嫌がらせと意見・批判は区別して対処を
ネット上でこんな記事を見つけた。
日本の社会がゆっくりと息苦しくなっていくメカニズム(誰かが言わねば)
筆者の「ふとい眼鏡」さんは、日本の若い世代はインターネットやSNSでたくさんの人と薄く広い友人関係を築いていて、インターネット上の世界と現実の世界がひとつになっているために、ネットで袋叩きにされることを異常なまでに恐れているという。そして、このような息苦しい状態を放置すれば、戦中のような誰も本音を言えない世の中になるのではないかと懸念する。この状況を少しでもマシにするには、若者達に「すでに攻撃されている人を一緒になって攻撃する」ことが恥ずべき行為でなさけないことを理解してもらうことが重要だとの意見だ。
この記事を読んでなるほどと思う一方で、なにか違和感が残った。子どもの頃からインターネットがある状態で育った世代は、たしかにネットでのつながりを重視している。常にスマホを手にして誰かとつながっていないと落ち着かないらしい。しかし、いわゆる「嫌がらせ」と「意見や批判」をきちんと分けて対処できれば、ネットでのつながり自体はそれほど恐れることではないのではなかろうか。
匿名性の高い媒体においては「嫌がらせ」や「袋叩き」があるのは当たり前と考えるべきだ。ブログのコメント欄の炎上といった事態は、管理人の対処でどうにでもなる。嫌がらせが多くて煩わしいのならばコメント欄を閉じればすむことだし、承認制にしてもいい。嫌がらせコメントはまじめなコメントと容易に区別がつくし、相手を疲弊させたり炎上させることが目的なのだから相手にしないのが原則だ。こういうコメントに対していちいち怒って反応していたら挑発に乗ったと同然だし、相手はさらにつけこんでくるだろう。
ツイッターも同様で、匿名で罵詈雑言を浴びせるような人は相手にせず、目ざわりなら黙ってブロックすればいい。実名で他者に罵詈雑言を浴びせる人はごく少数だし、そういう人は自分で自分の品位のなさをさらけ出しているも同然だ。
炎上目的のネットの嫌がらせは大半が匿名によるうっぷん晴らしで、実名をさらさないからできるのだ。これに対し、学校でのいじめは教室という外部と隔離された場所で行われ加害者もはっきりしている。質がそもそも違うのだから、学校でのいじめと同一視して怯える必要はないだろう。
ちょっとやっかいなのは、いわゆる「工作員」と考えられるような情報操作タイプのコメントだ。一見もっともらしい反論をして突っかかってくるのだが、論理で対抗できなくなるとやがて罵詈雑言になり馬脚を現す。私のブログにも工作員らしき者のコメントがたまにあるが、工作員と分かれば相手にしないのが賢明だ。
そのような「嫌がらせ」や「情報操作」とは別に、異論や批判的意見を書き込む人もいる。匿名か否かに関わらず、自分の意見や感想を率直に述べたり、具体的に根拠を示した異論・反論・批判は「嫌がらせ」ではない。開かれた場で自分の意見を主張する以上、異論・反論があるのは当然と考えるべきだ。もし異論や批判を読みたくないのならば、コメントを閉鎖すればいいだけのことだ。ツイッターで意見を言ってくる人もいるが、返信の義務や責任はないのだから、対応が面倒なら言わせておけばいい。
また、自分と異なる意見を「間違い」と断定して自分の意見を執拗に押しつけてくる人は「課題の分離」ができていないのだから、相手にしないほうがいい。
フェイスブックのコメントも同じで、賛同の意見だけとは限らない。実名が原則のフェイスブックの場合は責任を持って意見を書き込むわけで、嫌がらせ目的でコメントをする人が多いとは思えない。異論や批判意見を書かれるのがどうしても嫌なら無理してフェイスブックに参加する必要もないだろう。
「ふとい眼鏡」さんは、SNSで広いつながりを持っている10代や20代の若者は、炎上などの失態が知り合いに広く共有されてしまうことを恐れているという。しかし、自分のブログでの炎上のコントロールは可能だし、「ネットでの炎上は匿名による嫌がらせ」という認識を持っているなら、炎上することは失態でも恥ずかしいことでもない。
実名が基本のSNSで、もし個人のプライベートな失敗や失態を話題にして嘲笑うような人がいるならば、そんな人との繋がりは解除したほうがいい。そういう人権侵害をする人はやがて皆から敬遠されていくだろう。また、匿名性の高いSNSには安易に手を出さないほうが賢明だとも思う。
どちらかというと中高年の人たちは、「嫌がらせ」と「意見・批判」の違いをきちんと理解してSNSを上手く使いこなしている人が多いのに対し、若者の場合は神経質になりすぎてSNSに振り回されているという気がしてならない。SNSを上手く使いこなせるかどうかは、「他者が意見をいう権利は尊重するが、嫌がらせは相手にしない」というメリハリのある態度がとれるかどうかの違いではなかろうか。
そもそも誰もが利用できるインターネットは学校の教室のような閉鎖空間ではないし、自分の意志で参加するものなのだから、参加しないという選択肢だってある。強制されているわけでもないのに、他者の評価や嫌がらせに怯えつつ広く浅いつながりにしがみつく必要性がどれほどあるのだろう。広く浅くつながっていなければ安心できないというのは、思い込みではなかろうか。ネットでのつながりを異常なほどに意識してしまうことの方がむしろ問題のように思う。
« アドラー心理学を凝縮した「嫌われる勇気」-その3 | トップページ | 鮮やかな柿色が美しいカタオカハエトリ »
「メディア」カテゴリの記事
- 動き始めた「飛んでエロサイト」問題(追記あり)(2018.10.11)
- ブログがアダルトサイトに悪用される被害が続出(2018.09.27)
- gooブログで浮上した読者登録水増し疑惑(追記あり)(2018.01.09)
- インターネットという凶器(2017.02.13)
- ネットで他人を叩いたり嫌がらせをする人たちの心理(2015.12.31)
コメント