ニセ科学と陰謀論
日本科学者会議発行の「日本の科学者」2月号の特集は「21世紀の科学リテラシー」だ。中でも興味深かったのは、江守正多氏の「地球温暖化論争を経験して、科学リテラシーについて思うこと」と、菊池誠氏の「ニセ科学問題から見た科学リテラシー」という論考だ。
江守氏は、人為起源温暖化論を肯定する勢力と否定する勢力のせめぎ合いを、一般の人たちがどう捉えるべきかについて論じている。専門家ではない一市民が、肯定派の主張と否定派の主張に出会ったとき、どのような根拠でどちらの主張を信用するのかは、科学リテラシーやメディアリテラシーが深く関係してくる。
そして、論理性、正確性、不偏性について主張を評価する必要があるという。しかし、実際に、専門家ではない市民が、これらについて吟味し判断するのは困難だ。したがって、判断を保留する市民が多いことについては共感できるという。ただし、「共感できないのは、否定派の主張を断定的に受け入れ、肯定派の主張を断定的に誤りと決めつける態度である。理性的な判断が難しい問題に対して、多くの専門家が支持する主張を断定的に否定する態度をとる背景には、組織的な否定派の影響を受けている可能性や、権威を批判したい、あるいは陰謀論を信じたいという誘惑の存在が想像できる」としている。
地球温暖化についてはこのブログでも何回か取り上げている。私自身は専門的な数式等は分からないが、肯定派、否定派の主張を客観的に見るなら、肯定派の主張のほうが論理的に納得でき、説得力があると考えている。そして、否定派の一部の方が主張する「陰謀論」については、大いなる疑問を感じている。もちろん、否定派の方たちの主張がすべて間違っているとは思わない。しかし一部の主張が正しいからといって、全てが正しいというわけではない。
とりわけ陰謀論が先にあり、人為起源温暖化論を主張する国の研究機関の人たちをひとからげに御用学者呼ばわりするような否定派・懐疑論者の方たちは理解できない。冷静に考えたなら、専門家の方たちが一致団結して御用学者になっていることなどあり得ないだろう。江守さんの主張はもっともだと思う。
菊池さんの論考も面白い。ニセ科学として、たとえば「水からの伝言」を挙げている。私は「水からの伝言」という言葉は聞いたことがあるが、具体的にどういうことなのか知らなかった。はじめから関心がなかったということだ。私と同じように知らない人のために、菊池さんの説明を引用しよう。「これは、水に『ありがとう』という言葉を見せてから凍らせると樹枝状に成長したきれいな結晶ができ、『ばかやろう』という言葉を見せたのではそのような結晶にはならないという説である」ということだ。
いやあ、この説明を読んで驚いてしまった。水が言葉を理解して結晶の形を変えるなんて、逆立ちしたってありえない。こんなことを信じる人がほんとうにいるのだろうか。しかし、それを実証した写真集によって、大きな評判になったという。科学的な教育を受けているのなら、水が人間の言葉を理解するなどということを疑うのが当然だろう。本に書かれていることが真実とは限らない。嘘でたらめを書いている本など世の中にはたくさんあるだろう。写真集の実験を信じるかどうかは、本来それを見る人が考えなくてはならないことだ。ところが、これを小学校の道徳教育に使い、いい言葉を使うように指導した教師がいたというのだからたまげた。
ほかにも、民間療法のホメオパシーや9.11の陰謀論、理系の専門教育を受けた信者がオウム真理教を受け入れていたことなどについて、紹介している。9.11については、確かにインターネットなどでは根強い陰謀論があるようだ。つまり、米政府による自作自演説だ。週刊金曜日などでも、米政府の中枢の人たちがあの事件を事前に知っていたという証言を取り上げていた。そのことは事実かもしれない。しかし、事前にテロを察知していたことと、事件そのものが米国の自作自演であるというのはまったく別のことだ。そこはきっちりと切り離して考えるべきだ。
何を信じていいのかわからない一般の人にとって、陰でまことしやかに囁かれる陰謀論というのはちょっと魅力的なのかもしれない。なんだか推理小説みたいだし、誘惑にかられるのはわかる。たしかに世の中には陰謀といえることがしばしばある。しかし、だからといって不可解なことに対してすぐに陰謀論を持ち出すのは著しく論理性に欠ける。ところが、陰謀論こそ正しいと信じて、他の主張を受け付けない人もいる。それは、ときとしてほとんど宗教のようになっている。しかし、ニセ科学の場合「信じるものは救われる」で済むはなしではない。「信じるものは騙される」のである。そして、場合によっては破滅に向かう。
今、私たちのまわりには情報が氾濫するようになった。わからないことはすぐにインターネットで調べることができる。しかし、紙のメディアの情報であれ、インターネットであれ、その情報をそのまま鵜呑みにしてしまうのはとても危険だ。何が正しいのか、何を信じるべきなのかは自分の頭で考え判断していかなければならない。だからこそ、科学リテラシーが必要なのだ。ところが、この国の教育はそういうことを重視しているとは思えない。この国に科学リテラシーが根づく日がくるのだろうか。
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