほとんど変わっていないということでしょう。アドラーブームに乗って、アドラーの思想を反映していない偽ともいえるアドラー心理学が流布されているのであれば由々しきことです。

先日、東京に行った折に書店に足を運びましたが、書店の棚にはアドラー心理学のコーナーもできており「嫌われる勇気」をきっかけにアドラー心理学が広まりつつあることを喜ばしく思いました。しかし、それと同時に歪んだアドラー心理学を広めている人がいることを苦々しく思います。私がこの記事を書いたのも、アドラー心理学を学びたい人たちが真正のアドラー心理学の本を手にとり、また真正のアドラー心理学の講座を受けてほしいと思ったからにほかなりません。

格差がますます拡大し教育や福祉が切り捨てられている今、真に平和で対等な社会の構築のために、真のアドラー心理学が広まることは大きな意味があるでしょう。明日、26日には「嫌われる勇気」の続編である「幸せになる勇気」が発売されますが、真正のアドラー心理学の本が多くの人に広まりアドレリアンが増えることを願ってやみません。

岸見一郎氏や野田俊作さんのアドラー心理学と岩井俊憲氏の解釈は大きく違うと考えています。

20年以上前にまだ野田俊作氏が岩井俊憲氏の主催するヒューマンギルドに出講していたころから講座に参加しています。

岩井氏は野田氏に師事していたとのことですが、野田氏は岩井氏はアドラーの考えに基づいていないということで袂を分かったということです。
それからしばらくしてヒューマンギルドは急にペルグリーノ博士を持ち出してきました。

私にとってヒューマンギルドの講座で意義があったのは、野田氏のオープンカウンセリングとカウンセラー養成講座での野田氏の講義ビデオでした。岩井氏の説明は、大枚はたいて講座を受けたのに、とてもカウンセラーになれそうにない内容でした(お免状は出たのですが)し、進め方に勇気づけが感じられませんでした。

野田氏は「負のアドラー」という本を出されていました(絶版だと思います)。その中ではっきり岩井氏の問題点を指摘しています。

親が洗濯物にアイロンを掛けているときに幼い子どもが「私もやりたい」と言った時、岩井氏とともにヒューマンギルドにいた坂本氏は熱くて危険だと知らせるために、ほんのちょっと触らせると言っていました。(マグカップよりこわいです)。
野田氏は、「じゃあ、アイロンを掛ける洗濯物を分けるのを手伝ってくれる? 」と子どもに聞きます。

岩井氏の本のタイトルに「生徒をうまく動かす」という部分があって、あれ? と思ったこともあります(買ってしまったのですが)。

最近、youtubeにヒューマンギルドの講師の講義があったので見てみました。講師が「頑張ります」を連発していたので、これはアドラー心理学とは違うという気持ちを強くしました。

私は野田氏の講義・岸見氏の著作からアドラー心理学を学んでいます。

ヤメセンさん

詳しい説明ありがとうございました。

「他人を操作するためにアドラー心理学を使う」というのであれば、アドラーの思想とは正反対ですね。岩井さんがそのような考えのもとにアドラー心理学講座を開催されているのであれば、偽のアドラー心理学といっても過言ではないでしょう。そうであれば、アドラー心理学会から受け入れられないのも当然のことと思います。

岸見一郎さんも、「幸せになる勇気」を出した理由として、「子どもであれ部下であれ、他者を操作・支配するためにアドラー心理学が使えると思っている方には、アドラーが本当に伝えたかったのはそういうことではないと知ってほしいのです。それが『幸せになる勇気』を出した理由です。」と語っています。
http://diamond.jp/articles/-/87095?page=3

野田さんも岸見さんも、アドラーブームにのって誤ったアドラー心理学が広まってしまうことを懸念されているのでしょう。

はじめましてこんにちは。

ヒューマンギルトのSMILE(勇気づけの方法を学ぶ)を受講中です。1章30分。1日4章(受講料1万円)。3日(全12章)で受講終了。
受講修了者は、さらに4万円だしてリーダー資格を取ると、SIMLEの資料を使った勉強会を主催できる。というものです。

