死刑について考える(その3)
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私が森達也さんの「死刑」を読んですぐに読み返したのが、辺見庸さんの「愛と痛み」(毎日新聞社)でした。森さんがこの本で出した結論は、辺見さんの思考と通じるものであったからです。辺見さんはいくつもの著書の中で死刑について語っていますが、辺見さんの死刑に関する著述には死刑廃止論者の方たちが口にするような論理はほとんど見当たりません。
「愛と痛み」は、2008年4月5日に「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム’ 90」が主催して開催された講演会「死刑と日常―闇の声と想像の射程」を改題し、講演草稿を修正、補充したものですが、ここには辺見さんの死刑に対する根源的な思いが凝縮されています。本当なら本を読んで辺見さんの言葉のひとつひとつを噛みしめ、考えてほしいのですが、ここでは印象に残った部分をいくつか取り上げることで辺見さんの思考の片鱗でも感じとっていただけたらと思います。どうしても長くなってしまうのですが、辺見さんの想いは彼の表現を通してこそ意味がありますので、あえて長めに引用します。
さらに私は想像します。四人を殺した刑場に、これまで死刑囚を殺してきたあらゆる刑場に、はたして憎しみはあったろうか。あるいは衝動はあったか。悪意はあったか。狂気は。体が灼けるような情欲は。身を焦がすような倒錯が。あるいは殺意はあっただろうか。私はなかっただろうと思います。死刑は予定どおりに冷静におこなわれただけではないでしょうか。憎悪や衝動や情欲や殺意、それら人間の上津が微塵もないのに成立する殺人が死刑です。(中略)私たちは日々、殺人事件の報道を目にしています。それにはなんらかの憎悪、衝動、狂気、倒錯、金銭欲、性欲、情欲、殺意、あるいはものの弾みというものが介在している。しかし死刑にはそれがない。誰がおかしているのかわからない殺人です。誰でもないものが殺人をおかしている。いわばNOBODYが殺人をおかしているように装われているのが死刑です。これこそ言葉のもっともただしい意味において、戦慄すべき殺人ではないでしょうか。
死刑囚が最後に立つ鉄板を開くボタンが五つあるのは、執行官の罪悪感をなくすためだといわれています(以前はハンドル式だったが押しボタンに変更された。現在でも押しボタンが作動しない場合にハンドルが用いられている)。鐶を締める二人の係官も同様の理由からです。また鬼門の立たせるような呪術的な方策をえらぶことにも同じ心性がはたらいているのではないでしょうか。責任を拡散させ、主体をなくし、誰がやったことかわからないようにする。誰でもないものがやったことのように装う。この死刑のありようは世間と見事に重なっています。主体をあかさない、個人がいない、誰も悪意をもたない、それなのに人が殺されてゆく。これが私たちの日常です。
(中略)被害者への配慮と死刑囚への愛をひとつの次元で語るのは誤りだと私は考えます。私がいいつのっているのは、被害者と対峙しての死刑囚のことではない(中略)
死刑を執行する五つのボタンの先に私たちは存在している。死刑は私たち世間が支えているのです。それを私は「黙契」tacit agreementと呼ぶ。明文化されず、契約書を残さず、暗黙のうちに互いの意志を一致させ、私たちは沈黙したままくらい契約を交わしているのです。黙契のなかで私たちは口を閉ざしたまま死刑を委託しているにすぎません。だから私たちは目にしません。死刑囚が鼻血をだし、眼の玉を飛びださせ、下を剥きだし、失禁し、脱糞し、射精し、痙攣しながら死んでゆくのを見ずにすむ。まるでゴミ処理のように人まかせにして自分は安全なところにいる。
ここに例外はありません。つまり、死刑に反対する人も、意図ぜずともそれに加担していることに変わりはない(後略)
死刑を肯定する方たちの多くが、「殺人を犯した者は死刑になって当然」といい、「自分の親族が殺されたなら加害者を許せるのか」と被害者に同化して死刑を正当化します。しかし、そのような思考の底には、被害者と加害者を対峙させた復讐の意識が横たわっています。はたして死刑を支持する方たちは、死刑囚についてどれほどの想いをめぐらせたことがあるでしょうか。死刑の場面をどれだけ想像したことがあるでしょうか。拘置所のことをどれだけ知っているでしょうか。「死刑は法律で決まっている」といっても、そもそも法律は人のつくったものです。不適切な法であれば変えていかなければなりません。法律で死刑を認めるか否かは、私たち国民ひとりひとりの意思に関わっているのです。
