褒めることの功罪
昨日のNHKのクローズアップ現代では「褒める」ということを取り上げていました。子育て中の主婦が「ほめ言葉のシャワー」という冊子に出会い、「ほめ言葉」を日常生活に取り入れることで不安の解消になったという事例、覆面調査員が職場に入り込んで職員の働きぶりをチェックし、職員の長所を企業に伝えるという事例、あるいは企業の経営者が職員を積極的に褒めて職員のやる気を引き出す試みをしている事例などが紹介されていました。
確かに、人は叱られてばかりいたら気分が落ち込み、自信をなくしてやる気がなくなってくるものです。褒められることで自信がつき、意欲が湧いてくるというのは理解できます。人が社会の中で生きていかなければならない存在である以上、他者から認められるというのは大切なことです。しかし、ここまで意識して意図的に「褒める」という行為をしなくては、自信を持つことができない状況に陥っていることに疑問を抱かざるをえません。
子育てなどでもよく「褒めて育てよ」などと言われますし、誰にでもいい面がありますから、良い面を率直に褒めることはもっともなことです。しかし、「褒める」行為も行き過ぎてしまえば「おだて」ということになりかねません。意図的に褒める行為が、適切な評価ではなく単なる「おだて」であれば、それは必ずしもいい結果になるとは思えません。意欲を引き出すという目的のもとに「褒める」という行為を重ねていくうちに、相手に「褒められたい」「よく評価されたい」「嫌われたくない」という意識が植え付けられ、褒められることを目的に行動するようにならないでしょうか? そのような意識が強くなることで、自分自身に無理を強い、それがストレスにつながってしまうことにもなりかねません。
私はクモをはじめとした動植物や自然に興味を持っており、観察や調査・研究をすることがありますが、そうした行為はあくまでも自分の好奇心から生じたものです。好きだから、疑問に思うことがあるから行動するのです。それが他人にどう評価されるか、あるいは評価されないかは、あまり関心がありません。評価されることを目的にやっているわけではないのですから。
市民活動にしても然り。自然保護運動なども、決して運動を評価してもらうためにやっているわけではなく、そうすべきだと思うからこそボランティアでもやるのです。「褒めてもらう」とか「評価される」などという意識とは無縁の世界です。行為に対して適切な評価がなされることは大切ですが、褒められたり評価されることを目的に行動するということになれば、本末転倒ではないでしょうか。
ところが、近年は多くの人が褒められたり、評価されることで自分の存在を認めてもらいたいと思っているようです。社会的に孤立して不安を抱えている人が多いのでしょう。「ほめ言葉のシャワー」を読んで元気づけられる人が多いという現象に、それがよく現れています。「褒める」行為には確かにプラス効果がありますが、一方で、他者の評価を気にしない生き方ができなければ、本当の意味で苦境を乗り越えたり精神的に自立することは難しいのではないでしょうか。褒めてもらわなければ気力がわかないという社会状況は黄色信号であり、決して喜んでいられることではないように思います。
「褒める」という行為ですぐに頭に浮かぶのは、文芸社や倒産した新風舎の勧誘です。アマチュアの著作物を褒めちぎったり、ちょっとだけマイナーなことも入れながら全体的に高く評価することで著者を有頂天にさせ、出版への気持ちを高めさせ、出版社に一方的に有利な契約へと誘いこんでいく手法です。
褒めるという行為も、悪意で使われたなら人を陥れることにもなりえますし、不信感を深めることにもなります。「褒め言葉は」決して良い面だけではないことを、意識すべきではないでしょうか。
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