今まで2日間(8章分)受けました。
1日目に「交流分析」で使用するエゴグラムが突然登場して驚きました(私は、前に交流分析を基に長年カウンセラーをされている方のもとで勉強したことがあるので、エゴグラムは知っていましたが、周りの参加者さんは知らない様子でした。)。
なぜ驚いたかというと、これはアドラー心理学では無いという解説がされておらず、設問が中途半端であるため、後で見る性格診断一覧が全く理解できない仕組みになっていたためです。事実、参加者からもその旨の質問や発言が出ていましたが、納得いく回答はされませんでした。(資料:2009ヒューマンギルドSMILEシート3-2及びシート3-3)

目的論についても、余り時間を取らずにさらっと流しており、同じグループでは理解できないで戸惑っている人もいました。


私は、昨年暮れに、岸見先生の「アドラーを読む 共同体感覚の諸相」を読んでからアドラー心理学に興味を持ち、岸見先生の本のみ数冊読んできました。できればもっと深いレベルで学びたいと思い参加した勉強会でしたが、今の所の感想は、言わずもがなです(既に3日目までの受講料を支払い済みですが、3日目は参加しないつもりです。)。

お金払って勉強会に参加する前に、この記事を見てればなと思ったものですから、コメントさせていただきました。

ホンダさん

体験談とご意見ありがとうございました。実際の状況を知って、大変由々しい事態だと感じました。

ホンダさんの場合は岸見さんの本を読まれていて知識があったので疑問を持たれたのだと思いますが、そうではない受講者の方も大勢いるのではないかと思います。アドラー心理学が注目されるなかで、誤ったアドラー心理学が広まることを懸念します。

記事の最後にリンクさせたサイトで野田俊作さんが指摘されていますが、アドラー心理学を学びたいと思っている方は、アドラー心理学を教えている方が日本アドラー心理学会認定の資格を持っているかどうかを確認されるとよいと思います。また、アドラー心理学によるカウンセリングを受けたい方も、カウンセラーが日本アドラー心理学会認定のカウンセラーであるかどうかを確認されたほうがよいと思います。

ホンダさんのコメントを見て驚きました。

SMILEの開発者は野田俊作だったのに、
版権がヒューマンギルドだったがために、
そんなことになってしまっているのですね。

開発者の名前(著者名)の記載などはどうなっているんでしょうかね。

アサダさん

以下の論文によるとSMILEは「野田らが1986年に日本で開発した同様のトレーニング・プログラムである」となっています。
http://adler.cside.ne.jp/database/011/011_03_kamata.pdf

また、以下の鶴田恵美子さんのサイトでは「アドラー心理学の大家、野田俊作先生のもと、岩井俊憲先生他、諸先輩方に混じって(私だけワイワイしていた、皆はウンウン)作った賜物です。」と書かれています。
http://ameblo.jp/emismileyokohama/entry-11963317631.html

これらのことから考えると、SMILEの開発には野田さんのほかに岩井さんも含めた複数の方が関わっていたのではないでしょうか。また、開発にあたってはこのプログラムを営利目的で利用するなどということは考えていなかったのではないでしょうか。したがって「誰かに版権がある」というものではないように思います。

私が気になるのは、ヒューマン・ギルドが会社組織であるということです。会社である以上、アドラー心理学を営利目的に使っていると見なせます。アドラーは自分の心理学を営利目的で使ってもらいたいとは考えていなかったと思います。NPO法人など非営利組織としてアドア―心理学を普及させるのならともかく、会社組織というのは賛同できません。

根拠を示してのコメントありがとうございます。

また、言葉足らずのコメント失礼しました。

たしかに野田俊作氏は、厳密にはSMILEの「開発責任者」ですね。

これは元々SMILEに明記され、開発責任者としてのコメント(他には誰の名前もコメントもなく)に丸々1ページを割いてあったことからも明白ですね。

それが、現在は改変されてアドラー以外の内容の章が出来ているとのことへのコメントでした。

SMILEは,開発当初よりヒューマンギルド(営利企業)出版部の出版物のようですが…

SMILEというのはそもそも野田さんが中心になって岩井さんも含む複数の方たちが関わって開発したプログラムにつけられた名称のようですね。そしてヒューマンギルドではその名称をそのまま講座名や出版物名に使っているように見受けます。

なお、私はヒューマンギルドのSMILEという出版物を見ていないので、その出版物の内容が野田さんたちが作られたプログラムそのものなのか、プログラムを利用してヒューマンギルドが独自に作製したテキストなのか知りません。