私も知らなかったのですが、EUのホームページに死刑廃止宣言が掲載されているとのことで、本書ではそれが引用されています。私はこれを読んで、ぼんやりしている頭に水をかけられたようにハッとさせられました。この死刑廃止宣言から、なぜ多くの先進諸国では死刑廃止が受入れられ支持されているのかを読み取ることができます。その部分を以下に引用します。
欧州連合は世界中で死刑制度が廃止されることを求めています。欧州連合は、世界のあらゆる国での死刑制度の廃止を目指して活動しています。この姿勢は、いかなる罪を犯したとしても、すべての人間には生来尊厳が備わっており、その人格は不可侵であるという信念に基づいています。これは、あらゆる人にあてはまることであり、あらゆる人を守るものです。有罪が決定したテロリストも、児童や警官を殺した殺人犯も、例外ではありません。暴力の連鎖を暴力で断ち切ることはできません。生命の絶対的尊重というこの基本ルールを監視する立場にある政府も、その適用を免れることはできず、ルールを遵守しなければなりません。さもないと、このルールの信頼性と正当性は損なわれてしまいます。このように死刑は最も基本的な人権、すなわち生命に対する権利を侵害する、極めて残酷、非人道的で尊厳を冒す刑罰なのです。
「すべての人間には生来尊厳が備わっている」という、論理というより人権や尊厳を前面に押し出し謳い上げた死刑廃止宣言こそ本質を射抜いたものであり、私たちがもっともっと深く考え意識しなければならないことではないでしょうか。ニルス・クリスティの語った「すべての人間は人間である」という言葉ともぴったりと重なります。被害者が人間であると同時に、加害者もまた人間です。
最後に、マスコミや世間について書かれた部分を紹介します。
テレビに関しては追従どころではない。裁判がはじまると被害者側の談話ばかりをまるで誘導のようにカメラの前でかたらせる。そうして被害者感情に限りなく同化し報復環境を煽りたてておいて、裁判で死刑判決が下されなかったときは裁判官に非があるかのような報道をする。ましてや弁護人が被告人を擁護する言説を展開すると、彼らを「公共敵」呼ばわりする。いま、日本のマスメディアの果たしている役割を見ているとその必要性さえ疑わしくなってきます。そこには個人が埋没し、その片鱗すら見当たらない。
(中略)世間は感情的です。山口県光市の母子殺害事件の弁護団にあびせられた非難のすさまじさを振り返ればわかります。世間はきわめてエモーショナルで、それに歯止めをかけるのはたいへんにむずかしい。ひとたび階調を乱す行動や発言やふるまいをしてしまった個人は、容易に世間から排除されてしまう。世間は異物を排除し、同時に私たちは世間から排除されることをもっとも恐れる。その恐怖心が私たちこの国で生きる者の行動を心理的に拘束している。しかし、私たちはそれを踏み越えなくてはなりません。
人間的な感情から出発して死刑反対の意志をもつのは大事なことだと思います。しかしながら、さらに、私たちが例外なく属している世間という敵対的なものとたたかわなければなりません。世間のなかにある、なんとなく死刑を受入れていく感情とたたかわなくてはならないのです。(中略)この国にいきわたっている集合的な感情は、被告人の心神喪失を認めてはくれません。世間感情が許さないからと政治的な判断がくだされる。そんな司法がどこにあるのか。江戸時代でさえそんなことはなかった。現在の司法もまた世間を背負っているのです。
前回の記事に引用した、被害者遺族である原田さんの文章が頭の中に甦ってきました。「マスコミ」と「世間の人々」が被害者と加害者を崖の下に放り出し、崖の上では何事もなかったかのように平和な時が流れているという原田さんの例え話です。被害者遺族でありながら、加害者の謝罪や反省と向き合い、さらに一歩下がって客観的に見つめることにより考えが変わり死刑廃止運動に加わっていった原田さんの想いと行動こそ、まさしく辺見さんの上記の言葉と一致するのではないでしょうか。
