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2008年12月

2008/12/31

資本と権力

 早いもので、ブログをはじめてから1年半以上が過ぎました。ブログを訪問してくださった皆さんに、あらためてお礼を申しあげます。

 今年は暗いニュースの続いた一年でした。サブプライムローンの破綻で新自由主義の化けの皮がはがれ、騙しの世界から目を覚ましたこの世界は、これからいったいどのような方向に向かうのでしょうか?

 どん底に向かう中で希望に見出すことができるとしたら、その源はやはり一人ひとりの意識や発言、そして行動ではないでしょうか。私達は今、何を見つめどうすべきかをいろいろな意味で考えさせられた一年だったともいえます。

 作家の辺見庸氏が、今年の3月から新聞に「水の透視画法」という随想を連載しています。その中の「“半端ねえ”明日へ」というタイトルの一文は、とりわけ心に突き刺さるものでした。

 小林多喜二の「蟹工船」について書かれたものです。蟹工船を読んでレポートを書かねばならない学生たちは、そこに描かれた労働環境を“半端ねえ”と表現します。

 辺見氏は、「世界大恐慌前夜ともいわれるいま、大学のテキストとなり、理解のどあいはべつにして、若者たちに読まれているということが感にたえない」としながら、多喜二が特高警察によって内出血で「墨とべにがら」色にされてなぶり殺された、その凄惨さを若者の多くは知らないといいます。そして企業と政府による労働者の搾取の構図が鮮明になった今、多喜二の書いた「蟹工船」を出版して利益を得ようとする企業がいます。

 辺見氏は、以下のように締めくくっています。

 資本と権力はとどのつまり「どんな事でもする」。かつてより“半端ねえ”のは、それではないか。

 資本と権力は労働者を使い捨てにして搾取したのです。その現実を描き批判した作家を、権力は「墨とべにがら」色にまでしたのです。蟹工船と似たような労働環境になりつつある今、資本は「墨とべにがら」色にされた作家の著作物を出版して利益を得ようとするのです。

 資本や権力が「どんな事でもする」ことを容認するのか、あるいはしないのか。それは、今を生きる私たち一人ひとりにかかっているのではないでしょうか。資本と権力がその本性を現した今、少しでも希望のもてる社会に変えていく原動力は、搾取されている労働者、弱者、あるいは若者にこそあるはずです。果たしてインターネットはそのために賢く利用されるのでしょうか?

 一年の最後に、そんなことを考えてしまいました。

 では、みなさま良いお年をお迎えください。

2008/12/29

帯広市が環境モデル都市になる不思議

 帯広市は今年の7月に、国の補助制度を活用しながら二酸化炭素の大幅削減に取り組む環境モデル都市に選ばれたそうです。全国82都市の中からモデル都市に選ばれたのは6市町だけだそうですから、かなり狭き門だったといえるでしょう。

 環境モデル都市は、低酸素社会の実現を目指し、ライフスタイルや都市のありかたなどを根本から変える試みだといいます。

 でも、帯広市といえばつい昨年までWRC(世界ラリー選手権)を支援し、大々的に協力してきた自治体です。改造車であるラリーカーは大量のガソリンを消費して二酸化炭素を放出するのですが、排気ガスは普通車の10倍ともいわれています。そのような車が帯広を基点にして十勝の森林を3日間も走りまわる競技を大歓迎していました。

 ラリーカーは砂利道の林道を時速100キロ超の猛スピードで走るために、動物と衝突することもありますし、爆音は猛禽類などに大きなストレスを与えます。低速で走ることを前提につくられている林道は、深掘れで地盤構造が破壊されてしまうのです。絶滅危惧種が多数生息している森林で行なわれるこのようなイベントに、帯広市は助成金を出したり、公共施設を独占使用させたりしてきました。

 また、帯広市はこれまでも自然保護団体の意見に真摯に耳を傾けようとせず、森林の保全より道路建設を優先してきました。温暖化を防止するには、自然エネルギーやバイオマスの利用だけではなく、さまざまな観点から二酸化炭素の削減に取りくまねばなりません。

 二酸化炭素の削減に逆行するイベントに協力してきたことを反省したうえで、環境モデル都市に選ばれたのであるならまだわかりますが、帯広市が「ラリーの支援は誤りだった」と認めたという話しは聞いたことがありません。

 このような自治体が「環境モデル都市」などといわれても、なんだか白けてしまいます。自治体が二酸化炭素削減へのさまざまな取り組みをすることは歓迎されますが、その前に過去の反省をきっちりとすべきではないでしょうか。

2008/12/27

生態学的混播法への疑問

 北方ジャーナル10月号に掲載されていた、滝川康治氏の標津川の蛇行復元にまつわる記事「『蛇行復元&築堤』の旧態依然 開発の過ちを教訓に湿原再生を」を読み、標津川での蛇行復元事業のいきさつなどがよくわかりました。

 この記事では1952年当時の大きく蛇行している標津川の図と、ショートカットされて堤防に囲まれた2005年の標津川の図が示されていますが、ほんの50年ほどの間に驚くほど川が変えられてしまったのです。

 このような状況を嘆いた標津町の町長や地元のNGO代表の蛇行復元の提案に、開発局が飛びついたというのが事の始まりだったようです。開発建設部は試験地を設置して専門家に調査などを委ねました。そして地域住民との協議もないまま蛇行復元の計画をつくり築堤工事に結びつけたために、地域の住民から反対の声が上がったのです。

 さて、私がこの記事を読んで「ここでもか!」と思ったことがあります。それは、復元実験の写真に添えられた以下の説明です。

「復元試験地では、表土をはぎ取り、道工業大の岡村俊邦教授が開発した『生態学的混播法』による植樹を実施中。環境保全に取りくむ住民からは『根室の風土に合わない無茶なやり方』と不評だ」