いずれにしても、以前は野田さんと岩井さんの関係は悪くなかったようですから、岩井さんがSMILEを講座名や出版物名として使うことに関し、お二人の間でトラブルはなかったのではないでしょうか。あくまでも私の想像ですが。

こんばんは。
岩井講師のセミナーを受けて、かなりびっくりしたのでこちらに書かせていただきます。

飲み会の席で、受講者のおひとりがやや空気の読めない発言をしていて、
それが不愉快だったようです。

「僕は、君の態度はとても残念に思う。
何が残念かわかるか?
じゃあ、ここにいる皆に聞く。
はい、この人が残念だと思う人は、挙手をして」
まるで、集団リンチというか、公開処刑のようでした。
糾弾された受講生が恐縮して
「僕のせいで、雰囲気を悪くしてすみません」と謝っても、無視。
彼が席を立ったタイミングで「皆で写真を撮ろう」と言い出し、
「あの方がトイレに行っています。待ちましょう」と他の受講生が指摘したら、むっとしていました。

アドラー心理を学んだ、勇気づけの伝道師だといっても、こんなものかと呆れました。

受講生が気に入らない態度を取っても、それをプラスの方向に転換させるのが
一流の講師だと思いますが、講師業以前に人間性がひどすぎると思いました。

突然の書き込みを失礼しました。

まさこさん

コメントありがとうございました。

アドラー心理学の指導者でありながらアドラー心理学を実践するつもりはない、というのはどうやら本当のようだと感じました。ご自分の事業のためにアドラー心理学を利用しているということであれば、それこそアドラーが望んでいたこととは正反対でしょうし由々しきことと思います。

続きです。

その男性受講生を岩井俊憲氏が責めている間、
二人の女性が腕を組んでいました。
岩井氏「ほら、彼女たちが腕を組んでいる。どういう意味かわかるか」
ふたりが腕をほどいて「癖です」と言っているのに「癖じゃない!」と否定。

腕組みは、相手に不快感や警戒心をもっているときに無意識に出るといいます。
岩井氏は「男性受講生が不快だから、彼女たちは腕を組んだ」と主張したかったのでしょうが、おそらく彼女たちが不快感をおぼえたのは、講師に対してだったと思います。

講義では「アドラーは相手をコントロールしない」といいつつ、自分の都合のよいように私見を押し付ける。
それだけでなく、周囲の人間を勝手に加害者にしてしまう。

メルマガでも気に入らない受講生について言及しています。
宴会で公開処刑をした彼とは別人でしたが、怒りポイントは一緒でした。

岩井氏の公開処刑…義務制の教諭がやったら懲戒処分ものだと思います。
一流講師とはかなり乖離がありますね。

ただ、自分の都合の良い反応を返してくれる人は可愛いようで、そういう方たちが支援しているのだと思います。

人なので、人から見たらダメに見える時もあるけど、人なので、それぞれの道を進めば、それでいいんじゃないですか。それが人生ですよ。

記事を読ませていただきました。論文とコメントも読ませていただきましたが、とても面白かったです。ありがとうございます。

僕は独学でアドラー心理学を学んでいて、そろそろ本格的に学びたいと思って色々調べているとこの記事にたどり着きました。

アドラーギルドとヒューマンギルドにはいろいろな違いあるのですね。昔のことなので今はどうなのかは分かりませんが、松田まゆみさんのおっしゃることは、非常に共感を覚えました。

特にコメント欄での「アドラーが願っていたのは、自分の心理学が広まることで戦争や差別のない平和な社会の構築を目指す人が増えてほしいということではないかと思うのです。」という部分は、とても嬉しい気持ちになりました。

なぜかというと、僕もアドラー心理学の本はいろいろ読みましたが、その部分に言及されることが少ないからです。

それも仕方ないことだとは思います。現実の社会は競争で成り立っていて、我々の生命も財産も暴力によって守られているからです。

多くの地球人が僕も含めて、誰かを出し抜いて蹴落とすことで生活できています。僕はライターという職業ですが、ライターは詐欺師同然であると思っています。

松田まゆみさんのおっしゃることで次に大きく共感し、嬉しく感じたのは「私が気になるのは、ヒューマン・ギルドが会社組織であるということです。会社である以上、アドラー心理学を営利目的に使っていると見なせます。アドラーは自分の心理学を営利目的で使ってもらいたいとは考えていなかったと思います。NPO法人など非営利組織としてアドア―心理学を普及させるのならともかく、会社組織というのは賛同できません。」という部分です。

