「遊糸」に想う
数日前のことです。朝、窓から外を見ると、庭の木の枝先からクモの糸が何本もきらめいていました。「ああ、バルーニングの季節なんだな・・・」と思っていると、その日の北海道新聞朝刊の「卓上四季」で「雪迎え」(遊糸、ゴッサマーなどとも言う)について綴られていました。晩秋の穏やかな日に、クモが空中飛行のために飛び立つのですが、この空中飛行をバルーニングといい、その時に出された糸が絡まって浮遊する現象が「雪迎え」です。この「雪迎え」「遊糸」という言葉を聞くと、思いだす美しい随想があります。
それは辺見庸氏の「独航記」(角川文庫)に収められている「遊糸」というエッセイです。もっとも「独航記」は雑誌や新聞に掲載された記事を集めて単行本にしたもので、この「遊糸」の初出は1999年9月30日の日本経済新聞です。そして、辺見氏は「遊糸」に続いて「雪迎え」という随想も書いています。以下に「遊糸」から一部を引用させていただきます。
秋になると、おりふし、「遊糸」のことを、恍惚として思い浮かべる。遊糸は、私の記憶のなかで、もっとも神秘的で美しい風景のひとつでありつづけている。といっても、記憶は濡れたガラス越しにものを見るように頼りない。それでも思い出の糸をたぐり寄せてみる。ほとんど透明で、銀色に光るとても細い糸が、真綿がばらけたみたいに、いく筋もいく筋も、まなかいを横に、あるいは斜に吹きながれていく。ただそれだけのこと。
・・・空はまるで硫酸銅の色みたいに、一点も濁りなく、端から端まで真っ青。その十三陵の空を、無数の糸が、きらきらきらめいて飛んでいくのであった。というより、輝きながら浮遊していった。
辺見氏は、北京の北方の遺跡で、民主化運動をしていた中国人の友人と「遊糸」の飛ぶ光景を見、「なぜだか後頭部がしびれるほど幸せであった」と記しています。北海道新聞の「卓上四季」にしても、辺見氏の「遊糸」にしても、細くて透明でたよりげないクモの糸が、晩秋の晴れた空を浮遊している光景を、とても神秘的で美しい光景として描き出しています。私は「真綿がばらけた」ような「遊糸」こそ見たことはないのですが、空中飛行の名残である糸や、空に飛び立とうとしている小さなクモならしばしば見かけます。そんなときに想うのは、その神秘的な現象とともに、生物の生きる過酷な世界です。
基本的に単独生活をするクモは、同じところに高密度で生活するのではなく、分散して生息するのが一般的です。おそらくバルーニングという現象も、クモの密度を低くすることと関連しているのでしょう。レミング(タビネズミ)が高密度になると集団で大移動したり、バッタが大発生して雲のような塊となって大移動するように、クモも空中に飛び立つことによって自ら密度調整を行っているのでしょう。
大空高く舞い上がって上昇気流に流されたクモはまさしく「風まかせ」の移動しかできません。大海の上に落ちてしまうこともあるでしょうし、そのクモの生息環境とはかけ離れた場所に落ちてしまうこともあるでしょう。神秘的で優雅にみえる遊糸という現象も、裏を返せば死の危険を伴う大冒険なのです。
クモは糸をつかって遠くに移動する手段を獲得しました。体調が1、2ミリの小さなクモでもヨーロッパからアジアまで広い分布域を持つものが少なくありません。北海道にもヨーロッパと共通の種がたくさん生息しています。バルーニングが移動手段として大いに役にたっているのは事実でしょう。山形の「雪迎え」が湿地から飛び立つクモの糸であるように、湿地や草原など上昇気流を利用して大空に飛び立ちやすい場所に生きるクモは、バルーニングという遠くまで移動する手段を手に入れました。
しかし、すべてのクモがバルーニングで遠くに移動しているわけではありません。たとえば森林の落葉層であまり移動することなくひっそりと暮らしているクモもいます。森林に棲むクモは分布域が狭いものが多いのですが、恐らく数十メートルもの樹木の林立する深い森林は、クモがバルーニングをする舞台にはなりにくいのでしょう。冒険旅行をしない彼らは、分布域の拡大より今棲んでいる場所にしがみつき種分化の道を歩んでいるともいえましょう。しかし狭い分布域しか持たなければ、大きな環境変化によって滅んでしまう可能性も高くなります。それはクモ自身が選んだ道というより、生息環境によって必然的にそうなっているといえます。
バルーニングの名残の糸が漂っていた穏やかな日から3日後の今日、空から雪が降りしきる天気になりました。小さなクモたちの飛行は、まるで雪の季節を知っているかのようです。
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