失われゆく沼沢地の原風景
25・26日に紋別方面に出かけた。雪の多かった北海道もだいぶ雪解けが進み、渚滑川や湧別川の河畔にはアズマイチゲの群落が清楚な花をつけていた。いよいよ春の到来だ。
25日の夜はコムケ湖畔の駐車場で車中泊をした。この季節、こんなところで泊まるような人はまずいない。夕闇の迫る湖面にハクチョウやカモたちの鳴き声が響き渡る。湖畔のヤチハンノキではノビタキがのびやかな声で囀っている。こんな景色を見ながら食事をするのはこの上ない贅沢だ。
私は山も好きだが、沼や湿原の風景もたまらなく好きだ。学生時代にシギやチドリを見るために全国の干潟や湿地をほっつき歩いたことも影響しているのかもしれない。とりわけ北国の荒涼とした沼沢地の風景は、はるか遠いシギの繁殖地の光景を連想させる。
本州に比べたら北海道はまだ湿地や沼地が自然の状態で残っているのだろう。釧路湿原、サロベツ原野、浜頓別から猿払にかけての一帯、オホーツク海沿岸の湖沼地帯、十勝地方の海岸部にある湖沼地帯などなど・・・。とはいっても、沼の周辺の湿地は埋めたれられて農地へと変わってしまったところも少なくない。湿地の原風景は失われつつある。
さらにがっかりするのがキャンプ場の出現だ。日本人は湖があるとキャンプ場をつくりたがる。トイレと炊事場だけの簡素なキャンプ場ならまだしも、たいていは立派な管理棟を造り、街灯を煌々と灯すのだ。シャワーまで付いているところもある。キャンプサイトは芝をはってきれいに整備されている。至れり尽くせりなのだが、せっかく野外で過ごすのになぜこんなに文明を持ち込んでしまうのだろう。
結局、日本人のアウトドアなどブームにすぎないのだろう。だから、ブームが過ぎ去ればキャンプ場は閑散とし、維持管理費ばかりがかさむことになる。廃れてしまったキャンプ場も少なくない。だいたい所狭しとテントが並ぶキャンプ場では、隣のテントの人たちの声は筒抜けだし、夜中まで騒いでいる人も多い。こんなところにはタダでも泊まりたくない。こういう整備されたキャンプ場を利用する人たちは、自然の楽しみ方を知らないのだろう。しかも北海道はキャンプの季節など夏を中心とした数か月しかない。そのために大々的な施設を造るなど愚の骨頂だ。
10年ほど前に行ったサハリンでは、人々は週末になると何の施設もない湿地のほとりや渓流のほとりにテントを張ってキャンプを楽しんでいた。彼らのほうがはるかに自然の楽しみ方、付き合い方を心得ている。
自然の楽しみ方を知っている人なら、そもそも大規模なキャンプ場など造ろうとは思わないのではなかろうか。景観破壊、自然破壊でしかないからだ。結局、地元の町村はお客さんに来てもらいたいがために、キャンプ場などを整備するのだ。整備の先には必ずお金儲けがある。そうやって自然の原風景がどんどん失われていく。
サハリンには北海道によく似た沼沢地があちこちにある。北海道で失われつつある原風景がまだ残されている。湖沼地帯に施設はいらないし、北海道に今残されている原風景をそのまま子孫に残しておいてほしいと願わずにいられない。
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