営利目的が絡むと、手段が目的化してしまいます。というのは、協力的な社会を創る事が目的なのに、それを名目としてお金を稼ぐのが目的になってしまうからです。
といっても、僕も営利目的でアドラー心理学に関する著作などをkindleで出版しているので人のことは言えない立場ではあるのですが。

肝心の記事の中身である、アドラーギルドとヒューマンギルドのいざこざや論争に関してですが、共同体感覚があるならば、どんどんやったほうが良いと個人的には思いますね。

協力的な社会を創る事が目的なので、別に誰がどんな手段をとってもいいわけです。ただ、よく出てくる例として、戦争を止めるために戦争しているグループに戦争を仕掛けるみたいな共同体に対して破壊的な行為に関しては、好ましくはないですね。

批判自体はないとまずいと思っています。アドラー心理学の目的を考えるとどう考えても、広めるよりも深めるほうが大事で、十分に理解があるアドレリアンこそお互いに批判的である方が都合が良いとすら思ってます。

勿論その行為が勇気くじきにならないように、注意をする必要はあると思います。批判は自らの正しさを証明するために行うものではなく、相手をやっつけるために行うものではなく、お互いの行動を精査するために行うものだと考えています。

なぜ、お互いの行動を精査する必要があるのかというと、現在我々の力が弱いからです。競争社会が主流である今の社会で、協力的な技術を実践するアドレリアンは常にお互いをチェックしあう必要があります。

でなければ、一定の技術の水準は保てないからです。自然に技術が向上するということは見込めない以上、批判しあうことは必要です。

しかし、論争やいざこざがアドラー的ではないとする考え方も分からなくもありません。ただそれは誤解から生じていることだと思います。

人が人に対して破壊的である場合、「善悪」が絡むことが多いでしょう。自分は正しくあの人は悪い。つまり、「悪いあの人」「かわいそうな私」というわけです。

相手が悪だから暴力を振るってよいという暴力の正当化という教育は、地球人が子供のころからされております。例えば、アンパンマンなどが典型的な例ですね。

つまり、三角柱の1つである「これからどうするか?」について話し合い、批判しあうならば協力的に論争やいざこざを行えるということです。

力の弱い我々が、自分たちの存在を今後も確立していくためには必要なことだと思います。

改めて楽しい記事をありがとうございました。

みらいさん

ご意見、大変ありがとうございました。

野田さんも亡くなられ、アドラーギルドとヒューマンギルドの関係のことも今は存じませんが、この記事に書いた意見は今も変わっていません。非難や誹謗中傷ではなく、学問的立場からの意見や批判は必要だと思います。他者を尊重しつつ、意見を表明すること自体は大事なことだと思っています。

今は基本的に資本主義の社会ですが、一握りの資本家が労働者を搾油して莫大な富を得、格差がどんどん拡大していく競争社会が資本主義です。経済成長を唱え大量生産、大量消費で資源を浪費し自然を壊しているのも資本主義です。これを続けていけば、人類は自滅の道を辿るのではないかと懸念していますし、これはアドラーの指摘する共同体感覚とは正反対の社会でしょう。

資本主義によって、働いても働いても生活が苦しい人が大勢生み出され、対等どころか熾烈な競争にさらされています。アドラー心理学を学ぶと、資本主義が共同体感覚や人の対等という関係を壊していると思えてなりません。

マルクス研究者である斎藤幸平さんの「人新世の『資本論』」や「ゼロからの『資本論』」を読み大変共感しましたが、アドラーの目指す共同体というのは、まさに資本主義を脱して定常経済に移行しなければ実現困難ではないかと思えてなりません。今も大半の人たちが資本主義や経済成長を支持していますが、アドラー心理学を学ぶことで今の社会のありようにに疑問を持つ人が増えてほしいと思わずにいられません。


