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2010/08/09

「『朝日』ともあろうものが。」で見えた日本の堕落

 烏賀陽弘道さんの「『朝日』ともあろうものが。」(河出文庫)を読了しました。烏賀陽さんといえば、オリコンから不当な裁判を起こされ、大変な闘いを勝ち抜いたジャーナリストです。その裁判では並々ならぬ苦労をされたとのこと。以前からとても気骨のある方だなあと思っていましたが、元朝日新聞社員が朝日新聞社の内情をつまびらかにしたこの本を読んで、ますます彼の考え方や生き方に魅力を感じるようになりました。以下の彼の価値観にもいたく共感します。

 「この言葉が現代の日本で価値を保っているのかどうかすら怪しいけれど、ぼくは『良心』という言葉を何より大切に生きていきたいと願っている。ジャーナリストという仕事に惹かれたのも、この職業が、何より『良心』に忠実な人間を待っていると思ったからだ。ここなら『良心』に忠誠を誓った人生を送ることができると思ったからだ。

 ぼくにとっての『良心』とは『死んで神様の前に歩み出ても、恥ずべきことのない人生を送る』という意味である。うそをつかないこと。誠実であること。苦しんでいる人を助けること。謙虚であること。他者への敬意。異なる価値観を理解しようと努力すること。自分がそれを実践できているかどうかは別として、僕は、生きていくうえでそういう価値観が何より大切に思え、惹かれる。」

 「何が正しいのか」などというのは、考え方や価値観によって異なります。正義などというのも然り。ならば、人は何を信じて生きていけばいいのでしょう。つまるところ、自分自身の「良心」しかないのではと思います。私自身も、烏賀陽さんの示されたことを実践できているとはとても思いませんが、それでも、良心に誠実でありたいという思いは変わりません。

 烏賀陽さんは、自分のうっ憤を晴らすために朝日新聞社の批判を書いたわけではありません。この本は読者の良心への問いかけなのです。自分の体験した朝日新聞社というマスメディアのありようを、読者はご自分の良心と照らし合わせてどう思いますか、という。そして、朝日新聞社に巣食っている病理は日本のマスメディアの病理であり、さらに私を含め私たち一人ひとりの心の中に巣食っている病理ともいえるでしょう。

 ここに書かれた新聞記者の仕事や生活は驚愕することの連続です。初めての勤務で警察担当になり、寝食の時間もプライバシーもない生活を強いられ、オンボロ車を自分で運転して取材に行き、警察と上司に振り回され、あとで思えば読者がどんな記事を読みたいと望んでいるのかなど考えたことがなかったと言うのです。特ダネを書かなければ認めてもらえないというプレッシャー、他紙との競争、過酷な仕事・・・いやはや、すごい職場です。

 記者クラブについての批判にもかなりのページ数を割いていますが、これを読めばもう記者クラブなどは要らないとしか言いようがありません。最近は、フリーのジャーナリストを記者クラブに入れるとか入れないとかが話題になっていますが、記者クラブにはそれ以前の問題が山積されています。記者クラブ加盟社は既得権益を死守したいがために、決して記者クラブ批判をしないのですが、理由はそれだけではありません。烏賀陽さんはこういいます。「記者クラブの外で生き残れる人材など育てていないことを、彼らは自分でよく知っている」と。新聞社は、記者クラブに頼らずに独自に取材して記事を書ける記者を育てていないということなのです。ですから、記者クラブを廃止することは新聞の死活問題になるというわけです。その詳細は是非、本書を読んでいただけたらと思います。

 「夕刊は不要どころか有害」という章も面白い。私もつねづね夕刊は要らないのではないかと思っていたのですが、夕刊が不要だという理由が実に明快に書かれていました。夕刊が廃止できない理由として会社の既得権益も関係しているようですが、既得権益に縛られているマスコミはほとんど「死に体」でしょう。さらに、ねつ造やら検閲に手を貸す記者、それを改善できない会社・・・。

 そして、びっくり仰天したのか、取材のためのハイヤーや深夜帰宅のためのタクシー代金。烏賀陽さんの退職する前後に聞いた話しとのことですので、今から7、8年前だと思いますが、朝日新聞社全体のハイヤー・タクシー代が一日に何と千二百万円とのこと。今は経費節減でそんなことはないと思いますが、会社のお金だと思うと節約など考えられなくなってしまうのでしょうね。まあ、こうした感覚は朝日に限らないことでしょうが。

 ジャーナリストだとかエリートだとか言っても、新聞記者の大半はやはり普通の人間なんですね。烏賀陽さんは、朝日の社員についてこんなふうにも書いています。

 「嫉妬深いくせに、正面切って議論するほどの勇気はない。話しをすれば、こちらは納得するかもしれないのだ。が、それもできない。陰口だけには熱心である。しかし表面上の立ち居振る舞いは、礼儀正しく、柔和で、笑顔を絶やさない。まるで清朝末期の宦官のようだ。ぼくの運が悪かったのか、朝日ではそういう病的なパーソナリティーの持ち主にたくさん出会った。」

 「この本を読んで、ぼくを裏切り者呼ばわりし、貶めるために躍起になる人たちはもちろん、「ウガヤ君の言うことは当たっている。もっともだ」と応援してくれる人の大半も、既得権益を譲るようなことは何もしないだろう」

 こういうタイプの人は、そのあたりに普通にいます。陰口を言う人ほど正々堂々と議論しようとはしない。賛意は示しても、いざとなると応援はしないで知らんぷり。なんのことはありません。ジャーナリストといえど気概などなく、自分に不都合なことには関わろうとしないのです。たとえ気概を持って入社したとしても、会社がそれを挫いてしまうというのが正確なのでしょうか。

 新聞記者を辞めてフリーランスのジャーナリストになる方もいますが、この本を読んでいるとそういう方たちの心境がよく分かります。本当にジャーナリストらしい仕事がしたいのであれば、それはもうマスコミの社員では無理なのでしょう。

 インターネットでニュースも天気予報も見ることのできる昨今、堕落した新聞は生き残ることができるのでしょうか。マスコミが腐敗して堕落するということは、それはもう日本の堕落であり、私たちの堕落です。この国は、かなり末期的なのかもしれません。

 この本の元になったのは、烏賀陽さんがご自身のホームページに書いた記事です。烏賀陽さんの文章はとても軽快で、ユーモアもたっぷりです。

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