渡辺勝利氏への反論 第2弾
共同出版は自費出版か?
渡辺氏は、私のJANJANの記事「文芸社・新風舎の盛衰と自費出版(1)協力・共同型出版への批判と疑問」を引用して以下のような批判をしています(二重山カッコ内が私の記事の引用部分)。
《この商法がその実態から常に「自費出版」として語られることに疑問と問題を感じます。なぜなら、こうした出版形態の契約は自費出版とはまったく異なるものだからです》 この論点から記事を書き続けているために、どんどん現実とずれていってしまっているのである。自費出版に関して法律による定義づけはない。さまざまな解釈と見方があっていいが、「共同出版」は明らかに自費出版の一形態である。それを大々的に展開した事業者が「消費者トラブル」を起こし、経営に失敗して大量の被害者が発生し、社会問題化した。 ただそれだけの話であるのに、松田氏は「自費出版」であると理解できなかったためにわざわざ問題を複雑にし、問題がないところにもあるかのような論理を作り上げてしまった。「契約書」の文言にとらわれて「木を見て森をみない」まま誤った解釈による「自費出版」論を展開しているのである。(自費出版を殺すな2 より)
渡辺氏の言うように、自費出版に関して法律による定義づけはありません。しかし出版においては、出版社が自社の商品として本をつくり販売する商業出版と、著者が出版費用を負担して著者自身に所有権のある本をつくる自費出版という二つの方法があることは周知の事実です。前者は出版社の出版事業、すなわち本の製造・販売事業です。後者は著者の本の制作サービス事業であり、販売サービスが付加されることもあります。
本というのは確実に売れるという商品ではありません。商業出版は非常にリスクの大きな事業といえます。そこで、出版社が「出版はしたいがリスクが高い」と判断した著作物の出版において、著者に費用の一部を負担してもらうという条件がつけられても何ら不思議ではありませんし、実際にそのようなことをやっている商業出版社もあります。
沢辺均氏は、「自費出版年鑑2008」(NPO法人日本自費出版ネットワーク)の「自費出版の意味と強み(弱味)」と題した記事(小見出しは「自費出版でなくても著者の制作費負担は珍しくない」)で以下のように書いています。
「それから費用負担です。僕は、いろんな人にずけずけと「数字」を聞くのが好きで、出版社仲間にも、その出版社が出版している本の印税とか制作費用をことあるごとに聞いてきました。すると、(1)印税なし、(2)著者に(たとえば数百部とか)買い上げてもらうのを条件にする、(3)自費出版と同じようにその制作費用を著者に丸々負担してもらう、などなどの話が出てきます。もちろん、その数は(1)→(3)にむかうほど少なくなるようですが、でもまあ、実質上、本の制作費の負担を著者がすることだって、出版業界でも(自費出版業界ではない)それほど珍しくはないようなんです」
これが商業出版業界の実態です。
文芸社の契約書は私が契約をした2001年時点でも、ごく最近の2008年のものでも(前回の記事参照)商業出版の契約書の雛形を応用したものであり、費用は出版社と著者の両者が負担することになっています。つまり、著者が費用の一部を負担する条件での商業出版にほかなりません。そして作品を高く評価して「全額負担することはできないが全国刊行の価値がある」といって勧誘するのです。
文芸社自身も渡辺氏との裁判の中で自費出版と違うと主張していましたが、当然のことです。「共同出資をする」と出版社自身が提示しているのに、出版社が全く費用負担をしていなければ請求金額がおかしいということでしかありません。
渡辺氏は、「出版費用の全てを著者が負担したものは、自費出版以外の何物でもない。単に本を出版することのみで、出版社に利益がもたらされている場合には、出版費用の一部を出版社が負担しているとはいえないからだ。つまり、実質的に出版社が、販売促進や在庫管理によほどの経費をかけない限り、資金を共同や協力して出し合う出版とはいえない。ゆえに出版された本の所有権は、本来全て著者にあるべきであり、著者に所有権のある本が出版社を通じて売れた場合は、販売にかかわった経費やマージンを差し引いた売上金は著者のものである。本の全てを有する著者が、自らに印税を支払うなどということはあり得ない」という主張をしています。しかし、それはあくまでも「著者がすべての費用を支払っている」ということを前提として成り立つことです。