返信ありがとうございます。松田まゆみさんの意見を聞けて大変うれしいです。

>>これを続けていけば、人類は自滅の道を辿るのではないかと懸念していますし、これはアドラーの指摘する共同体感覚とは正反対の社会でしょう。

僕が最も興味あることもその話です。確かに、現在の競争社会を続けていれば、地球人は破滅します。ただ、その中でもアルフレッド・アドラーのような人も出現しましたし、現在アドラー心理学は世界三大心理学の1つにまで数えられるほどになっています。

つまり、競争社会によって地球人が滅びたとしても、協力的に生きる技術を持った地球人のコミュニティが生存していれば、それでアドラーの目的は達成されると僕は考えています。

地球人の誰しもが生き方を選ぶことができます。そして、その生き方を選べばそれに伴う責任も請け負うことになります。

競争社会が魅力的だと思う地球人に対して、協力的な生き方を強制することはできません。また、どのように生きたとしても、いつかは死ぬのが地球人です。

そう考えると、どんな生き方をしても意味はないと考えることもできます。唯一価値があることがあるとすれば、死後の社会に対してどのような文化を残せるかということです。

そして、合理的に考えた場合、死後の社会の地球人たちが協力して生きるほうが生存に有利だと気付くはずです。現在の競争社会は一種の病気の状態であり、こんなことを続けてはいけないと大半の地球人は同意するでしょう。

同意する理由は簡単で、誰もが現在生きている以上、生きることに関心があるからです。関心がないと口では言う地球人も中にはいるかもしれませんが、「現在生きている」ということ自体が何よりの証拠になっています。

そうなると、用意すべきものは、協力的な地球人の文化を保存するために核戦争が起こった際に必要なシェルター、小隕石の衝突に備えるための他の惑星の移住あるいは地球の移動というところになるのではないでしょうか。

僕はそのように考えて活動しています。

「人新世の『資本論』」や「ゼロからの『資本論』」はアマゾンで調べてみましたが、大変面白そうですね。松田まゆみさんのアドラー心理学や戦争・平和の記事はすべて読ませていただきましたが、僕と大変興味があることが似ているようで、とても参考になります。

松田まゆみさんに本の紹介をしてもらえるのは、明らかに僕にとって利益になっています。調べてみたら、youtubeに動画も上がっているようなので、まずはこちらを見てみます。

もし他にもなんかよさそうな本があったら教えてもらえると嬉しいです!返信ありがとうございます!

みらいさん

私は現在の人類の危機は核戦争だけではないと考えています。AI技術の発展もそうですし、環境汚染や気候変動も大きな課題です。生物多様性の破壊も人類の生存に大きく関わってくるでしょう。そして、今とても懸念しているのが遺伝子の改変です。

もちろん巨大隕石の衝突とか火山活動の活発化などの自然現象で人類が絶滅することもあるでしょうが、それは自然現象なのでどうにもできません。地球上の生物は、進化の歴史を辿ってみても、いずれ絶滅するのです。

しかし、人類こそその強欲さによって「自分の首を自分で絞めている」のではないかと懸念しています。資本主義というのは、人類の強欲さの象徴ではないかと思えてなりません。

私は子どもの頃から生物が好きでしたが、生き物たちを見ていてやはり一番大事なことは「自然の摂理に逆らわない」ということではないかと思っています。地球上で自然の摂理に大きく逆らって生きている生物は人類だけです。利潤追求、経済成長を追い求め続ける資本主義は、まさに自然の摂理に逆らう社会システムでしょう。そして、それが人類の破滅を招くだろうと考えています。

「遺伝子の改変」ですが、これはいわゆる遺伝子組み換え作物などのことだけではありません。今、ワクチンという名の遺伝子製剤で、人類の遺伝子が改変されようとしています。

みらいさんがコロナワクチンについてどのような認識をされているのか分かりませんが、コロナワクチンはDNA汚染されており、それによって遺伝子組み換えが起きてしまう危険性が指摘されています。そして、秋から接種開始予定のレプリコンワクチンは、遺伝子組み換えの危険性だけではなく、接種していない人まで伝播(シェディング)によってワクチン成分を取り込んでしまう可能性があるのです。打たなくても遺伝子組み換えが起きてしまうことになりかねません。これは人類の存続にとって大変な問題だと私は認識しています。

コロナワクチンから始まったmRNA製剤の危険性については、ミラノ在住の荒川央博士のブログで詳しく説明されています。以下が荒川さんのブログです。
https://note.com/hiroshi_arakawa/

