消えゆく街の小さなお店
先週、四日ほど東京に行ってきました。実家のある住宅地は、多摩丘陵を崩して宅地造成したところ。私たち家族が家を建てて引っ越してから42年ほどになるでしょうか。
当時は家のすぐ前にスーパーマーケットがあり便利だったのですが、確か引っ越してきてから10年もたたないうちに閉店してしまいました。おそらくこのような住宅地ではお客さんが限られていて増える見込みがないということで、見切りをつけたのでしょう。
そのほかには、八百屋さんとお肉屋さん、酒屋さんが近くにありました。スーパーができる前にはどこにでもあったような、量り売りをしてくれる小さな小売店です。実家からスーパーのあるところまでは歩いて20分ほどかかるので、私は実家に行ったときには時々利用していました。野菜がちょっと足りないとか、スーパーまで行く時間がないという時など。
八百屋さんといっても豆腐や納豆、卵なども置いていますし、量り売りなので、欲しい量だけ買えてとても便利なのです。お客さんは常連さんばかりでほとんどが顔見知りなのでしょう。私が買い物にいくと「どこの奥さん?」とばかりに、声をかけられたものです。買い物をするだけではなく、店主とちょっとした日常的な会話があるのが、小さなお店なのです。
ところが、今回そのお店の前を通ると、八百屋さんとお肉屋さんはシャッターが下りていました。いつかは閉店するかもしれないと思ってはいたものの、その現実を目の当たりにすると、なんとも虚しい気分です。
こういう光景は、日本全国どこにでもあるのでしょう。北海道の地方の街は多くが「シャッター通り」になってしまい、多くの住民がスーパーへの買い出しを余儀なくされています。でも、地域住民のみんながそういう生活を望んでいたのでしょうか? 若い人たちが去り高齢者が取り残された過疎地では、高齢者の生活の基盤となっていた商店が消え、地域の人々のささやかな交流の場も消えつつあります。
都市の近くに造られた住宅地などには、コンビニはあっても小さな小売店は見当たりません。食品や日用品などの買い物は車で大きなスーパーに行くのでしょうけれど、高齢になって車の運転をやめたらどうするのでしょうか? 歩いていけるところに商店がないという生活に、この社会の歪みを感じざるを得ないのです。
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