本音と建前
6月15日の北海道新聞夕刊の「魚眼図」に掲載された熊谷ユリヤさんの「思いがけない質問」という、本音と建前を使い分ける日本人について書かれた一文を読んで、正直いって寒気を覚えました。「思いがけない質問」とは、アメリカ人の交換留学生が授業で発した「日本人にとって、ホンネとタテマエを使い分けるのは苦痛(painful)じゃないですか」という質問を指しています。この質問に、日本人学生は一瞬沈黙したあと大爆笑したそうです。 なぜ大爆笑なのか・・・。
熊谷さんは、日本人の本音と建前の使い分けについて「幼いころから知らず知らず身についていくので苦痛は無い」「相手の立場に配慮し、所属する集団の価値観を守り、集団から疎外されないための手段」「日本的対人関係の潤滑油」等と説明しています。私は基本的に本音と建前を使い分けることに馴染めないタイプであり、熊谷さんの説明にすんなりと頷けません。
この一文を読んで思い出したのが、大雪山国立公園に計画された士幌高原道路の反対を巡ってのできごとです。地元の士幌町の農協はこの道路を「悲願」として推進していました。そして農協は事業者による説明会など、ことあるごとに送迎バスを出して組合員を動員したのです。私は事業者である帯広土木現業所の開催した地元説明会に出席したことがありますが、若者から杖をついた高齢者まで動員されてきていました。私が反対の立場から意見を述べると、会場から野次と怒号が飛び交うという凄まじさでした。
では、動員されてきた人達は本当に道路が必要だと思っていたのでしょうか? あの異様な会場の雰囲気に何も違和感を覚えなかったのでしょうか? そんなことはないはずです。中には必要がないと思っていた人もいたでしょうし、仕方なく参加した人もいたでしょう。なぜなら組合員が農協に逆らうことは、農家の死活問題に関わってくるからです。自分の生活を守るために本音と建前を使い分け、表向きは推進の立場をとらざるを得ない状況があったことは確かでしょう。農協は優位な立場を利用して、組合員を動員したのです。
地元の人にとって、本音や良心に従って士幌高原道路に反対の意見を公然と述べることは極めて困難なことであり、本音を隠して賛成しているふりをしている方がはるかに楽なことなのです。つまり「相手の立場に配慮し、所属する集団の価値観を守る」ためというより、自分のために使い分けをするのです。
しかし、そのような組織のやり方をおかしいとは思わないのでしょうか? 本音を隠して知らんふりをすることに心が痛まないのでしょうか? 本音と建前の使い分けは、往々にして「潤滑油」としての働きを通り越し、歪みや精神的苦痛を生み出します。留学生はそのようなことを「苦痛」と表現したのではないでしょうか? 日本人学生がそうした感覚に寄り添うことなく大爆笑することに、私は少なからぬ不安を感じます。
「相手の立場に配慮する」「集団の価値観を守る」という説明は、とても聞こえはいいのですが、私には都合のいい解釈としか思えません。相手の立場に配慮するのは大切ですが、そのことと自分の考えを主張することは別のことです。集団の価値観とは、集団の構成員の考えによって形成され社会情勢とともに変化していくものであり、自分を殺して守るものではないはずです。
権力者にとって、個人が本音と建前を使いわけて従ってくれることはとても都合がいいことです。本音と建前の使い分けに何の疑問も持たず、多数派に合わせて安心している日本人は、結局は権力者の意のままに利用されるのではないでしょうか。
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