 この「生態学的混播法」については、以前、JR北海道の広報誌で石狩川の河畔林の復元でも行なわれていることが書かれていました。その説明によると、河畔林からいろいろな樹種の種子を採取して苗をつくり、直径3メートルの円のなかに10種ずつ選んで植えるという方法です。違う樹種の苗を植えて競争させ、最終的に生き残ったもので河畔林を再生させるというのです。その記事を読んでとてもおかしな方法だと思いました。

 河川敷では増水によってしばしば水につかるところ、ときどきしか水につからないところ、滅多に水につからないところがあり、それぞれの場所で生育している樹種が異なります。河畔林の復元を考えるときには、こうした条件を考慮しなければなりません。ヤナギなどの先駆樹種は洪水で洗われた裸地にまっさきに入ってきて、旺盛に生長します。このような樹種では苗をつくって植える必要はありません。

 また、生育の早さや寿命も樹種によって異なっていますので、生育の早い樹と遅い樹の苗を同時に植えたなら、遅い樹は早い樹の陰になってしまい生存競争に負けるでしょう。はじめから競争に負けるとわかっているような樹種を、なぜわざわざ植えて競争させるのでしょうか?

 河畔林を復元させるのであれば、その場所の条件によって飛来する種子を利用して復元するのか、苗を植えるのか考える必要があります。また苗を植える場合は本来そこに成立していた河畔林の樹種構成を踏まえ、生長速度なども考えて植える苗の樹種を決めるべきです。地元の方たちが「根室の風土に合わない無茶な方法」として批判したのも頷けます。

 「十勝三股森づくり21」の会長である斎藤新一郎氏も、以下のように批判していました。

「森づくりにおいては、遺憾ながら、成果が出ないにも拘わらず―科学的にも無理なのに―、公的な植樹会において、採用されている怪しい手法があります。たとえば、添木付きでの成木植え―根切りが強く、不成績に終わる―があります。また、混播方式―陽樹と陰樹の区別、先駆種と後継種の区別が無い―があります」

 ところが、ネットで「生態学的混播法」と検索すると、この方法があちこちで行なわれて評価されているようです。どうやら開発局は岡村氏と組んでこの方法をあちこちの河川で展開しているようですが、疑問を抱かざるを得ません。

2008/12/26

こんな過疎地に誰がした?

 厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所が、2005年の国勢調査を基に2035年の市町村別の人口推移を発表しましたが、これを見て思わずため息が出てしまいました。北海道の過疎化は深刻です。

 思えば、私が北海道にきたのは約30年前。その時から比べると私の住む町の人口はずいぶん減りました。それと並行するように生活はどんどん不便になっていったのです。

 公共交通機関では鉄道が廃止されてバスになり、そのバスも本数がどんどん減っています。地方の人たちは車がなければ生活できません。病院や医院も減る一方で、高度な医療を受けるためには遠方まで行かねばなりません。病院通いの必要な高齢者は、近くに病院のある街に移住していきました。すると、公共交通機関を利用する人はますます減って悪循環に陥ります。小さな集落にあった商店は次々と姿を消し、小学校も統廃合が進んでいます。郵政民営化で、郵便局も減りました。

 推移予測によると、このあとの30年では減少はさらに加速します。北海道の市町村の場合、半分以下になってしまうと予測されているところすらあります。人口がどんどん減っていけば、小さな自治体では医療も福祉もさらに縮小、切り捨てざるをえないでしょう。ところが、住民の半数以上が65歳以上のいわゆる「限界集落」とされる自治体は、現在の19から132にもなるというのです。これは恐ろしいことです。

 北海道では、本州などから退職者の移住を呼び込んでいる自治体もありますが、こんな状況では高齢者の移住などとても望めません。

 そもそも北海道の場合、人口(2005年では5,627,737人)の約三分の一が札幌市に集中しているのですが、それ自体が異常といえます。ところが、30年後にはさらに過疎化に拍車がかかり一極集中が強くなると予測されています。

 人口が減少しているとはいえ、これほどまでに過疎化が進むとは、いったい誰が想像していたでしょうか? やはり、地方・医療・福祉を切り捨ててきた政策に大きな問題点があったとしかいいようがありません。

 失業者が溢れているこんな時代にこそ、政府は無駄な公共事業を廃止し、地方の活性化に力を注ぐべきでしょう。フリーターなどの若者や失業者が地方で農業などに従事できれば、食糧自給率を上げ、地方を活性化させることにつながるのではないでしょうか。

2008/12/25

調査の進まない高山のクモ

 私が北海道にきて数年たった1986年のことです。何気なく採集したオニグモを見ると、そのあたりにいるオニグモとは違います。大きさはオニグモと同じくらいなのですが、色彩や斑紋、それに生殖器も異なっていて明らかに別種です。こんなに大きなクモで、名前のわからないものがいるとは思ってもいませんでしたので、ちょっと驚きでした。

 そのクモは当時日本蜘蛛学会の会長をされていた八木沼健夫先生にお送りしたのですが、種名は明確にならないままでした。それを2001年にAraneus mayumiaeとして新種記載されたのが谷川明男さんです。大きい個体だと2センチ近くもある大型のクモが、21世紀になるまで記載されていなかったのはとても不思議なことです。

 そのマユミオニグモなのですが、これまでは北海道の大雪山系や日高山系など、山地帯からのみ記録がありました。オニグモと同じような軒先などに網を張っていることもありますが、基本的には森林帯に生息しているクモなのでしょう。こんなことから、私はてっきり北海道の山地帯だけに分布しているクモだとばかり思い込んでいたのです。

