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2014/04/28

アドラー心理学を凝縮した「嫌われる勇気」-その2

競争を否定し、対等であることを説く
 前回はアドラーが原因論を否定し、目的論を提唱していることを書いた。目的論の本質は「これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかについてなんの影響もない」ということだ。そして、変われないのは「あなたがご自分のライフスタイルを変えないでおこうと不断の決心をしている」からだという。だから、ライフスタイルを変える決心ができるということがまず第一歩になる。確かにそうだと思う。

 アドラー心理学では「すべての悩みは対人関係の悩み」であるとしている。そして、他者と競争をしたり勝ち負けをつけることに警鐘を鳴らす。これについての哲人の説明は実に論理的だ。少し長いが引用したい(95ページ)。

哲人:これは競争ともつながる話です。覚えておいてください。対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができません。
青年:なぜ?
哲人:競争の先には、勝者と敗者がいるからです。
青年:勝者と敗者、大いにけっこうじゃありませんか!
哲人:具体的に、ご自分のこととして考えてみてください。たとえばあなたが、周囲の人々に対して「競争」の意識を持っていたとします。ところが競争には、勝者と敗者がいる。彼らとの関係について、勝ち負けを意識せざるをえなくなる。A君はこの名門大学に入った、B君はあの大企業に就職した、C君はあんなにきれいな女性と付き合っている、それに比べて自分はこんな具合だ、というように。
青年:ふふっ、やけに具体的ですね。
哲人:競争や勝ち負けを意識すると、必然的に生まれてくるのが劣等感です。常に自分と他者を引き比べ、あの人には勝った、この人には負けた、と考えているのですから、劣等コンプレックスや優越コンプレックスは、その延長線上にあります。さて、このときあなたにとっての他者とは、どんな存在になると思いますか?
青年:さあ、ライバルですか?
哲人:いえ、単なるライバルではありません。いつの間にか、他者全般のことを、ひいては世界のことを「敵」だとみなすようになるのです。
青年:敵? 哲人:すなわち、人々はいつも自分を小馬鹿にしてせせら笑い、隙あらば攻撃し、陥れようとしてくる油断ならない敵なのだ、世界は恐ろしい場所なのだ、と。
青年:油断ならない敵との・・・競争だと?
哲人:競争の恐ろしさはここです。たとえ敗者にならずとも、たとえ勝ち続けていようとも、競争の中に身を置いている人は心の休まる暇がない。敗者になりたくない。そして敗者にならないためには、つねに勝ち続けなければならない。他者を信じることができない。社会的成功をおさめながら幸せを実感できない人が多いのは、彼らが競争に生きているからです。彼らの世界が、敵で満ちあふれた危険な場所だからです。

 勝ち負けとは、ここで挙げているようなことだけではない。たとえば相手から罵倒されたり相手の言動に本気で腹が立ったときには、相手が権力争いを挑んできているという。つまり勝つことによって自らの力を証明したいというのだ。さらに権力争いが発展すると、復讐に及んでしまうと指摘する。

 対人関係の中で「私は正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているという考えは、なるほどと思った。自分の意見を述べるのはもちろん自由だが、自分の考えこそ正しく他者は間違っていると断定してはいけない。そのような態度は相手を屈服させることになり、対等な関係ではない。「自分こそ正しい」という押しつけ合いをしたなら、それは権力争いになってしまうという。

 ネット上でも「自分の主張は絶対に正しい」という論調で、異なる意見の人を蔑んだり罵倒する人がいるが、そのような人は「人はみな対等」という意識が欠落しているのだろう。物事を勝ち負けで考え、相手を敵だとみなして無意識的に権力争いを挑んでいるのだと思う。こういう姿勢をとっていたら、対人関係はぎくしゃくしたものにしかならない。

 アドラーは褒めることも叱ることも否定する。これについては異議を唱える人が多いかもしれない。なにしろ巷には「ほめて育てる」といった本が溢れており、ほめるという教育は広く支持されているからだ。しかし、ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面があり、上下関係にあるというのがアドラー心理学の考え方だ。

 確かに「ほめて育てる」という行為の背景には、ほめておだてることによって親が子どもをコントロールするという意図がある。私自身は「ほめて育てる」ということにずっと違和感をもっており、自分の子どもをほめそやした記憶はほとんどない。何かに取り組むという行為は自発的な意思によってなされるべきであり、ほめられることが動機や目的になってはならないと思うからだ。もっとも、子どもにとってはほめてくれないことを不満に思っていたに違いない。

 子どもが通っていた小学校には、コンクール好きの教師がいた。その教師は「いろいろなコンクールに応募すれば、かならず何かに入選する。それが励みになるしやる気を起こす」といっては子ども達の絵や書道、作文などを頻繁にコンクールに送っていた。確かにコンクールに入選することは子どもにとっては嬉しいに違いないし、入選がきっかけでやる気を起こす子どももいるかもしれない。しかし、審査員に評価され「賞」というごほうびをもらうことが目的の応募であれば、自ずと子どもに競争を強いることになるし、「コンクールに入選する」ことを意識した創作になってしまう。

 叱るということも同じだ。哲人は「われわれが他者をほめたり叱ったりするのは『アメを使うか、ムチを使うか』の違いでしかなく、背後にある目的は操作です。アドラー心理学が賞罰教育を強く否定しているのは、それが子どもを操作するためだからなのです」と説明する。

 しかし、今の日本は子どものころから競争ばかりだ。親も学校も子どもを競争へと駆り立てている。これでは子ども達が競争心や劣等感を抱くのは当たり前だろう。教師こそアドラー心理学を学んだほうがよさそうだ。

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