国会事故調査委の黒川清委員長の発言をめぐって思うこと
英フィナンシャル・タイムズ社は、国会の東京電力福島原子力発電所事故調査委員会の黒川委員長が、「事故は『日本文化に根差した慣習』によって生じた『日本製(メード・イン・ジャパン)』の危機だったと断じた」と報じた。黒川委員長は最終報告書の英語版要約の中で、原発事故の原因は「我々の反射的な従順さ、権力者を疑問視したがらない態度、『計画を守り通す』ことへの情熱、集団主義、島国根性」にあったと述べたそうだ。以下参照。
原発事故は日本の文化が招いた危機(日本経済新聞)
この意見を批判する声も聞かれる。たとえば以下。
文化のせいにしては将来の原発危機を防げない「メード・イン・ジャパン」のラベルに潜むリスク(JB PRESS)
黒川委員長の指摘は世界中でごくふつうにみられるものであり、あまり文化に注目すると、原子力ムラの連中の責任回避につながるという意見だ。
しかし、報告書はあくまでも「危機は東電と規制当局、政府による『多数の過失および故意の怠慢』の結果だった」と述べており、東電や政治家、官僚を厳しく批判している。黒川委員長は、国民を騙した原子力ムラに最大の責任があることを前提にしたうえで、国民の文化のことに言及しているのである。なにも原子力ムラの責任を曖昧にするためにこのような発言をしたわけではなかろう。私には、黒川氏の指摘はとても重要なものだと思える。
もう時効になっているのでここに書いてもいいだろう。私の体験したある出来事を例にとって考えてみたい。
私の子どもが通っていた小学校では、夏になると学校とPTAの共催による海辺でのキャンプがあった。まわりの母親たちはその行事をとても楽しみにしており、キャンプが近づくと浮足立っていた。何も知らない私は、子どもが小学校に入学した年に、そのキャンプに参加した。
目的地であるオホーツク海のとある汽水湖に着くと、父母や子どもたちはバスの中で水着に着替えてさっそうと湖に入っていく。私はてっきり海水浴を楽しむのが目的のキャンプと思っていたのだが、実はそうではなかった。貝を採るのが目的なのだ。ところが、そこには「禁漁」という看板が立っているのである。なんとキャンプの最大の目的は貝の密猟だったのだ。湖で遊ぶふりをして足で砂の中の貝を探って採取し、レジ袋にいれてバスに持ち帰る。クーラーバックまで用意していた。
私ははじめから海水浴をするつもりはなかったので水着ももっていかなかったが、それは正解だった。皆が密猟をしている間、私は自分の子どもと散歩をしたりバスでのんびりしていたが、内心呆れかえっていた。教師も若い教員一人を除いてバスの中で昼寝をしている。違法行為であることがわかっているから湖に入らないのだろう。しかし、親や子どもの密猟を黙認しているのである。
私はこうした行事を学校ぐるみで何年も続けていることに心底驚いた。子どもによると、教師はどうやったら見つからずに貝を採ることができるか、などといった話しまでしていたらしい。教育現場であるまじきことだ。
夏休みが終わってから、私はPTAの集まりでこのようなキャンプは止めるべきだと発言した。この発言によって密猟が見直されることになったのだが、この行事を楽しみにしていた父母から反発があったのは言うまでもない。キャンプのことが議題になっているPTAの会合に普段は出席しない母親が突如複数顔をだし、海でのキャンプの必要性を語るのだ。キャンプを何としても実施するための多数派工作としか思えなかった。
皆が楽しみにしている行事を見直そうという意見を言おうものなら、疎外され陰口がささやかれる。教師も違法行為と知っていても、波風を立てたくないがために黙っている。私だけが陰口を言われ批判されるだけなら別に構わない。しかし、親の発言の影響が子どもにまで及んでいじめの対象にもなりかねない。
学校やPTAの行事で違法行為が行われていても、見つからず、自分たちが楽しければ構わないという神経は私には信じがたい。なんという倫理観、社会規範のなさだろう。ところが、この集団においては慣習に従うのが「当り前」であり、違法行為を問題視することなどタブーなのだ。私が見直しを求めなければ、この密猟キャンプはその後も続いていただろう。もし違法行為が見つかって事件にでもなっていたら、教師は「親が勝手に採った」と言い逃れでもするつもりだったのだろうか。
もちろん、これは私の住む地域だけの問題ではない。村八分を恐れ、周りの人の顔色を伺い、言うべきことも言わないことが多くの日本人の慣習となってしまっている。
私には、この構図が原子力ムラの縮図のように見えてならない。私たちの日常生活の中に「ミニ原子力ムラ」があり、心の中に黒川氏の指摘する「我々の反射的な従順さ、権力者を疑問視したがらない態度、『計画を守り通す』ことへの情熱、集団主義、島国根性」が潜んでいる。もちろんこういうことは日本以外の国にもあるだろう。しかし、先進国においてこれほどモラルのない国も少ないのではないか。
福島の原発事故を引き起こした原因と責任は東電や規制当局、官僚などにあることは言うまでもない。そして、彼らは福島の事故の反省など何もしていないばかりか、相変わらず嘘を言って国民を騙すことと責任逃れとさらなる原発利権のことしか頭にない。
これほどまでに腐った連中を変えさせるのは国民の力でしかないだろう。しかし私たちが原子力ムラの縮図のようなムラ社会に留まっていたなら、どうしてこの状況を変えることができるのだろう。日常に潜む「村八分」の壁を壊し、不正をなくす努力をしていかない限り、原発はなくせないだろうし、日本に未来はないと思えて仕方ない。
原子力ムラの責任を追及するとともに、こうした慣習を変えていくことこそ、世界最悪の原発事故を起こして世界中を放射能汚染させた日本人の責任だと思う。
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全く同感です。原発が推進されている当時から、当事者は「絶対安全」を繰り返してきました。サイエンスに絶対という言葉はあっても、テクノロジーに絶対はあり得ません‐時間変化に伴う、劣化、老化が付き物だからです。いざとなったときににコントロールの出来ない核分裂の利用に道を開いた当事者や専門家たちは、開けてはならない「パンドラの箱」を開けたことを肝に銘ずるべきです。
いま問題となっている「いじめの問題(本当はいじめというよりは個人の人権を蹂躙している犯罪問題ととらえるべきと考えます)」も、本鬼蜘蛛おばさんの主張されていることと共通したものがあると考えます。
これらの日本人の文化(?)を変えていくには自分の意見をしっかりと持つことと、それを発表することができるようにすることだと思います。そのためには、学校教育でしっかり議論する習慣を学ばせることだと思います。
投稿: 藤田 岳 | 2012/07/22 18:01
藤田 岳 様
コメントありがとうございました。
いじめ問題の第一人者である内藤朝雄氏は、学校というベタベタ仲良くしなければならない集団がいじめを生むといっています。学校は一種のムラ社会といえるでしょうね。そういう自由を拘束されたムラの中では、人は容易に残忍になってしまうとのこと。軍隊なども同じでしょう。
内藤氏の主張はそうした強制的な集団の枠を取り払ったあらたな教育システムをつくるというもの。たしかに社会のシステムとしてできる限りムラの壁を取り払うというのは必要かもしれません。しかし、ムラは日本社会のいたるところにあります。
原発事故で多くの人が原子力ムラの酷い実態を認識し意識が変わった人も多いと思います。こういう人たちがムラの壁を突き破る原動力になるような気もします。構造的な変革だけではなく、自分の意見をきちんと言えること、また自分とは異なる意見も尊重するという教育も大切でしょうね。
投稿: 松田まゆみ | 2012/07/23 07:18