 ところが、今年の秋に昆虫の研究をされている方から送られてきたクモの標本を見て驚きました。長野県の標高2000メートルほどの森林で採集したクモの中に、マユミオニグモの雌があったのです。北海道では山地の森林帯に生息しているクモが、本州では亜高山帯の森林に生息していたのです。

 もっとも、よくよく考えてみればキタグニオニグモやヤマキレアミグモも同じような分布をしています。マユミオニグモが北海道にしかいないと思い込んでしまったことの方に問題があったのでしょう。

 でも、こんな大きなクモを今まで見つけられなかったことはやはり不思議です。成熟期が夏の終わりということもあるかもしれませんが、本州の高山帯でクモの調査をしている人がほとんどいないということもあるでしょう。これには本州の高山帯の多くが国立公園の特別保護地区などに指定されており、許可を取らなければ採集ができないという事情もあります。

 国立公園の特別保護地区での採集は、もちろん研究目的に限られます。クモの分布などの調査をしている方の多くはアマチュアですから、研究機関に属している方にくらべ採集の許可を得るにも障壁が大きいといえます。環境省は、アマチュアの方には安易に許可を出したがらないのです。

 しかも、環境省に許可を申請するためには、いつ、どこの地域でどのような採集をするのかなどといった細かいことまで書いて地図を添付しなければなりません。申請しても許可が下りるまでに1ヶ月から3ヶ月くらいかかるのです。このために高山帯での調査がどうしても敬遠されてしまうのです。

 私も申請をしたことがありますが、書類の書き方にクレームをつけられて何度も事務所に足を運ばされました。春に申請し、許可が出たのは夏になってからで、ぎりぎりセーフという状況です。また、採集した種や個体数を報告しなければならないのですが、報告書に印鑑を押していなかったという理由で返送されるなど(押印は義務付けられていない)、環境省の対応に疑問を持ちました。

 こんな具合ですから、高山帯の調査というのは避けてしまうことが多いのです。高山帯のクモはまだまだ調査不足です。おそらくこのような状況はクモに限ったことではないのでしょう。

 自然環境の保全のために保護区を設けることには異論ありませんが、柔軟性のない許認可制度は研究の進展を妨げることにもなりかねません。基礎調査はアマチュアが担っているという認識のもとに柔軟性のある対応をしてほしいですし、何より環境省自ら高山帯の生物相の解明に力を入れてほしいと思います。

 基礎調査が行なわれていないのでは、生物多様性保全といっても話しになりません。

2008/12/24

上杉隆氏の責任

 上杉隆氏の著書「ジャーナリズム崩壊」については「ジャーナリズムと客観報道」のほか、「批判と反論」「ジャーナリストと取材対象」などで取り上げました。

 「ジャーナリズムと客観報道」の中で、私は「もっとも上杉氏の意見に全面的に賛同するというわけではありませんが」と書きました。上杉氏が取り上げたことで違和感を覚えるところがいくつかあったのですが、とりわけ第三章「ジャーナリストの誇りと責任」の中で、本多勝一氏と疋田桂一郎氏を批判している部分は、私の認識とは違っていました。

 上杉氏は、ジャーナリスト自らが批判対象となったとき「目もあてられない醜態を晒すことが多い」として、本多勝一氏と疋田桂一郎氏の事例を以下のように取り上げています。

 著名な朝日新聞記者でもあった本多勝一氏や疋田桂一郎氏が、ジャーナリストの岩瀬達哉氏を訴えたことなどまさにその好例だろう(双方が訴訟)。朝日新聞の誇る両氏にとっては事実関係やジャーナリズムなどどうでもよかったに違いない。

 「売春婦よりも下等な人類最低の真の意味での卑しい職業、人間のクズ」(本多氏) このような中傷を見せつけられれば、そこにジャーナリズムの大儀はなく、単に自らの面子の問題だけでの論争なのだと改めて思う。さらに本多氏が、ジャーナリズム全体の問題だとして訴訟に打って出たことに対しても、筆者は違和感を抱かざるを得ない。

 なぜなら、自ら言論の場での論争を放棄して、司法という権力に判定を委ねることは、反権力を標榜してきた「ジャーナリスト」にとって自殺行為に他ならないと思うからだ。

 本多氏と疋田氏が言論の場での論争を放棄して岩瀬氏を訴え、司法という権力に判定を委ねたとして本多氏と疋田氏を批判しているのです。私は、疋田氏はあくまでも言論での解決を求めていたと記憶していたので、この書き方に違和感を覚えました。

 すると、12月19日の週刊金曜日で「『ジャーナリズム崩壊』に見るジャーナリスト崩壊」(貧困なる精神388)として本多勝一氏が反論していました。本多氏は、故人である疋田氏に代わって疋田夫人が上杉氏に宛てた質問状を紹介しています。それによると、岩瀬氏の記事に対して疋田氏が言論で解決すべく努力したのに埒が明かず、疋田氏が反論書を自費出版したところ、岩瀬氏は反論書が名誉毀損に当たるとして疋田氏を訴え、疋田氏は反訴したということになります。

 であれば、言論の場での論争を放棄したのは岩瀬氏の方だったということになります。上杉氏は重大な勘違いのもとに、疋田氏と本多氏を批判したことになるのではないでしょうか。注目を浴びている本で事実誤認による名誉毀損があるならば、読者に与える影響はかなり大きいはずです。著者は誠実に対応しなければならないでしょう。

 さて、本多氏の記事によると、疋田夫人は11月28日付けで上杉氏に質問状を送っているそうですが、12月15日現在、上杉氏からの回答はないそうです。上杉氏にも反論があるのかも知れませんが、少なくとも提訴についての事実関係だけははっきりさせるべきだと思います。

