瓦礫の受け入れ拒否はエゴで、被ばくを恐れるのは愚かか?
津波被害で生じた東北地方の瓦礫の受け入れを拒否する動きがあちこちである。福島のみならず宮城も岩手も放射能汚染されている以上、瓦礫も汚染されている。それを燃やしたなら大気中に放射性物質が拡散される。たとえ放射能の汚染レベルが基準値以下であっても、大量に燃やしたなら基準値など意味はない。また焼却灰には放射性物質が濃縮される。そのようなものを埋め立てたなら、新たな汚染が引き起こされる懸念が拭えない。瓦礫受け入れは今以上に放射能汚染を拡大させることになる。多くの人が反対するのは当たり前のことだ。
ところが、瓦礫の受け入れ拒否をしている人はエゴイストだと批判している人がいる。元原発プラント技術者の杉山弘一氏だ。
杉山氏は、群馬県の沼田よりはるかに放射能による汚染レベルが低い場所の瓦礫を怖がるのは知的怠慢であり身勝手であると批判する。
震災がれきの受け入れに関しては西日本が消極的であるとの報道があった。福島の原発事故で日本中どころか世界中に放射能が拡散された。とはいうものの、西日本や北海道の汚染は東北や関東に比べたらかなり少ない。これらの地域は今後、日本の食糧を担っていかなければならない重要な場所だ。また、原発災害を受けた人たちの避難場所にもなっている。そういう場所がこれ以上汚染されないようにするのは、原発事故で避難している人たちや日本人全体のことを考えたら当然のことだ。
ある程度汚染されてしまった関東地方であっても、そこに大勢の人が住んでいる以上、さらに汚染してもいいということには到底ならない。放射能をこれ以上拡散させないようにするためには、汚染されたものを分散させるのではなく、集中させて処分するしかない。
チェルノブイリ原発事故でもそうであったように、福島原発周辺の高濃度汚染地域はこの先しばらくの間は立入禁止にするしかない。汚染されたものはそのような場所に集め、放射性物質を飛散させないような対策を講じるしかないだろう。ところがこの国はそれとは反対のことばかりやる。放射能瓦礫を全国に拡散させ、警戒区域に指定されている大熊町では除染効果を検証するモデル事業をやるというのだ。狂っているとしか言いようがない。
瓦礫の処理に関しては、もちろんいろいろな意見があるのは分かる。しかし、放射能の拡散を阻止したいという人たちをエゴだと決めつけ、アホだと罵るのはどうなのか。杉山氏は放射能に対して能天気だとしか思えないのだが、彼の書いている以下の記事をよむと合点がいく。
避難することのリスク
本当の反原発をしてきた学者
守るべきものは何か。
杉山氏は放射能汚染による危険性を指摘する小出裕章氏などを過大評価だといって批判している。また、内部被ばくが外部被ばくよりはるかに危険だとする矢ヶ崎克馬氏の主張や、低線量被ばくがガン以外の様々な疾病を引き起こすと主張するクリス・バズビー氏の意見、ホットパーティクルの危険性を指摘するアー二ー・ガンダーセン氏の意見などはまったく信用していないらしいことが伺える。
バズビー氏に対しては「放射線リスクの過大評価の権化、教祖様」「詐欺師」だとまで言い放っている(以下のコメント欄参照)。
バズビー氏に対する批判があるのは知っているし、彼の主張を100パーセント鵜呑みにすべきではないとは思う(これはバズビー氏に限ったことではなく、誰にでも当てまはる)。しかし、福島の事故のもたらした健康被害の結果が出ていない時点で、どうして「過大評価の権化」とか「詐欺師」などと批判できるのだろうか。過大評価だと批判するなら、福島の事故による健康被害の実態が明らかになってからにすべきだろう。チェルノブイリの場合、25年経った今ですら放射能の影響で亡くなる方が後を絶たないというから、健康被害の全容はまだ把握できないのだ。
サプリメントを勧めるバズビー氏を詐欺師というのなら、サプリメントが効果ないことや、バズビー氏がそれで不当な利益を得ていることを証明する必要があるだろう。私にしてみれば、ニセ科学を標榜して被ばくの過小評価をする菊池誠氏や杉山弘一氏のほうがよほど教祖様に見える。
