強制と自主性―四茂野氏のホロウェイ論を読んで(1)
少し前からとても興味深く読んでいるサイトがあります。ジャーナリストの魚住昭氏の主宰するウェブマガジン「魚の目」に四茂野 修氏が連載で執筆している「ホロウェイ論」です。四茂野氏はジョン・ホロウェイの書いた「権力を取らずに世界を変える」という本の訳者のお一人であり、この連載はその本についての解説です。そこで、この論考を読みながら感じたことなどを書いてみたいと思います。
連載の一回目、「ジョン・ホロウェイ『権力を取らずに世界を変える』その1」では「する力」と「される力」について語られています。ホロウェイはこの世界には「させる力」すなわち他者による強制的な力と、「する力」すなわち自分の内から発する力の二種類があると言います。権力者による「させる力」によってひどい目にあわされてきた民衆は、人々が尊重し合って協力して生きていける社会を夢見てきました。20世紀の革命家は、自分たちが国家権力を握ることで「させる力」をふるう権力を取り除こうとしました。しかし、「させる力」を取り除くために「させる力」を行使したなら、やはり上下関係が生まれ、内部から自己崩壊していきます。ホロウェイは、「させる力」に依存することに、大きな問題があると指摘します。
このホロウェイの主張はとても大事なことではないでしょうか。私たちは日ごろ、何かをするときに「させる力」によって動いているのか、「する力」によって動いているのかを、どの程度意識しているでしょうか。人は、自らの意志や考えに基づき、行動することによって充実感や満足感を得ることができます。しかし、強制的に押し付けられたことにやりがいや充実感を得ることはあまりありません。精神的な豊かさとは、もっぱら「する力」によってもたらされるのではないでしょうか。社会の中で「する力」より「させる力」の方が幅をきかせていたなら、やがて不平や不満が広がっていくでしょう。他者の指示に従うのではなく、自らの意志による行動がない限り、格差のない平和な社会の構築などできないのではないかと思えてなりません。
今、日本の社会は失業者が溢れ、最低限の生活も保障されないような恐るべき状況になっていますが、「させる力」によって使い捨てのように酷使されてきた労働者が、自らの「する力」を発揮するようにしていかなければ、この社会を変えることはできないのかも知れません。
「する力」すなわち自主性と「させる力」すなわち強制の問題は、労働に限ったことではありません。たとえば「学ぶ」ことにおいても同じことがいえるのではないでしょうか。私は子どもの頃、学校での勉強が面白いと感じたことはあまりありませんでした。もっとも全ての授業が面白くないというわけではなく、たまに楽しみな授業もありました。そのような授業はきまって教師の教科に対する思い入れが強く伝わってくるような内容でした。生徒の主体性を重んじ、知ること、考えることの楽しみを発見できる授業であれば、教師と生徒が「知ることの楽しみ」を共有できるのです。しかし、今はそんな個性的な授業のできる教師は果たしてどれ位いるのでしょうか? 教育指導要領にがんじがらめになった学校は、生徒の学びの主体性が薄れ、強制的に勉強を教え込む場となり果てています。
私は現在の教育現場の実情はほとんど知りませんが、少なくとも私の子ども時代と比べてさまざまな点で悪化しているのは確かでしょう。いじめの多発や不登校も、それを物語っています。知識の押し売りのような授業をし、テストで競わせることを強いたなら、学校は子どもたちにとって競争の場でしかありません。級友は競争相手であり、いやがおうでもライバル意識を植え付けられ、階層化が生じるでしょう。
今、私たちを支配しているのは圧倒的な「させる力」です。「させる力」の陰で「する力」は瀕死状態になっているように感じられます。「させる力」に抗い、「する力」を強めていくことが、あらゆる場面で求められているように思います。
(つづく)
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