死刑について考える(その4)
これまでの記事
これまでの記事では、森達也さんの「死刑」(朝日出版社)、辺見庸さんの「愛と痛み 死刑をめぐって」(毎日新聞社)を紹介しましたが、今回は篠田博之さんの「ドキュメント死刑囚」(ちくま新書)について紹介します。
篠田さんは月刊誌「創」(つくる)の編集長をされていますが、子どもを襲って死刑となり執行された宮崎勤と宅間守、そして確定囚である小林薫などとの交流があり、「創」誌上でもたびたび死刑囚の手記などを取り上げてきました。そのような立場から、この三人のことについて取り上げたのが「ドキュメント死刑囚」です。一般のマスコミ報道ではわからない彼らの生育環境や、手紙に書かれた死刑囚自身の言葉、精神鑑定などをつぶさに取り上げ、死刑という刑罰が罪を償うことになるのかを問いかけています。
はじめに、宮崎勤、小林薫、宅間守の三人の事件について簡単に説明します。彼らに敬称をつけるべきか否かに迷いがあるのですが、ここでは敬称は省くことにします。宮崎勤は、埼玉県で1988年8月に4歳の幼女、10月に7歳の幼女、12月に4歳の幼女を誘拐し殺害。89年2月に最初に誘拐した幼女の自宅前に殺害した幼女の骨や歯を入れたダンボールを置き、今田勇子を名乗った犯行声明が被害者宅や新聞社に送付されたという事件です。さらに89年6月には第4の犯行も行われました。
小林薫の事件は、奈良県で帰宅途中の小学生の女児が連れ去られ、母親の携帯電話に「娘はもらった」との犯行メールが届き、翌日道路の側溝で遺体が発見されたというもの。新聞販売店に勤務する小林薫が逮捕されました。小林薫は自ら控訴を取り下げて死刑が確定しました。
宅間守の事件は、2001年6月に大阪教育大学附属池田小学校に包丁を持って乱入し、生徒や教師を次々と殺傷したという無差別殺傷事件です。生徒8人が亡くなり、15人が重軽傷を負いました。弁護人の行った控訴手続きを自ら取り下げて死刑を確定し、早期執行を望んで異例の速さで執行されました。
これらの3人に共通しているのは、弱者である子どもへの犯行であること、反社会性人格障害と診断されていること、また父親を激しく憎悪しているということです。彼らの生育環境や常識では理解できないような精神状況について、かいつまんで指摘しましょう。
宮崎勤は手に障害を持って生まれ、子どもの頃からいじめを受けていました。高校時代には幻聴などに悩まされたといいます。また、事件を起こす直前に、小さいときから彼を可愛がっていた祖父が亡くなり、精神に変調をきたしています。こうした境遇や家庭環境によって精神面でさまざまな変調や歪みをきたしていたのは明らかです。本書に掲載されている海で遊んでいる宮崎勤の少年時代の写真は、屈託のない笑顔をした子どもらしい生き生きとした表情のものであり、残虐な犯行をした人にもこんな無垢な時代があったのかと感じさせるものです。
宮崎勤は、親を憎悪して両親を「ニセモノ」だとし、法廷などでは「母の人」「父の人」などと言っていたそうです。彼の言動には常軌を逸したものがいろいろあります。たとえば、篠田さんが死刑判決を受けたときの心境を聞くと、死刑のことには触れずに、いつもと違ったテーブルのない椅子だったために頬杖をつけなくて、いつもの姿勢がとれなくて困ったというようなことを答えているのです。また、法廷で傍聴者に「早く死ね!」と大声で罵られたことについては「そんなことがあったのですか? 知りませんでした。寝ていました。…」と、常識では捉えなれない返事をしているのですが、自分の置かれた状況が理解できているのかどうかも分からない状態だったようです。宮崎勤の精神鑑定では、反社会性人格障害とされたものの、弁護側の二次鑑定では多重人格説と精神分裂病に分かれたそうです。