「世間の人々」は限りなくマスコミに操られ扇動されているのがこの国の現実です。被害者心情ばかりを大きく報道するマスコミには、殺人を犯してしまった人たちへ想いを寄せることすら許さないような無言の圧力のようなものを感じるのです。何事につけ、周りの人々の顔色を伺い、同調することで安心しようとする日本人の感覚と、マスコミによる偏った報道が重なることで、私たちの多くは死刑という人間の尊厳、人間に対する愛の問題から目を逸らしているのではないでしょうか。ネットでの犯罪者たたきもそうです。匿名の人たちがひたすら犯罪者をたたき罵詈雑言を吐き出していますが、そこには個人の顔も意志も見えてきません。まるで覆面をした人たちが手も足も縛られて身動きのとれない人を一斉に袋叩きにしているかのようです。だからこそマスコミ報道を鵜呑みにしたり、「世間」に同調するのではなく、ひとりひとりが死刑という問題に正面から向き合い考えない限り、この国から死刑をなくすことはできないのかもしれません。私たちひとりひとりの意識に関わっている問題なのです。(つづく)
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死刑に関するものを読ませていただきました。
私は死刑精度には反対ではありません。
お書きになっている方はあくまで本を読まれてのお気持ちで書かれていることと思います。
現実を知らない上でのお気持ちと思います。
現実的な話をすれば、死刑を執行しないということは税金で長い間、(いわゆる終身刑を最高とするなら)養うという現実です。そして今、外国から来た人々でどこの刑務所もあふれかえっています。微犯から殺人罪のような大罪まで全てひとくくりです。
日本の刑務所にはとりあえず中に入れ、更生後生活の糧にする仕事を低賃金で行わせることしかしていません。
何故罪を犯したのかそれを考えさせる機能がありません。
そうするとただ塀の中に閉じ込められ、犯罪者と呼ばれる人間がどんなな気持ちでいるか、想像がつくでしょうか?
学が与えられず、世間を知らず、免田さんのように環境に恵まれずという方もいっらっしゃるかと思います。
しかしその大半は、何故ドジを踏んだ、どうしてこんな目に合わなければならないという憎しみの感情を募らせ、出た途端にやってやると再び犯罪に走る人間の方が明らかに多いです。
被害者感情もあるでしょう。もし死刑制度を廃止するなら、仇討ち精度を復活させてもいいと思いますよ。それくらい遺族の気持ちはすさんでいることと思います。
残念ながら、私は被害者側ではなく加害者側の立場にいます。家にいわゆる前科者がいます。
実際、その者が更生していると思いますか?
とんでもない。家族はいつやるか、それに怯えています。うちは殺人などの大罪ではありませんが、それでも親戚からは縁を切られ、こちらも兄弟姉妹がいることは隠さざるを得ない状態です。いると言えば、どんな仕事をしているの?と聞かれ、病気だからと嘘をつけばどんな病気なの?と聞かれます。だから最初からいないことにしないとどうしようもありません。
そしてやはりどこに行く場もないから再犯を繰り返します。
家族にそれが止められるでしょうか。いい大人を家に閉じ込めておくこともできず、かと言ってでていけばいつまた警察から連絡があるかと怯える日々がどんなものか分かるでしょうか。そういう人間を出したということに問題があるとお思いでしょうが、止めたくても、家族にも止められないことがあります。家族だからこそ、どうしようもないことというのがあります、誰かに助けを求めても犯罪が絡めば、誰も助けてくれません。逃げていくだけです。と言って本当のことを言えば、こっちも仕事も失い普通の生活もできなくなります、親でこそ、それでもいいから生きていてほしいと思うこともあるようですが、実際そういう子を育てた親であり環境ですから、もてあましてしまっているというのが実情です。
どこで誰に助けを求めればいいか分らない。自分らもなにもできない。
大罪を犯した家族の方ほどその気持ちは大きいのではないでしょうか。
いっそ殺してくれればいいのに。そう思わない方はいないと思います。
本人にもそういう目で見られ続ければ、更生という言葉はないように見えます。それでも私たちも加害者家族という目に耐えていかねばならないのは自己責任でしょうか。いつまで私たちの罰は続くのでしょうか。いつまで続けば許してもらえるのでしょうか。
法整備をして刑務所という中の制度を変えない限り、死刑を失くすことに意味はありません。
投稿: K美 | 2012/06/25 11:51
K美様
私はもちろんただ単に死刑の廃止だけを望んでいるわけではありません。死刑を廃止するためにはさまざまな問題をクリアしなければなりません。本文にもリンクしている「ニルス・クリスティの言葉」という記事に、あなたが指摘している問題点を解決するヒントがあると思います。
https://onigumo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-97f7.html
投稿: 松田まゆみ | 2012/06/25 20:39