真理は論理で証明されるのではなく事実から証明されるのだ。杉山氏のような主張は、政府や御用学者の言っていることとさほど変わらない。
最近はこのような方を「エア御用」というらしい。「原発業界御用学者リスト@ウィキ」によると、エア御用とは以下のような人のことを指すようだ。
科学者の中に、不十分な知識に基づいて事象を判断し、安全を不適切に強調する人がいる。また、科学の外側にあるリスクをきちんと見積もれないままに、「科学的知識」だけに基づいて安全を不適切に強調する人がいる。 「不十分な知識」に基づいて、科学の外側のリスクも無視して、安全を不適切に強調する人がいる。専門外のことに口を出し、「放射能の健康被害を気にするのは愚者」「気にしなくて良いレベル」を繰り返す人々である。放射能との因果関係が不明な事柄に関し「放射能は無関係」と繰り返す。 今、避難対象地域以外の住民であっても、外部被ばくや内部被ばくがわれわれの健康にとって致命的となる可能性(リスク)が大きく存在しているのに、エア御用の方々は、それを他のあらゆるリスクと比較して小さく見せようとし、無視させようと努力している。 避難をしたい人が、避難したくなくなるように強要している。
放射能による被害を過小評価している人として、菊池誠氏や片瀬久美子氏がいる。原子力産業とは縁がなく本人が本心でそう考えているのなら「御用」という用語は不適切だと思うが、低線量被ばく、内部被ばくを過小評価する杉山氏もまさにこういう方たちと変わらないと私は思う。
まあ、どんな意見であれ個人の意見を尊重することは大事だ。菊池氏や杉山氏が自分の意見を発信するのは自由だ。しかし、チェルノブイリの事例からも低線量被ばくが危険である可能性が高いのに、その事実を見ようともせずに安全であるかのような意見を主張するのは無責任だと思う。間違っていた場合、責任がとれないではないか。安易に過小評価して安心意見をふりまくことは被害を助長しかねない。それに、自分と異なる意見であるからといって「知的怠慢」だと見下す姿勢は支持できない。
私はブログでクリス・バズビー氏やアー二―・ガンダーセン氏などの話を紹介してきたし、放射能の危険性について自分が信頼できると思う情報を紹介してきた。健康被害が起きてからでは遅いのであり、少しでも危険性に気づいてできる限りの対処をしてほしいと思うからだ。自分や家族の健康は自分で守るしかないし、今の日本ではそうすることでしか個々の命は守れない。そのためには事実に基づいた情報がなければならない。
もちろん、それらの情報をどのように受け止めどう行動するかは個人個人の判断によるしかない。たとえば避難を考える場合も、避難することのリスクとしないことのリスクを考えて個人個人が判断するしかない。だから私は自分の意見を主張はするが、強要するつもりは毛頭ない。
杉山氏は、結局のところ関東地方などでは被ばくリスクは大きくはなく、気にし過ぎることのほうが弊害があると言いたいようだ。言いかえるなら、「病気になる確率は低いのだから、病気になったら運が悪かったと思え」と言っているようなものだ。原発を推進してきた電力会社や政府によってもたらされた被害を、「運が悪い」で誰が納得するだろう。防ごうと思えば防げた被害を「運が悪い」で誰が納得するだろうか。
彼の発言はチェルノブイリ原発事故の経験を踏まえているとは思えない。事故の被災者が被ばくによる病気でどれほど辛く苦しい状態を強いられたのか少しでも理解しているなら、過小評価を喧伝するのではなく、チェルノブイリが示す事実を知らせ被害者を減らすような言動をとるというのが普通の感覚だと思う。取り返しのつかなくなる前に情報を提供することにこそ意味があるのだ。
チェルノブイリの原発事故を経験したベラルーシの子どもたちの作文集「わたしたちの涙で雪だるまが溶けた」を読んでほしいと思う。子どもたちだけではなく、多くの大人が様々な病気で亡くなっている。深刻な被害を受けた人たちの心の叫びを受け止めたなら、安全側に偏った主張など安易にできないと私は思う。
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