小林薫は小学生の時に母親を亡くしていますが、父親を憎悪しているのは宮崎勤と同じです。小学生のころから学校でいじめを受け、孤立していました。中学校意向は新聞配達のアルバイト代の半額ほどを父親に渡していたのに、私立高校への学費を払ってもらえず、奨学金をもらって高校を卒業しています。精神鑑定では小児性愛、反社会性人格障害と診断されました。篠田氏は、「恐らく彼は、家庭環境が違っていたら、あのような犯罪者にならないですんだ人間ではないかと思う」という感想を寄せています。なお、主任弁護人は最終弁論で以下のように発言したそうです。
「情状鑑定で明らかになった通り、被告人の反社会性人格障害とされるものは生来のものでなく、学校でのいじめや父親の暴力といった生育環境に負うところが大きい。犯罪が社会の病理現象だとすれば責任の一端は社会にもあるのであって、被告人に全責任をおしつけて抹殺すればよいと考えるべきではない。女児と遺族がもちろん最大の犠牲者ではあるが、被告人もまた一人の犠牲者だと考えられないことはない。被告人は小学生の時に人間味あふれる作文を書いており、今回のような残虐な犯罪との落差に愕然とせざるをえない。被告人が本来持っていた人格にもう一度戻ってほしい。もう一度戻ることはできるのだと信じたい」
宅間守の父親について、篠田さんは「父親は権威主義的で、強い男への憧れや自負があり、教育熱心だったこととあいまって、子供への激しい体罰を加えたという。守は小さい頃からこの父親に激しく反発していた」と書いています。彼は、取り調べや裁判でもまったく反省の様子を見せず、自分は死ぬ覚悟で無差別殺人を実行したのだと、自分の行為を鼓舞して正当化し、もっと殺したかったとまで言ってのけています。まるで人間性のかけらもないかのような発言をしているのですが、そうした発言の数々の背後から見えてくるのは、ひたすら虚勢をはって突っ張ることで自分を保とうとする姿です。宅間守も反社会性人格障害と診断されています。
このように残虐で悲惨な事件を起こした加害者の背景にはまず、不遇な家庭環境があります。父親からの虐待や暴力、威圧的な態度が親への反発心や憎悪に繋がっています。それに加え、学校でのいじめが人への不信感を募らせ、社会から孤立していくきっかけになっていることが伺えます。彼らは、こうした強いストレスによって認知に歪みが生じ、偏った思い込みに陥ってしまうなどして精神に異常をきたしているとしか思えません。この国ではうつ病や自殺、ひきこもりといった状況が蔓延し深刻化していますが、こうした犯罪もその延長線上あるのではないでしょうか。精神的に追い詰められて自分を責めてしまえばうつ病や自殺となりますが、ストレスの矛先が外に向けば傷害や殺人へと向かってしまうことにもなります。何の罪もない人を殺傷するようなことがあっていいはずはありませんが、強いストレスを抱えた人間が犯罪へと突っ走ってしまうか否かは「紙一重」に思えてなりません。
日本ではこのような精神的な症状を抱えた人が増え続けているにもかかわらず、しっかりとした対応がとられていないのが現状のようです。外的要因で社会から孤立し、強いストレスで精神的に不安定になり追い詰められてしまう人たちに、適切な対応や治療がなされていたなら、犯罪には至らなかったのではないかと、考えされられました。
殺人事件のマスコミ報道では、「残虐極まりない犯行」「遺族に謝罪しておらず反省していない」などという、まるで判を押したような裁判所の判断しか伝わってきません。しかし事件を起こした背景にはさまざまな要因が重なっているのです。原因の究明もなされないまま、犯罪者を死刑に処してしまうのは、適切な対応なのでしょうか? 自分で死刑を望んで殺人をしたような人を死刑に処することが処罰になるのでしょうか? 加害者の背景や精神状態に言及し考察した価値のある本だと思いました。
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