ベントをめぐる不可解
昨日、福島第一原子力発電所のベントに際し、現場で作業に当たっている作業員に周知しなかったという報道があった。
作業員にベントを知らせなかったとは信じがたいことだ。大量の放射線物質が放出されるようなベントの際は、地域住民にも知らせて避難を呼びかけるべきだ。作業員はもとよりニュースで全国報道するというのが筋ではないか。
ところで、私がこの記事を読んで疑問に思ったのは、正確な「ベント」の時刻や回数、そして爆発との関係だ。そこで、経済産業省が発表している原子炉のパラメーター(5月1日付)を見てまたまた驚いてしまった。
上記の記事によれば、「政府や東電が明らかにした経過によると、格納容器内の圧力の異常上昇は12日未明に判明。政府は午前3時ごろベント実施を発表して東電との協議に入り、事態が深刻な1号機で午前9時すぎ、二つの弁のうち、最初の弁の開放作業が始まった。二つ目の弁の開放着手は午前10時すぎだったが、実際に蒸気の排出が確認されたのは午後2時すぎ。データによると、午後2時20分の線量は通常の約180倍で、午後2時の線量から2倍以上に跳ね上がっていた」となっている。ベントは1号機で2回行われ、実施に排気が確認されたのが2時過ぎということになる。
ところが、5月1日の経産省の発表では以下のようになっている。
1号機
3/12 10:17 ベント開始
15:36 爆発音
2号機
3/13 11:00 ベント開始
3/15 00:02 ベント開始
06:10 爆発音
3号機
3/13 08:41 ベント開始
3/14 05:20 ベント開始
11:01 爆発音
1号機ではベント開始が10時17分の1回しか書かれていないし、何よりも驚いたのは爆発していないと思っていた2号機でもベントのあと爆発をしていたのだ。たぶん規模が小さかったので建屋の損傷が少なかっただけなのだろう。3つの原子炉で合計5回(実際は5回以上か?)ものベントをしているのだ。そして、これらのことからわかるのは3機ともベントによって格納容器内の気体が建屋に出され、それが爆発のきっかけになったらしいということだ。爆発によって関東地方にまで放射線物質がまき散らされてしまった。
もうひとつ不可解なことは、4号機だ。4号機の建屋もひどく損傷したのであり、爆発が起きたと思うのだが、「4Fの壁が一部損傷の確認」となっているだけで爆発という表現はどこにもない。建屋の大破の原因は何だというのだろう。説明不足も甚だしい。
ちょっと探してみると4月23日の朝日新聞で以下のような報道があった。
もっと早くベントをしていたなら、これらの水素爆発は防げたかもしれない。格納容器が大破しなかったのは不幸中の幸いだったが、水素爆発によって事態が深刻化したのは確かだ。そして、以下のブログに書かれているように、建屋に排気できる装置があればベントをしても水素爆発は防げた可能性もある。
原発の水素爆発の原因は解明されたのか。日本の情報の開示はまだ遅い。ベントとは関係ないのか。こんなことでは福島をはじめ、国内の原発の対応も無駄にならないのか。建屋からのベントというか負圧でも排気できる装置は必須。 (Kumano Haruka nari)
しかし、結局のところ福島原発が冷却剤喪失事故を起こしたのは、地震による電源の喪失(受電鉄塔の倒壊)であり、地震による配管の破断もあったのだろう。今回の事故の原因はやはり地震大国に原発を作ったということにほかならない。そして、事故後の対応のまずさが事態の悪化につながったのだ。
ただし、地震がなくても原発事故は起こる。福島第一原発の2号機では電源喪失事故を起こしていたそうだ。今回の事故がなければ、これも隠されていたのだろう。地震がなくても原発は危険だ。地震や津波で危険性が格段に高まるということだ。
福島第一原発2号機、昨年6月にも電源喪失(読売新聞)
参考までに、日刊ベリダの以下の記事もどうぞ。
米原子力専門家が語るフクシマ「チェルノブイリよりひどく、より悪くなる可能性がある」(グローバル・ポスト紙インタビューから)
« 「原子力ムラ」という利権構造と御用学者の作り方 | トップページ | 日本が原発推進という不合理で愚かな選択をしつづけた理由 »
「原子力発電」カテゴリの記事
- 震災から14年に思うこと(2025.03.11)
- 大地震に警戒を(2024.01.04)
- 二つの大罪(2023.08.24)
- 汚染水を海に流すという犯罪(2023.08.14)
- 原発事故から10年(2021.03.11)
コメント
« 「原子力ムラ」という利権構造と御用学者の作り方 | トップページ | 日本が原発推進という不合理で愚かな選択をしつづけた理由 »
日本人には意思がない。
だから、意思決定ができない。
神の意思による災害は天災、人の意思によるものは人災。
意思という概念がなければ、天災と人災の区別も定かではない。
人の行動を納得できるものに改めることも容易ではない。
指導力は、指導者の社会意思の決定力である。
意思そのものがなければ、社会問題は指導者による解決を見ない。
「首相はオーケストラの指揮者だが、誰も指揮者を見ていない」ということは、一個人の意思に構成員が意識を集中できないことを意味している。
問題を解決する能力のない人たちが、事態を台無しにする力だけを持っている。だから、世の中は難しい。
問題を解決しようとしても、先送りと積み残しに終始する。なりゆき任せになる。
「そのうち、何とかなるだろう」ということか。
未来の内容が定かに考えられないと、起こる事態は想定外のことばかり。
目の前に事態が現われてからでは、その対策は後手後手に回る。
未来のことは、未来時制の構文の中で述べられる。
日本語には、時制がなく、未来時制もない。
だから、その計画も場当たり的というか、行き当たりばったりになる。
日本人は、拙速主義である。場当たり的なトントン葺きの家づくりが得意である。
大ブタさんのわらの家をつくる。災害に強い小ブタさんの煉瓦の家は作らない。
作る暇などないからである。
日本人は、過去と未来に挟まれたごく狭い時空の中にあくせくと生活している。
精神を集中すると、その刹那も永遠に見えてくる。
前後の見定めのない自分の話が永遠の真理を話しているような気持ちになるところが不思議なところである。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
投稿: noga | 2011/05/02 16:33