帯広の書店で、ジャーナリストの門田隆将氏が光市母子殺害事件の被害者遺族である本村洋さんの闘いを綴った「なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日」が目にとまりました。この本の存在は知っていましたが、今までは買って読む気にはなりませんでした。しかし「光市事件とは何だったのか?」という記事のコメントでの論争もあり、被害者の視点からの本も読んでみるべきではないかという思いも手伝って購入しました。
光市事件弁護団の「光市事件 弁護団は何を立証したのか」や、今枝仁弁護士の「なぜ僕は『悪魔』と呼ばれた少年を助けようとしたのか」を読んでいた私は、被害者感情を十分に感じとりつつも冷静に読み終えました。というより、本村さんの視点で書かれた本によって、私はますます捜査機関の恣意性を強く感じるとともに、弁護団の立証したことが正しかったとの認識を新たにしました。
この本には警察・検察の執念と恣意性を感じることがいくつも散りばめられています。たとえば、刑事が家庭裁判所で「保護処分が適当」との判断が下されないよう、本村さんに協力を求めているのです。刑事は以下のような発言をしています。
「本村君、犯人には、刑事裁判を受けさせないといけない。それに耐えられるだけの揺るぎない捜査をせないかん。犯人が家庭裁判所に行くまでの二十日間で、証拠という証拠を、すべて集めないかんのです。協力を頼みます」
捜査機関が少年を刑事罰に処すことを目的に、被害者遺族に協力を依頼するなどというのはあるまじきことです。さらに神戸の酒鬼薔薇事件の被害者の父親が書いた本を本村氏に差し入れ、加害少年が医療少年院に入院したことで真相が闇に消えたことを教えて、少年法による保護は真相解明につながらないことを伝えるのです。何としてでも刑事裁判を受けさせようとする捜査当局のすさまじい執念を感じるのですが、なぜここまでして18歳の少年の刑事罰にこだわるのでしょうか? 私には、本村さんの被害者感情を利用して少年犯罪の厳罰化を狙っている国の思惑が透けて見えるように感じました。
拘置所で知り合った少年との不謹慎な手紙の入手についても、捜査当局の執念が伺えます。あの手紙を入手するために、県警と地検の捜査官は被告少年と文通している人を一人ひとり訪ねて手紙の中身を教えて欲しいと頼んでいます。捜査機関は裁判での証拠とするために、挑発に乗せられて書いた悪ふざけのような私信を何としてでも入手し、死刑求刑の拠り所としたのです。
私がこの本を読んで最も心を揺さぶられたのは「エピローグ」の部分です。この部分は死刑判決直後に、著者である門田氏が拘置所に行って被告少年と面会したときのことが綴られています。門田氏は、このときの被告は、法廷での彼とはまるで別人のように穏やかであり、「憑きものが落ちたかのような表情」だと表現しています。死刑判決を受けて「胸のつかえがおりた」「被害者が一人でも死刑に値する」という被告の言葉に、門田氏は驚きを隠しません。
私には、ここに書かれている被告少年の発言こそ真実を語っているのだと直感しました。彼は差し戻し控訴審で本当のことを語ったが、信じてもらえなかったと語っています。それに対し門田氏が、あの荒唐無稽と言われた話を被告本人がつくりあげたのかと問うと、「弁護団がつくりあげたものではない」と言って、本村さんへの謝罪を口にしたのです。
それを信じる限り、差し戻し控訴審での被告の証言は真実であり、弁護団の立証は正しかったということです。「胸のつかえがおりた」というのは、たとえ多くの人に信じてもらえなくても、裁判で本当のことが言えたということではないでしょうか。彼はすでに深く反省をしており、ようやく裁判で本当のことが言えたからこそ、自分の犯した罪に向き合い「死刑に値する」という言葉や本村さんへの謝罪の言葉が素直に出たのではないでしょうか。また真実を追究し、裁判で真実を語るように導いた弁護団に感謝しつつも、決して一枚岩ではなかった弁護団が彼にとって多少なりとも心の重荷になったのも確かでしょう。そんな心境が穏やかに語られているエピローグにこそ、私は真実を見る思いがしました。
しかし、私は被告が死刑を受け入れる発言をしたからといって、死刑が適切だとは決して思いません。殺意がなかったなら傷害致死であり死刑はあまりにも不当な判決です。父親から激しい暴力を受け、12歳のときに母親が自殺するという凄まじい家庭環境のなかで精神的な発達が止まってしまった少年に、この国はなぜ更生の機会を与えることができないのでしょうか? 弁護団の立証した自白調書の矛盾がなぜきちんと解明されないのでしょうか? 嘘の自白を強要し、少年の心に深い傷と懐疑心を植えつけ、本村さんにも誤解をもたらしたと考えられる捜査機関に罪はないのでしょうか? 加害者を殺すことが本当に償いになるのでしょうか? 犯罪被害者の救済とは、裁判で被害者が意見を述べたり、加害者に厳罰を与えることなのでしょうか? 私には到底そうは思えないのです。
この本を読んだ読者の多くは、本村さんの命をかけた壮絶な闘いに深い感銘を受けたことでしょう。しかし私には、本村さんや犯罪被害者組織まで引き込んで、加害少年をひたすら死刑へと追い詰めるグロテスクな捜査機関と、弁護団の真摯な検証を一顧だにせず、納得できる理由も示さないまま一、二審をひっくり返した異様な最高裁の姿が深く印象づけられました。
そして何よりも「エピローグ」の被告の言葉の意味を、多くの人に考えてもらいたいと思うのです。ここから見える被告の姿は、決して反省の気持ちなど持ち合わせない冷酷非情で凶悪な人間像ではありません。真実を語れたことによって罪に向き合えるまでに成長した一人の青年の姿です。ここまで彼を成長させたのは、彼を信じて支えてきた弁護士や教戒師の存在だったのではないでしょうか。
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