遺伝子改変の危険性について説明しているのが以下の記事です。
https://note.com/hiroshi_arakawa/n/nb02181479515?magazine_key=m57ee2fec0b39

コロナワクチンの接種が始まってから、接種した国で超過死亡が増えています。コロナワクチンによって多くの人が亡くなったり病気になっていますが、一向に中止されません。あまりにもおかしなことが進行しています。陰謀論者と思われるかもしれませんが、私はコロナワクチンは増えすぎた地球上の人類を減らすための計画の一環だと考えています。それを主導しているのが世界経済フォーラムであり、彼らが唱えるグレートリセットです。日本では、ムーンショット計画がそれに当たります。

世界経済フォーラムというのは大企業の集合体であり、超富裕層も関わっています。そのような人たちが、世界を牛耳ろうとしていろいろ画策しているのです。彼らが目指しているのは、ごく一握りの超富裕層らがそれ以外の人たちを管理し支配する世界でしょう。

それが事実だとして、なぜそんな計画が実行されているのでしょう? 彼らは、資本主義の末路を見据えているのではないかと思えてなりません。そして、ごく一部の人類が生き残ればいいと考えているのではないでしょうか? それが人類のためにも地球のためにもなると。

大量殺りくも厭わない究極の支配・被支配社会の構築であり、私はとても危険な発想だと思っています。そして、そのような危険を回避するには資本主義をやめて斎藤幸平さんが提唱するような協力的なコミュニティの社会へとソフトランディングするしかないのではないでしょうか。私はそのように考えています。

私たちを牛耳ろうとしている超国家権力については、苫米地英人著「超国家権力の正体」(ビジネス社)が参考になるかもしれません。

あと、堤未果さんの本もお勧めです。「デジタル・ファシズム」や「国民の違和感は9割正しい」など読みましたが、マスコミなどでは報じられない現代社会の問題点が語られています。

返信ありがとうございます!確かに各々色々な意図で行動している人もいると思います。僕は地球人が生存可能な社会を創っていくことを目的にしておりますが、超富裕層が支配する社会を目指してる人もいるのでしょう。

僕からすると迷惑なので、もしそういうことを考えている人と話せる機会があったら話してみたいですね。

僕が考えているのは、多くの世帯や仲間と一緒に住んでほとんどのものをシェアするという生活です。税金は極力抑えて、代わりに国は企業に投資するのです。

そうすることで超富裕層な人たち相手でも交渉の場に立つことができます。

地球人が生存するために、お金も文明もさほど必要ではなく、それが必要なように思うのは広告や宣伝の効果によるところが大きいでしょう。

地球人自身も商品として経済に組み込まれており、お金に支配されている状態です。地球人は自分の意思で商品を買うのではなく、広告や宣伝によって買わされているのです。

消費を行えば、お金に支配されます。しかし、消費を抑えて投資を行えばお金を支配することができるのです。

そうしておいて、初めて地球人は人間として自分の意思で生きることができると考えています。

コロナワクチンについてですが、僕は接種してませんね。コロナワクチンに限らずワクチンや抗生物質があまり好きじゃないので。

フリーランスなので会社から強制されるってこともないですからね。好きじゃない理由についてですが、子供のころから何となく好きじゃなかったです。その後松田まゆみさんがおっしゃるようないろいろな話も聞いてなくていいならなしでもいいだろうと考えるようになりました。

生存という意味のおいては、多様性こそ進化の道だと思うので、現在のように画一化された社会は不合理であると考えています。

ワクチンに関しても、使用しないと考えるグループがいるほうが正常です。真実がどうであれ生存戦略で考えればそれが自然です。

また、真実なんてものもありません。科学は全て仮説にすぎないからです。なのでそもそも真実を当てにして行動すること自体が僕は好きではありません。参考程度に考えています。

問題としては、ワクチンを接種しないという選択がコミュニティの利益に反しないかどうかですが、正直これは微妙なラインですね。

コロナがゾンビウィルスだった場合は、ワクチンをうてば当面の間は人間として行動できる場合は、あまり迷うところが少なそうではあります。

斎藤幸平さんの動画を見ましたが、あんまりよく分からなかったので本を読んでみます。ただ、結構面白そうだとは思いました。マルクスの話であってますかね?