渡辺氏は出版業界の方ですから共同出版社が著者に請求している費用が分担にはなっておらず、全額が著者負担であることを見抜くことができます。しかし、著者は「出版費用の一部」とか「制作費」という約束ならば出版費用の全額を請求されているとは考えません。中には費用に疑問を感じない人もいますが、それは著者が勘違いしている(させられている)からでしょう。 契約内容を理解して契約した著者が出版社に対して「所有権は著者にあるべき」とか「売上金を支払わないのはおかしい」と主張することにはなりません。たとえ裁判でそんなことを主張しても通らないでしょう。著者が主張できるのは、契約内容と請求金額が矛盾しているということです。
渡辺氏と文芸社の裁判においても、裁判所は「文芸社の契約書が法的に認められないようなものではない」と判断しており、契約書は法的に瑕疵がないとしています。また、新風舎の破産管財人弁護士も「本の所有権は出版社にある」としました。碧天舎のときも同じだったはずです。契約書を法的に判断するなら、それは当然のことといえます。 つまり渡辺氏の主張は契約した著者が主張できることではありません。被害の回復をしたい著者は実効力のある主張をしなければなりません。実効力のない主張は意味のないものであり、混乱をきたすだけです。
共同出版問題の最大の被害者は契約をした著者です。そして悪質商法のトラブル解決においては被害者が実効力のある論理で出版社に対峙していかなければなりません。サラ金のグレーゾーン金利が廃止されることになったのも、被害者が不当な請求だといって行動を起こした結果です。だからこそ、私は著者の視点に立ち契約に基づいた主張をしているのです。渡辺氏の主張は、著者ではなく業者に対してすべきことなのです。
共同出版を自費出版というべきではないとする理由はもうひとつあります。私は一貫して共同出資としながら共同出資にしていないことを問題にしてきました。すると、新風舎も文芸社も契約書の形態はそのままにして共同出版という呼称を使わなくなったのです。そして費用問題に関して新風舎は「請求金額に納得して契約したはずだ」と言い訳をし、サービスの契約だと言い張りました。文芸社も著者負担金を「出版委託金」などと称するようになりました。しかし契約書はサービスの契約でも委託契約でもないのです。著者がサービスの契約、委託契約であると勘違いをしたなら、出版社は「請求金額に納得して契約したはずだ」という都合のいい主張ができます。
沢辺氏は、「実は、ぼくは、商業出版と自費出版の違いについてはそれほど明瞭な線引きはないと思っているんです」と書いています。確かに混沌としています。でも、それでいいのでしょうか? 以前はもっときちんと線引きされていたのではないでしょうか?
その線引きが崩れてしまったのは、費用の一部を著者が負担する条件付での商業出版の契約でありながら出版費用の全額を著者に請求するという非常識な共同出版社が台頭し、そのやり方が「自費出版」の名の下にまかり通るようになってしまったからではないでしょうか。「費用の全額を著者が負担しているから自費出版」という論調は、問題を見えづらくし、線引きに混乱をもたらしたのです。
費用負担、リスク負担をしない製造業などという非常識な業態が、ほかにあるでしょうか? 製造業である以上、多少なりとも費用負担・リスク負担をするのが常識でしょう。これについては、「企業の利益・企業の倫理」に書いています。
商業出版で著者にも費用を負担してもらう場合には「適正な負担額」というのがあるのです(http://www.kobeport.net/news/kyodo.html参照)。だからこそ私は契約に合った適切な費用請求をすべきだと主張しているのです。
*この記事へのコメント 「com090204.doc」をダウンロード
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