故郷の光景(1)上諏訪
今年の夏、何年かぶりに生まれ故郷の上諏訪に行った。今までは上諏訪に行くといえば、いつも母と一緒だった。しかし、その母はもういない。今回は母の法要と納骨のために久しぶりに故郷を訪れたのだ。
私が上諏訪にいたのは幼児期までなので、上諏訪の記憶は断片的でおぼろげでしかない。もちろん、60年近く経った上諏訪の街は、私が住んでいた頃とはすっかり変わってしまっている。しかし、駅前の商店街は子どものころの名残が色濃く漂っているし、狭い路地は昔のままだ。故郷というのは旅行でたまたま訪れた場所とは違い、それだけで言葉に言い表せない懐かしさがある。
父も母も、今はなつかしい霧ヶ峰の麓である上諏訪のお墓で眠っている。父は江戸っ子だが、二人が出会ったのは上諏訪だ。ここを拠点に霧ヶ峰をはじめとした信州の山々に行ったはずだ。その後、上諏訪から都会に出てきたものの、最後は二人が出会った上諏訪に戻ってきた。それで良かったのだろうと思う。
私が幼児期に住んでいたのは、湯の脇というところだ。中央線の踏み切りからそれほど遠くない場所で、近くに温泉があった。その場所がどうなっているのかと思って行ってみたのだが、なんと住んでいた家は今も残っていた。外壁は張り替えられていたが、たぶん間違いない。下の写真はかつて私が住んでいた湯の脇の通り。あの頃の家の大半は建て替えられているのだろうけれど、路地に入ると昔の雰囲気が少しだけ残っている。
上諏訪の駅を出ると、正面に壁のように段丘崖がそそり立っている。高島小学校や上諏訪中学校は市街地から階段を上った段丘上にあるのだが、この段丘は断層であると最近知った。叔母の話しによると、昭和東南海地震のとき、上諏訪はものすごく揺れたそうだ。
それで調べてみたら、中央構造線と糸魚川-静岡構造線は諏訪湖で交わっており、上諏訪はフォッサマグナの西端に位置していることを知った。上諏訪の街は活断層の直下にあるのだ。東南海地震で大きく揺れるのはそのためだろう。そう知ってしまうと、なんだか怖いところに住んでいたのだと思えてくる。
諏訪湖での中央構造線のくいちがい(大鹿村中央構造線博物館)
下の写真は、郵便局の横から高島小学校・上諏訪中学校に登る石の階段。子どもの頃の記憶ではもっと広かったと思うのだが、今行ってみると、ずいぶん狭い。
こちらは石段を登った奥にある手長神社。神社だけは今も大木がうっそうと茂り、昔とほとんど変わらない。私の幼少時にはここにフクロウが棲みついていたそうだが、今はもういないのだろう。私が生まれた時は、湯の脇ではなくこの近くに住んでいたそうだ。今も近くに叔母が住んでいて、このあたりはとても懐かしい。
諏訪湖畔の風景もすっかり変わってしまった。かつては夏になると両親が湖畔にホタルを見にでかけたという。冬になると諏訪湖は全面結氷して御神渡りができ、スケートもしたというが、昨今は全面結氷することも少なくなったらしい。今は公園や遊歩道ができ、昔の面影は見る影もない。湖畔の芝生は花火大会の見物のために、ロープで仕切られていた。あんなに静かだった湖畔はもうどこにもなく、湖岸の道は車が行き交い、遊歩道も観光客や散歩の人で賑やかだ。上諏訪にこれほど観光客が訪れるようになるとは夢にも思っていなかった。
子どもの頃、段丘の上にある叔母の家から諏訪湖を見下ろすと、市街地のはずれには緑の水田が広がっていたという記憶がうっすらとある。でも、今は緑がほとんど見えない。60年という歳月は景色を一変させてしまうものだとつくづく思う。
原発事故によって、福島の人たちは故郷を奪われた。かけがえのない故郷を奪われるということがどういうことなのか、故郷の地を訪れることで少しは理解できたような気がする。
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