 上杉氏は、「ジャーナリズム崩壊」の第五章「健全なるジャーナリズムとは」の中で、過ちをきちんと認めることこそジャーナリズムとして大切だと主張していましたが、彼がこの問題にどのように対応するかが注目されます。

2008/12/22

苦悩することと信じること

 今年は、姜尚中氏の「悩む力」がずいぶん売れたようですね。私も読んでみましたが、確かに今の時代を語るのにふさわしい本なのだと感じました。

 この本では、明治時代に生きた夏目漱石と、やはり同じ時代にドイツに生まれたマックス・ウェーバーの著書を引き合いにして二人の共通点に焦点を当て、それから100年経った今の時代を見つめ、われわれはいかにあるべきかを問いかけています。著者は本書で「悩む」「苦悩」という言葉を使用していますが、「悩む=思い煩う」というよりむしろ「苦悩するほど深く考える」という意味合いのように思いました。

 この本ではマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を取り上げています。この本、はるか昔の高校生時代に私も読んだことがあります。高校の政治・経済を教えていた先生が「興奮して眠れなかった・・・」と語った本だったのです。当時の私にとってはかなり難解でしたが、自分自身の生きている資本主義社会への懐疑心を大きくした本でした。資本主義の行き着く先を見てしまったような気がしたものです。

 姜尚中氏は、この本の内容を以下のように記しています。

 「要点を言うと、修道院の中での修道士の禁欲的な生活のように、プロテスタント信者が私利私欲を離れて、規則正しく、一切の無駄なく、働く意味の詮索さえ忘れて社会の中で黙々と勤労に励み、結果として富が蓄積されても、それを教授するのではなく、ひたすら営利に再投資することでますます富が蓄積され、資本主知の大きな発展に寄与した-というものです」

 その結果、資本主義の行く末には手段を選ばぬ不公平な競争と苛烈な富の偏りを生み、20世紀の世界戦争の元凶になった「帝国主義」を生みだしたわけです。不公平な競争と富の偏りこそ、大恐慌前夜のような今のアメリカ、そして日本の姿ではないでしょうか。私たちは大変な時代に生きているのです。

 一方、夏目漱石の本は一部しか読んでいないものの、「悩む力」に出てくる漱石の本の多くは読んでいました。ですから、姜氏の言いたいことはよく分かりましたし、私にとっては興味深いものでした。姜氏は、漱石は世の中をある距離感を持って見つめ、時代の本質とそこに生きる人間の内部世界を描いているといいます。文明が進むについて、人間は救いがたく孤立していくという点で、ウェーバーと漱石は共通するところがあるというのです。

 思えば、今から30年以上前の学生時代、受験を終え、自由と時間を手にした学生たちは、青春を謳歌すると同時に多いに悩み考えていたのではないかと思うのです。思い煩う悩みというより、生き方についての苦悩です。そして友人とさまざまなことを語らっていました。しかし、先の見えない今の時代、若者は孤立し、苦悩の中身も変わってきているのではないかと思えてなりません。

 姜氏は、「自我というものは他社との『相互承認』の産物だと言っています。それで「ああ、なるほど」と思いました。人間関係が希薄化し孤立化した若者たちは「相互承認」ができず、自我が確立できないのかもしれません。これはかなり深刻な事態です。では、他者とつながりたいと思うときはどうしたらいいのか? 中途半端に悩むのをやめたり楽観的になるのではなく「まじめたれ」といいます。

 さて、この本で姜氏のいいたいのは、苦悩して精神を病んだウェーバーや漱石は、自分の知性を信じて決して譲らず、自分自身を徹底抗戦して生きてきた人たちであったということです。そして「自我」と「何を信じるか」ということに立ち向かいつづけたということなのです。今という時代に私たちが求められているのは、こうした精神ではないでしょうか。

 他者を承認することは自分を曲げることではない、自分が相手を承認し、相手も自分を承認する。そうした確信を持つことによって、心が開かれ人とつながれる・・・。

 翻って、この世の中はどうでしょうか? 人を騙し、欺くようなことが溢れています。そんな醜い世の中でも、人が「他者を認め信じると」いうことに社会を変えていく原動力があるのかもしれません。

2008/12/21

ショートカットの愚行

 20日の北海道新聞十勝版に、「相生中島の新水路着工へ」という記事が掲載されていました。十勝川の相生中島地区は河道が狭く湾曲していて洪水時に水が速やかに流れず水害を引き起こす可能性があるので、洪水時にのみショートカット(直線化)した水路に水を流すというものです。総事業費は20~30億円で、工期は3年程度とのことです。

 この計画策定にあたって、河川管理者である帯広開発建設部は新聞広告などで市民を公募し、専門家なども交えたワークショップを開いて検討を進めてきました。

 このように書くと、いかにも住民参加による治水対策かのように感じますが、実態はとてもそのようには思えないものです。以下のサイトにワークショップの報告書があります。

十勝川相生中島地区川づくりWSとりまとめ

 そもそもなぜこの地域で十勝川が蛇行しているのでしょうか? ここに掲載されている図を見ていただければわかりますが、相生中島地区の下流左岸で札内川が合流しています。流速が速く大量の礫を運ぶ札内川は、十勝川との合流点で流速を落とし、そこに大量の礫を堆積させたのです。そのために十勝川は大きく蛇行せざるをえませんでした。十勝川は札内川の合流により、自然の摂理で蛇行しているということです。

 地図を見ていただけるとわかりますが、札内川の左岸には帯広川が流れこんでいます。実は帯広川は本来、札内川ではなく十勝川に注いでいました。なぜなら、札内川は十勝川との合流によって左岸に大量の礫を運ぶので、帯広川は物理的に合流できないのです。ところが開発建設部は治水の名目で水路を掘削し、無理やり札内川に合流させてしまったのです。

