奥が深いクモの同定
一昨年、日本で生息の確認されているクモをほぼ網羅した「日本産クモ類」(小野展嗣編・著、東海大学出版会)が出版されたことは「新しいクモ図鑑が発売」で紹介した。全種について生殖器など同定のポイントとなる図が示されている画期的なクモ図鑑だ。
こんな図鑑が発行されると、これ一冊あれば「日本のクモの同定は完璧!」などと思う人がいるかもしれないが、それは甘い。そう思っている人は、この図鑑を利用して片端からクモの同定をしてみるといい。大型のクモはともかく、小型のクモの場合、そんな簡単に同定ができないことがすぐに分かると思う。
まず、クモの同定をほとんどしたことがない人の場合、「科」のレベルで間違えてしまうこともある。こうなると、先に進まない。科の分類はクリアしても、種数が多いサラグモなどになると、該当する種に到達するまでが大変だ。検索表も、一つ間違えてしまうとたどり着かないし、かといって端から生殖器の図と「絵合わせ」をしていたら大変な時間と手間が必要になる。
たとえ絵合わせでよく似た種にたどり着いても、こんどはそれと似た「近縁種」との違いを調べなければならない。外雌器(雌の生殖器)がとてもよく似ていて、クモの研究者でも同定に苦労する種もあるのだ。
しかも、図というのは、「分かりやすいようで分かりにくい」のだ。生殖器は立体的だから、立体感がある図は比較的分かりやすいのだが、そのような図を描くのはとても難しい。私が描く図もとても立体的とは思えない。そもそも普通は絵に関しては素人の研究者が図を描いているのだから、それは仕方ないことでもある。さらに、外雌器(雌の外部生殖器)などは、個体変異も結構あり、これも同定する際には厄介だ。
そこで威力を発するのは、やはり経験と勘、そして現物の標本との比較だ。しかし、その「経験と勘」というやつも、使わないと衰えてくる。
今日も、その「勘」の衰えで振り回された。あるカニグモの雌を調べるために、手持ちのカニグモの標本に当たっていた。そしてゾウシキカニグモ(オオヤミイロカニグモ)と同定していた標本の中に「これは誤同定では?」と直感する雌個体を見つけたのだ。「あーあ、誤同定なら調べ直しだ!」と言うわけで、図鑑を当たった。一見したところ外雌器はオビボソカニグモとかクロボシカニグモに似ている。しかし、いくら目を凝らして図鑑と照らし合わせても、どちらにもぴったりと一致しない。個体変異なのかと疑ってはみたが、自信を持って同定できない。ピットフォールトラップ(誘引物質などを入れたコップを地面に埋め込み、そこに落ちた昆虫などを捕える採集法)による採集品なので、色彩や斑紋は明瞭ではないが、背甲の斑紋はオビボソやクロボシではなさそうだ。
さんざん眺めまわした挙句、外雌器を少し下方から見てみた。そして、別のゾウシキカニグモを隣に並べ、外雌器を同じ角度から見て納得した。「誤同定では?」と直感したものは、結局ゾウシキカニグモで間違いなかったのだ。一気に力が抜け、自分でも可笑しくなった。外雌器の雰囲気が違って見えたのは、トラップ採集品のために内部生殖器まで透けて黒っぽく見えていたからだった。
そんなこんなで、普通種の同定にずいぶん時間をかけてしまった。お恥ずかしい限りだ。
しかし、こんな経験はたぶん私だけではないだろう。日ごろクモの同定を手掛けている人なら、似たような経験をしているのではないだろうか。そうやって、ときどき勘違いをしながら同定の腕を上げていくのだ。
「日本産クモ類」には約1500種のクモが掲載されている。しかし、ここに掲載できなかった種はまだまだ残されている。つまり、まだ種名が判明していない種だ。特に、サラグモ科はこれからも新記録種や新種がかなり出てくるだろう。
いくら日本で記録されているクモの大半の種が掲載されている図鑑ができたからといって、決して専門家が不要になるという訳ではない。そして、時には猿も木から落ちる、つまり専門家であっても誤同定をすることがあるのである。同定という作業は奥が深いとつくづく思う。
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