裁判員裁判での死刑判決に思う
東京に行っている間に、裁判員裁判で二回目の死刑判決が出ました。その間、テレビニュースも見ていなければ新聞も読んでいなかったので状況がよく分からなかったのですが、以下の宮崎節子さんの記事を読むとおおよそのことがわかります。
裁判員裁判が始まった頃は、死刑に関わるような重大な事件はありませんでした。ところがこの秋からはどうでしょう。死刑に関わるような重い判断を求められる事件が続々と出てきました。被告人が自白を強要されたと主張している事例もあります。予想されていたとはいえ、堰をきったように難しい判断を迫られる事件が出てくるというのはどういうことなのか、不思議でなりません。もはや、裁判員は「いい経験になった」などとのんきなことを言っていられる状況ではありません。
二例目の死刑判決は少年事件でした。光市事件について二例目の少年に対する死刑判決ですから、裁判員はきわめて重い判断を求められたことになります。しかし、上記の記事に書かれている判決骨子を見て、やはりこんな理由で少年を死刑にしてもいいものかと思わざるを得ませんでした。
まず、「反省に深みがなく更生可能性は低い」という判断。愛情のある家庭で育った正常な精神の人ならばともかく、虐待などで精神的に深い傷を負ったり、人間を信じられない環境で生きてきた人が罪と向き合って反省をするというのは、それほど簡単なことではありません。何年もの月日がかかることもあるでしょう。「死刑について考える(その4)」で取り上げた宅間守のように、虚勢を張って決して反省の態度を示さない被告人もいます。しかし、そんな意固地な態度をとり続けるのは恐らく生育歴に起因していると思われます。
少年の取り調べでは違法行為はなかったのでしょうか? 犯行は事実であっても、違法ともいえる厳しい取り調べをしたり、事実をゆがめた調書を強引にとられていたなら、素直に反省の態度を見せることができないかもしれません。
更生可能性といったことも、そんなに短期間で結論づけられるとはとうてい思えません。 少年事件なのに、家裁が作成した詳細な生育歴も証拠申請されなかったというのですから、これはちょっと信じがたいことです。以下の記事によると、少年は5歳で両親が離婚し、母親から虐待を受け、その母親も交際相手からDVを受けていたといいます。想像しただけでも壮絶な家庭環境です。
暴力が日常的な家庭で育っていたなら、暴力に対してまっとうな判断をできなかったとしても不思議ではありません。「ゆがんだ人間性」と切り捨てるのではなく、それがどこからもたらされたのかまで十分に検討し、更生の可能性を探るのが裁判の役割ではないでしょうか。情状や更生可能性を判断するための重要な証拠を出さないで、どうして更生の可能性が低いなどと軽々しく判断できるのでしょう。審理の迅速化のために重要な証拠を出さなかったというのなら、裁判員裁判は廃止すべきです。
そして、残念なのが「残虐さや被害結果からすれば刑事責任は誠に重大で、極刑しかない」という判断です。これはまさに事件を起こした背景や動機を軽視し、残虐性や三人を殺傷したという結果ばかりを重んじたものですが、光市事件と同じ構図のように感じます。近年の厳罰化の流れも、こうした国の考えが根底にあるのではないでしょうか。
記事の筆者の宮崎さんは「死刑判決を受けた二事件の少年二人は、豊かな時代に育ちながら生育歴は悲惨だった。人間らしい温かさを知らないで育ち、犯した罪では人間らしさを問われる。自分で犯した罪とはいえ少年の身に死刑判決。やりきれない思いになる」との感想を書かれていますが、同感です。悲惨な環境で育った子どもがどんな精神状態に陥るかといった考察が、この国の裁判ではあまりにも軽視されていると思えてなりません。被告人は控訴して、さらに審理をつくしてほしいと思います。
少年による凶悪事件は激減しています。それなのに、なぜこの国は厳罰化ばかりを求めるのでしょうか。裁判員制度を利用して、厳罰化に市民を巻き込んでいこうとするこの国は、どこへ向かっているのでしょうか。国による厳罰化は、やがて自分自身の身にふりかかってこないとも言えません。軽微なことで市民が相次いで不当逮捕された事例を忘れてはならないでしょう。
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