確かに、共産主義の国は全滅しておりますが、共産主義は資本主義が十分高まった状態から発生するということだったはずなので、時期尚早だったかもしれません。

また、共産主義=テロということでもないですよね。それでいうなら民主主義だって殺戮の歴史ですからね。

人々が迷惑に思うのは、恐らくは主義主張そのものではなくその伝達手段のはずです。伝達手段が従わなければ死ねというものでしたら、それはどんなに凄い思想でもごめん被りたいと思うでしょう。

もし、斎藤幸平さんのことを解説しているような記事があったら教えてもらえませんか?本も買いますがもしよかったらお願いします。

後、新しい本の紹介もありがとうございます!


みらいさん

>地球人が生存するために、お金も文明もさほど必要ではなく、それが必要なように思うのは広告や宣伝の効果によるところが大きいでしょう。
>
>地球人自身も商品として経済に組み込まれており、お金に支配されている状態です。地球人は自分の意思で商品を買うのではなく、広告や宣伝によって買わされているのです。

これはほぼ同意です。本来は人が生きていくのに必要なものはそれほど多くはないと思っています。しかし、資本主義による商品化で不要なものまで買わされているのが現実でしょう。


>コロナワクチンについてですが、僕は接種してませんね。コロナワクチンに限らずワクチンや抗生物質があまり好きじゃないので。

ワクチンは打たれていないとのこと、それは賢明な判断だったと思います。私も怪しいものを感じて打ちませんでした。もちろん打ってしまった方を非難したり差別する気は毛頭ありませんが、シェディングが起きるので迷惑であることは否めませんし、これ以上打たないようにできるだけ伝えていきたいと思っています。

>確かに、共産主義の国は全滅しておりますが、共産主義は資本主義が十分高まった状態から発生するということだったはずなので、時期尚早だったかもしれません。

斎藤幸平さんは、「ゼロからの『資本論』」の中で、20世紀に社会主義を掲げた国の実態は労働者のための社会主義とは呼べず、単なる独裁体制であり、資本家の代わりに党と官僚が経済を牛耳る「国家資本主義」であること、ソ連や中国は「政治的資本主義」だと指摘していますが、私もその通りだと思います。ソ連や中国が失敗したから社会主義はダメだという人は多いですが、ソ連も中国も基本的には独裁的資本主義と言えるでしょう。上手くいかず批判されるのは当然だと思います。


>もし、斎藤幸平さんのことを解説しているような記事があったら教えてもらえませんか?本も買いますがもしよかったらお願いします。

適切な記事があるかどうか分かりません。まずはご自分で斎藤さんの著書をお読みになるのが一番かと思います。

返信ありがとうございます!いつも楽しい返信をいただき嬉しいです。「ゼロからの『資本論』」を注文しました。

7月19日から7月20日までにお届けしてくれるらしいです。

AI技術の発展は、人類の危機になりますか?もしよかったら詳しく教えて頂けると嬉しいです。

みらいさん

AI技術の危険性についてはいろいろ言われていますが、以下の記事などが参考になると思います。
https://ainow.ai/2020/02/18/183241/

他にも「AI 危険性」などで検索するといろいろ出てきます。

私は科学技術の過信は禁物だと思っています。確かに科学技術の発展によって人々の利便性は格段に向上しました。しかし、必ずといっていいほど負の側面が伴います。

プラスチックなどの石油製品は非常に便利ですが、近年になってマイクロプラスチック問題が表面化してきました。

農薬や化学肥料の使用も、土壌を劣化させています。もちろん昆虫や微生物が減ることで様々な悪影響が生じます。農薬の使用によってハチ類が減っているという話を聞きますが、ハチは農作物の花粉媒介に欠かせません。

インターネットも確かに便利ですが、情報漏洩やサイバー攻撃がつきものです。電気がないと成り立たないような社会は、何等かの事情(太陽フレアによる磁気嵐など)で電気が使えない事態になったら大混乱に陥るでしょう。

5G、6Gなどの電磁波も人間だけではなく野生生物に影響が出てくるでしょう。今の人類は電磁波の危険性にさらされています。

今は明確になっていないことでも、何年、あるいは何十年も経ってから負の影響がはっきりするものもあるわけです。科学技術の発展による負の側面を科学技術で乗り越えられるとも思えません。私が「自然の摂理に逆らうべきではない」というのはそういうことも指します。

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