小さな街の書店のゆくえ
私の住む町から書店が姿を消して何年になるでしょうか。人口数千人ほどの小さな町で書店を見かけると、頑張っているなあと声援を送りたくなります。
昨年のことですが、とある町で夕刻に2時間ほど時間をつぶさなければならなくなりました。時間つぶしなら本屋に限るということで小雨の降る中を本屋に向かうと、店じまいの支度をしているようです。聞くと、そろそろ閉店の時間とか。地方の町では遅くまで店を開けていてもお客さんは入らないのでしょう。でも、「どうそ、いいですよ」との言葉に甘えて中に入りました。
もちろん大きな書店ではありませんが、驚いたのは社会系の本が充実していたこと。ふつうこの規模の書店では、雑誌とか実用本、話題になっている本やベストセラーの本などが主流です。どうみても、売れる本を売ろうというのではなく、売りたい本を売るという、店主の主張が伝わってくる選本です。
社会系の本の棚をひととおり眺めてから、辺見庸さんの「私とマリオ・ジャコメッリ」を選んでレジに持っていき、閉店時間を過ぎてしまったことを詫びると、「自分の好きな本を買ってもらえると、嬉しいですね」とおっしゃってくださいました。やっぱり、店主の好きな本を売っているんですね。明らかに地元の人ではない見知らぬ客が偶然やってきて、自分の好みで品ぞろえした本の棚を眺めまわし、好きな本を選んだということも嬉しかったのかもしれません。
しかし、こんな本屋さんは大型店に押されてどんどん姿を消しているのでしょう。大型店だけではありません。今はコンビニでも、インターネットでも本が注文できる時代。単に本を買いたいというだけなら、書店などなくてもいいのです。
クレジットカートを持たない主義の私は、アマゾンは利用していません。コンビニも近くにはありません。ですから欲しい本は大型書店のある街に行ったときに買うか、札幌在住の娘に頼むか、版元に直接注文するかです。自然がいっぱいの田舎暮らしはいいのですが、本の購入だけは不便。
ところがつい最近、新聞の販売店が本の注文と無料宅配をはじめるというチラシが入ってきました。本の入手は便利になりますが、こういうサービスがあちこちで普及したなら街の小さな本屋さんはさらに打撃を受けるのでしょう。利便性の陰で、「売りたい本を売る」という心意気のある街の本屋さんが消えてしまうのは何とも寂しいものです。書店の存在は、その街の文化レベルの象徴でもあると思うのですが。
« 米軍基地は保養施設 | トップページ | ガビチョウの楽園になった住宅地 »
「自然・文化」カテゴリの記事
- いくつになっても変わらないこと(2023.11.26)
- 晩夏の浮島湿原(2018.08.22)
- 「お盆休み」をなくして融通性のある「夏休み」に(2018.08.13)
- 原野の水仙(2017.05.11)
- 石城謙吉さんの環境問題講演集「自然は誰のものか」(2017.01.29)
コメント