 その結果どうなったでしょうか? 札内川が運ぶ礫によって合流点は河口閉塞を起こしたのです。合流点に造られた「親水公園」は「浸水公園」となって水質も悪化しました。

 十勝自然保護協会は、開建に対して帯広川を札内川につなげたのは誤りであったことを指摘し反省を求めたのですが、開建は決してその誤りを認めようとしませんでした。ここで誤りを認めてしまったなら、相生中島地区のショートカット計画にも影響してくるでしょう。ともに自然の摂理に反する治水なのですから。

 そこでどうしたかというと、「NPO法人 十勝多自然ネット」という団体が新たな迂回水路の掘削を提案しました。以下のサイトをご覧ください。

http://homepage2.nifty.com/near-nature-net/park.html

 しかし、いくら迂回水路をつくったところで、札内川による砂利の運搬が止まるわけではありません。結局、帯広川の水をスムースに流すために、砂利を除去するなどの作業を永遠にしなければならないでしょう。この多自然ネットというのは地元の建設業者などによって組織されている団体です。要するに開発建設部の取引先です。帯広開発建設部は明らかに間違った河川改修をし、その対応策として多自然ネットが自分たちの仕事づくりを提案したといえます。

 話しを本論に戻しましょう。確かに川が蛇行する部分では流速が落ちますが、それを早く下流に流そうとしてショートカットしたらどうなるでしょうか? 下流部の水位が速く上昇し、河口部などで水害が生じやすくなります。ショートカットによる治水はとっくに破綻しているのに、なおもこだわり続けているのが開発建設部なのです。自然の摂理に反したショートカットは、どこかで歪みがでてくるのではないでしょうか。

 住民参加によるワークショップが欺瞞であるというのは、このような蛇行の理由やショートカットの問題がきちんと説明・検討されたと思えないからです。ショートカットを前提に、中島地区の自然環境をどうするかということばかりに目を向けた話合いが行なわれてきたといえます。

 釧路川では自然再生を看板に掲げて直線化した河川の蛇行化をし、十勝川では逆に直線化をするというのです。私たちは、こうした国の欺瞞こそ見抜かなければならないでしょう。

2008/12/20

紅白歌合戦はニュースか?

 テレビをあまり見ないわが家では、日々のニュースソースはNHKのラジオか新聞がメインです。で、毎年この時期にうんざりとするのは、NHKのニュースで「紅白歌合戦に出場する歌手が決まった」とか、「曲目が決まった」などということが流されることです。「何でニュースで?」と思いませんか?

 そもそも紅白歌合戦というのは特定の放送局の一番組にすぎません。事件でも事故でも社会問題でもない一放送局の番組内容が、なぜニュースの時間帯に放送されなければならないのでしょうか?

 このようなことは本来、ニュース枠ではなく「番組のお知らせ」などで紹介すべきことではないでしょうか?

 だいたい視聴者は紅白歌合戦の出場歌手が、どんなことを基準にどうやって選ばれているのかもわからないのです。近年とりたててヒット曲もなく、かといって意味のある曲を歌っているとも思えないような歌手が定番のように出場して過去のヒット曲を何回も歌ったり、歌手の出場回数にこだわったりすることにも不可解さを感じざるをえません。紅白歌合戦をめぐるNHKの姿勢には、なんとも独善的なものを感じてしまいます。

 NHK はもう少し「ニュースとは何か」を自覚し、改善してほしいものです。

2008/12/19

自費出版の原点を大切に

 「本が涙でできている16の理由」(木部克彦著、彩流社)という本を読み、あらためて自費出版の原点を考えさせられました。自費出版に携わる木部さんが、本来の自費出版、つまり著者の注文によって、著者の想いがいっぱい詰まった「宝物」として本をつくることの意味や喜びを、自分自身の手がけた16冊の本づくりを通して語っています。

 この本には、先の記事「企業の利益・企業の倫理」で書いたような利益ばかりを追い求める悪質出版社や、売ることが目的の商業出版の世界とはまったく異なる自費出版の喜びが描かれています。著者の想いが詰め込まれている原稿を、編集者が寄り添って助言し二人三脚で心のこもった本に仕上げていく。「売ってどうこう・・・」などということとは無縁の出版なのです。

 思えば、こんな出版こそ本来の自費出版でした。「著者が自分で捌けるだけの部数を、本という印刷物にする」ことが自費出版の原点ともいえるでしょう。自分の書いたものを活字にし、本の形にして残すことに喜びや意味を見出すことが本来の自費出版でした。

 そもそも自費出版とは、商業出版では採算のとれない著作物や専門書などを出版する方法でした。商業ベースに乗らないと判断される本は、自費出版として出版せざるを得なかったのです。自分史や句集、歌集、詩集などは、販売しない私家本としてつくるのが当たり前でした。売る場合も、ふつうは著者が手売りをしていました。

 そのような中でMBC21などの自費出版社が、商業出版と同じように取次を通して流通ルートに乗せるサービスを付加させた自費出版をはじめました。もちろん売上金は著者に支払うという流通サービスの契約です。その場合でもアマチュアの方の本を無闇に販売ルートに乗せたわけではありません。商品となりうる原稿を選び、徹底的に編集をおこなってレベルを高めることが前提であり、あくまでも自分史などの私的な著作物は私家本が基本です。

 ところが、昨今はどうでしょう? 販売を謳った共同出版や自費出版が巷に溢れています。出版業界は自転車操業でプロの作家の本でさえそう簡単に売れないご時世に、アマチュアの方の書いた原稿をそのまま本にしたところでほとんど売れないのです。文芸社の血液型の本などは、ごく稀な例でしょう。

