好きになれない言葉
一週間ほど留守にしていたのですが、その間に渡辺容子さんがご自身のブログ「暗川」に興味深いことを書いていましたので紹介します。
この記事の中で紹介している社会学者の鵜飼正樹さんの文章は、共感するところが多々あります。私もいわゆる「癒し」ブームというのは嫌いで、この言葉を聞くと背筋がぞっとします。鵜飼さんは「多くの人が『癒されたがり』病にかかっているだけではないかと勘繰りたくもなる」と書いていますが、私も確かにそう感じることがよくあります。
現代のように混沌とした社会では人はだれでもストレスを溜めてしまうものです。ですから疲れた心身を「癒す」こと自体が悪いことだとは思わないのですが、いわゆる「癒しブーム」の感覚は気持ち悪いとしか思いません。
私の場合、精神的に疲れてしまったときの一番の薬は、自然の中に出かけることです。若いころは、野鳥観察の旅行に行ったり山に登ったりしました。旅先や山できれいな空気をいっぱいに吸い込み、自然の醸し出す香りや音、風などを五感で感じ取り、言葉ではとても言い表せない美しい光景に見とれ、可憐な花に目を見張り、小さいながらも逞しく生きている野鳥たちの姿を見ていると心が洗われ、生きていることの喜びが湧きあがってきたものです。そういったことが私にとっての「癒し」であり、他人に「癒してもらいたい」と思ったり、癒しの方法を教えてもらいたいと思ったことはありません。
それに、鵜飼さんも書いているように、飢餓に苦しむ人々を前にしたなら、日本人の「癒しブーム」などというのは何の役にも立ちません。
「癒し」という言葉とともに嫌いなのは「ふれあい」とか「元気をもらう」。これも「癒し」と同じくらい昨今のブームのような言葉ではないでしょうか。とても好きになれない言葉なので、自分で口にすることはまずありません。「ふれあい広場」とか「ふれあいコーナー」とか、「ふれあい」とつく言葉がそこらじゅうに溢れるようになりましたが、これも何とも気持ちが悪い。すぐに頓挫してしまいましたが、環境省の「ふれあい自然塾」という事業もありましたっけ。自然と「ふれあってもらう」ための施設づくりの事業です。
そもそも「ふれあい」の場って他人が用意してあげるものでしょうか。「元気」って、他人からもらうものでしょうか? 人と人との出会いや交流というのは、自分の行動があってのものではないでしょうか。他者の言動に触発されて「元気づけられる」というのなら分かりますが、「元気」というのは誰かにあげたり、誰かからもらったりするものではないはずです。
どうしてこれらの言葉が好きになれないのかと考えてみたのですが、結局、これらの言葉は他力本願というか、とても受動的な状態を前提にしていることに気付きました。自分で求めたり努力するのではなく、だれかがお膳立てをしてくれることを前提としているのです。黙っていても、誰かが「癒してくれる」ものを提示してくれるとか、人と人の交流の場を設定してくれるとか、「元気」を与えてくれるとか・・・。
そこには自分の意思で何かをつかみとっていくという主体性がありません。でも、人間というのは他人に何とかしてもらって生きていく存在ではないと思うのです。苦しいことや辛いことがあっても、それを乗り越えるためには最終的に自分の頭で考え選び、行動していくしかありません。もちろんどうしていいのか分からないときにはアドバイスをしてもらったり、助けを求めることも必要です。人と人が理解しあい、協力しあって生きていくことも不可欠です。しかし、最終的に自分の信条や生き方を決定するのは自分自身の意思でしかありません。人がまっとうに生きていくうえで一番大切なのは自分自身の気持ち(良心と言い換えてもいいでしょう)を大切にし、意思をしっかりと持って行動していくことではないでしょうか。他力本願でのほほんとしていたなら、欲の塊となった権力者に利用されてしまうだけです。
だからこそ、他力本願のような「癒し」「ふれあい」「元気をもらう」という言葉を聞くと、胡散臭いとしか思えないし、こんな言葉がもてはやされるこの国は大丈夫なのだろうかと不安にもなってきます。
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