 今では書店流通、ネット書店、電子出版等を掲げ、販売を謳って著者の気を引こうとする共同出版社や自費出版社が溢れてしまいました。拡大する出版不況のなかで、大手の出版社も自費出版部門に力を入れるようになってきましたが、自費出版の原点を見失っているとしか思えない会社もあります。

 アマチュアの本の販売が困難であることを知りながら、出版社はなぜこれほどまで販売にこだわるのでしょうか? そこから見えるのは「著者とともに心のこもった本をつくる」ことより、利益の追求です。だからトラブルも生じるのです。共同出版のようなおかしな商法が広まり、それに追随する出版社が増えたことによって「自費出版」の原点が見えなくなり、業界の感覚が狂ってしまったとしか思えません。  木部さんも指摘していますが、一部の悪質な出版社がトラブルを多発させたことが引き金となって、自費出版が「お金を騙しとられること」だと思われてしまったら、とても残念なことです。

 木部さんも序文でこんな風に書いています。

 「大切なのは、なんのために本を出版するのかという目的意識をきちんと持つことでしょう。『生涯の宝物』を作るのか、販売が目的か。『販売』目的なら、内容が商品価値を持つかどうかを冷静に吟味しなくてはなりません。販売戦略も立てなくてはなりません。どんな商品だって同じことです」

 本当にそうだと思います。

*この記事へのコメント 「com081219.doc」をダウンロード 

2008/12/18

露になった派遣法の実態

 非正規労働者の大量解雇で、路頭に迷う人々が死と直面する状況になっています。15日に放送されたNHKスペシャルは「非正規労働者を守れるか」でした。そして、昨日のクローズアップ現代は、非正社員のうつの問題。

 自動車や電機メーカーなどの派遣社員、非正規労働者の大量解雇が大きな問題になり、行政もあわてて支援策に乗り出したようです。企業側もマスコミで問題にされ、一部の企業がようやくすぐに寮を追い出さないような対応策をとりはじめました。

 こうした報道で思い出したのは、一ヶ月ほど前にJANJANに掲載されていた以下の記事です。

http://www.news.janjan.jp/editor/0811/0811120363/1.php

 会社の寮を追い出された非正規労働者は、寝るところもなければ相談するところもなく、大勢の人が行きかう街中で行き倒れてしまうのが今のこの社会の現実なのです。とても先進国とはいえず、空恐ろしいことです。

 非正規労働者が、クビを切られ所持金がなくなったと同時に死と直面する、そんな状況はもうだいぶ前から起きていたといえるでしょう。ネットカフェ難民の問題はだいぶ前から知られていたのですから。身寄りのない人にとっては、解雇は死活問題です。

 小泉政権時代にできた派遣法の真の姿が、今回の非正規労働者の大量解雇によって露になったということです。派遣労働者が解雇されたなら路頭に迷ってしまうことくらい、分かっていたはずです。ネットカフェ難民やホームレス、貧困問題は今にはじまったことではないのに、これまで政府は何の対策もとってきませんでした。

 行政がほったらかしている中で、JANJANの記事にでてくる「もやい」のようなNPO法人が頑張っていました。その「もやい」も支援していた企業の協力が得られなくなり一時は危機的な状況に陥ったのですが、カンパで頑張っています。なんという情けない国なのでしょうか。政府と企業の横暴にほかなりません。

2008/12/17

ラリーはもういらない

 スズキは2008年から本格的にWRCに参戦していたのですが、来年からは参戦を休止することを15日に発表しました。

WRC 不況でスズキ撤退 富士重も検討中

 そして翌16日にはスバル(富士重工)も撤退を表明しました。

WRC 富士重も撤退

 三菱自動車も2006年から参戦を休止していますから、WRCへの参戦する日本の自動車メーカーはゼロになりました。

 自動車会社はWRCの経費を公表していませんが、東京新聞の以下の記事によると、どうやら40~50億円もかけていたようです。

スズキ 世界ラリー出場休止 参加わずか1年 『撤退』は否定 

 以前、あるラリーファンの方から聞いた話ですが、ラリーカーというのは一台1億円くらいするそうです。それを飛行機で世界各地に運ぶわけですし、整備や修理のためにもかなりお金がかかるはずです。いやはや・・・ですね。庶民とは金銭感覚がちがう世界で、ため息が出てしまいます。

 景気が悪化し自動車が売れなくなっている中で、さすがに無駄な経費を削減せざるを得ないというのが自動車会社の実情でしょう。しかも、ラリーなどというのは森林に生息する動物たちを脅かし、林道をズタズタにするのですから、環境にとってはマイナスでしかありません。時代の流れに逆行するイベントですし、これからはこのような競技は世界的にも縮小していくのではないでしょうか。

 ところで、来年は日本でのWRCは予定されていないようです。北海道の自然や環境のためにも、このまま日本はWRCから撤退してほしいですね。それにしても、WRCの誘致を目的に、北海道に国際ラリーを持ち込んだ毎日新聞社の責任は大きいとしかいいようがありません。

2008/12/16

加藤周一氏の最後の言葉

 14日のNHK教育放送のETV特集は「加藤周一1968年を語る」でした。

 「九条の会」のメンバーであり、一貫して戦争に反対してきた国際的知識人である加藤周一氏が、今年の夏に病をおして(恐らく最後の言葉となることを自覚して・・・)語ったメッセージは、40年前の1968年のできごとを掘り起こしながら、戦争へと向かいつつある今の時代に「私たちはどうすべきか」という問いかけでした。

 私は記憶が定かではないのですが、1968年はチェコスロバキア(当時)の民主化運動である「プラハの春」、パリの五月革命、安田講堂の封鎖など、世界中で民主化や戦争への異議を唱える人々の行動が展開された年だったのです。

 ソ連軍がプラハに侵入し圧倒的な軍事力によって市民を抑えつけるなかで、地下放送によって最後まで言葉を発し続けたアナウンサーがいました。加藤氏は、権力とそれに対峙する言葉の問題を考えつづけ、「言葉と戦争」に著したのです。日本では学生運動が活発化し、戦争に加担する大学に学生たちが抗議行動を繰り広げました。世界の各地で民主化が叫ばれ、戦争という地上最大の暴力に対する反発が表面化した40年前。

 加藤氏は、1968年の閉塞感が20世紀から21世紀に積み残されているといいます。彼が番組の最後で語っていたのは、「今なにが起こっているのかという事実確認」の重要さと「だからどうしようか」という問いかけです。1968年のできごとを見据え、人間らしさを世界の中に再生させるために私たちはどうすべきか、という問いかけです。

 先日の北海道新聞に、奥平康弘氏の「評論家・加藤周一氏をしのぶ」という一文が掲載されていました。奥平氏は加藤氏の著作「日本文学史序説」に触れ、加藤氏の以下の指摘に大きな影響を受け、自己批判の鑑にしてきたといいます。

 「日本文化は絶えず外からの影響にさらされながらも一貫して『彼岸な体系の此岸的な再解釈、体系の排他性の緩和』をおこなってきたというのである。現世の利益を後生大事にし、まあまあ主義でその場その場を切り抜けることをよしとし、原理原則を立てるのに意を用いない―そういう『特徴』の指摘である」  閉塞感が漂い戦争の陰が色濃くなる今、加藤氏はまさにこのような曖昧な態度から脱却し、権力と対峙することを私たちに訴えていたのでしょう。

 私たちは加藤周一という類い稀な知識人を失ってしまいましたが、彼が残した言葉は決して失われることはありません。彼の最後の言葉をかみしめて心に刻み、事実をしっかりと見据えて行動していくことこそ、私たちに求められているのだと思います。

 NHKはこの番組を何度でも再放送し、多くの人に見てもらうべきだと思います。

 加藤周一氏については、以下のサイトも参考にしてください。

加藤周一氏を悼む 

加藤周一氏の講演会「今、なぜ戦争か」

2008/12/15

自動車のグリーン化税制への疑問

 最近、自動車税のグリーン化というものを知りました。環境への負荷を考え、排ガスや燃費性能などで環境への負荷の小さい車の自動車税を軽減し、負荷の大きい古い車には増税するというのです。ディーゼル車では11年、ガソリン車などは13年を越えると自動車税が高くなります。環境への負荷の小さい車に買い換えることを勧めているかのようです。

 ところが、環境負荷の小さい車を買っても自動車税が軽減されるのは新車を購入してから2年間だけなのです。それに対して、古い車への増税はずっと続きます。環境対策といっても、これはちょっとおかしいと思いませんか? このことは以下のサイトでも指摘されています。

グリーン化税制導入、古い車は要注意! グリーン化税制 

 先日の記事「トヨタのテストコースは必要か?」で紹介したサイトの以下のページに、自動車の平均使用年数が出ています。

http://bio-diversity.info/ 

 スウェーデンは何と20.3年も使用するのです。アメリカでも15.5年。これに対して日本は11.6年。スウェーデンの半分程度しか使っていません。

 スウェーデンといえばボルボですね。知人でボルボに乗っていた人がいますが、やはり20年くらい乗っていました。それくらいは乗れるようにできています。今年の春にスウェーデンに行ったときに車をちらちら見ていましたが、日本車もずいぶんありました。国産車でも外車でも、スウェーデンでは一台の車を長く乗るのが当たり前なのでしょう。

 7年ほど前にサハリンに行ったのですが、サハリンは日本の中古車だらけです。ちょっとの不具合くらいでは廃車にしません。一部の窓が開かない、などという車でも平気で乗っています。日本の中古車は、まだまだ乗れるのです。日本は車まで使い捨てのようにしてきたといえるでしょう。

 新車の製造や廃車の処理に多量のコストとエネルギーを投入することを考えれば、一台の車をできるだけ長く乗ったほうが環境への負荷は少ないはずです。であれば、古い車への税金を増やすというのはおかしいとしか思えません。

 で、古い車の多い沖縄では、結果として自動車税で税金収入が増加しているのです。

自動車税収、グリーン化で1億4000万円増見込む 琉球新報 

 燃料が高騰し、物価高がつづいて庶民の生活が苦しくなる一方ですから、これからは車の買い替えも自粛する人が増えるでしょう。としたなら「グリーン化」とは、環境対策というよりも増税の制度といえるのではないでしょうか。

2008/12/14

択伐で失われる生物多様性

 少し前の北海道新聞に、「林業と生物多様性」のことが書かれていました。北大北方生物圏フィールド科学センター、雨竜研究林長の吉田俊也氏による記事です。

 冒頭で、国立公園内などの天然林を守ることは論をまたないとしていますが、これは当然ですね。

 北海道ではカラマツやトドマツなどの人工林による木材生産のほかに、天然林の択伐が広く行なわれてきました。択伐というのは、本来は、森林内の木の総量を一定に保つよう、生長量に見合った分だけを抜き伐りするというものです。このような伐り方をしていれば、森林の生態系はそれほど大きく変わらないかのように思えます。しかし、吉田氏は「生物多様性保全に効果的な森林の伐採や管理の方法は、決して木の蓄積や生長量だけから導かれるものではない」としています。健全な森には、老齢樹や倒木、枯損木なども必要なのです。

 択伐によって生物多様性が低下してしまった例として、原生林と、それに隣接した択伐林(30年前に択伐した森林)に生育している植物の種数が示されていました。北大雨龍研究林での調査データです。それによると、原生林での種数が66種であるのに対し、択伐林では36種しかなく、原生林のほうがはるかに多様性に富んでいることがわかります。とりわけ、木本の種数は原生林では択伐林の2倍にもなっています。

 広葉樹を主体とする森林と針葉樹を主体とする森林では生物多様性も違ってきますので、すべての原生林と択伐林でこのような違いがあるとはいえませんが、たとえ抜き伐りであっても生物多様性の面から見たなら生態系に大きな影響を与えているといえるでしょう。注意深く森を見ている人は、おそらくそのようなことを実感しているのではないでしょうか。知らず知らずのあいだに、以前は生息していた動植物が減ってしまったり見られなくなったり・・・というように。

 また択伐林といっても実際には生長量をはるかに超えた量を短い周期で伐採しているので、森林の蓄積量はどんどん少なくなっており、樹種構成なども変わっています。このような森林では、まずは伐採を中止してできるだけ元の森林に近い状態に戻さなければ、本来の森林のもつ生物多様性は失われる一方でしょう。

 林野庁の択伐を見ていると、生物多様性の保全などまったく頭に入っていないとしか思えません。

2008/12/12

コンビニの深夜営業は不要

 昨日のNHKクローズアップ現代は、コンビニの深夜営業についてでした。

 コンビニの深夜営業は、二酸化炭素の排出面から考えると環境への負荷が大きいという批判があります。私としてはそれ以上に、深夜に商売をしなければならない理由がわからないですねえ。

 私は近くにコンビニのない僻地に住んでいますが、それで不便なことは全くといっていいくらいありません。普通の生活をしている限り、夜中に買い物をしなければならないということはないのです。夜に店が閉まっていたなら、だれだって閉まる前に買い物をしておくはずです。24時間営業をうたい文句にしている店があり、人々がそれに慣れてしまったからこそ利用する人がいるのではないでしょうか。

 今はコンビニだけではなく、普通のスーパーも閉店時間が遅くなっています。生協の店舗でも11時まで開店しているところがありますし、札幌などでは深夜に営業しているスーパーもあります。夜型人間が増えてきたという背景があるかもしれませんが、それ以上にコンビニに対抗してスーパーマーケットまで営業時間を引き延ばすようになったとしか思えません。終バスもなくなり、多くの人が就寝するような時間まで店を営業しているなどというのは、異常としか思えません。人は夜行性動物ではないのです。

 番組でも触れられていましたが、夜間はお客さんが少ないので収支がマイナスになってしまっているのが現状でしょう。ところが加盟店は勝手に深夜営業をやめることができない契約になっているのです。また、以下に記事にあるように、コンビニには問題点が山積しています。

名ばかりオーナーからの脱却 洗脳状態のコンビニオーナー 

 NHKは深夜営業のことだけではなく、このような深い問題にまで言及してほしいですね。

 それにもう一言、深夜のテレビ放送も不要です。コンビニの深夜営業が環境に負荷を与えるというのであれば、NHKも深夜放送をやめるべきです。昼に活動して夜に寝る、これこそ環境への負荷が小さく、文化的で健全な生活ではないでしょうか。

2008/12/10

トヨタのテストコースは必要か?

 トヨタが愛知県の里山を壊してテストコースをつくるという計画があります。その里山には絶滅危惧種を含む多くの希少な動植物が生息しています。

 北海道には自動車関連のテストコースが26ヶ所もあるのですが、トヨタのテストコースも士別市に立派なものがあります。トヨタはなぜそんなにテストコースが必要なのでしょう? 以下の記事にも書かれていますが、トヨタは士別市のコースを含め、3ヶ所もテストコースを持っているのです。

盤石、大小4コース トヨタの新テストコース構想 

 この記事によると、「新車開発の中心となる本社コースは完成から半世紀が過ぎ、しかも手狭。静岡県裾野市、北海道士別市の二カ所は本社から離れており、新拠点の建設によって開発効率を高める狙いがある」とのことです。要するに開発効率を高めるために、地元の自然を破壊してでもコースを確保したいということなのでしょう。

 しかし自動車産業にとって、環境問題を避けて通ることはできません。高速走行を追い求めることは時代の流れに逆行していますし、これからは環境へ配慮した自動車の生産に力を入れていかなければならないのです。しかも、自動車産業は低迷しています。新たに自然破壊までして新たなテストコースをつくる必要性が本当にあるのでしょうか?

 トヨタは地元の自然保護団体と話合いを持ち計画の縮小を提案しているようですが、縮小したからといって自然破壊がなくなるわけではありません。こういう自然破壊によって、里山の生き物たちは生存の場を失ってきたのです。今残されている里山は、彼らの最後の砦ともいえます。生物多様性条約を締結している日本にとって、トヨタの自然破壊は恥ずべきものと言わざるを得ません。既存のテストコースの活用こそ、積極的に検討するべきではないでしょうか。

 トヨタのテストコースの問題は、以下の自然保護団体のホームページを参照してください。

21世紀の巨大開発・・・超大型自然破壊

2008/12/09

都会に集まる野鳥たち

 札幌の大通公園でミュンヘン・クリスマス市をやっています。この催しは今年で7回目とのこと。大通公園の2丁目の一角をイルミネーションで彩り、クリスマスの飾りやドイツの食べ物などの出店が並んでいます。今年は11月28日からクリスマスイブの12月24日まで開かれているそうです。先週、札幌に行ったときに大通りに用事があったため、ちょっと寄ってみました。

 あたりは薄暗くなっていたのですが、会場の公園に入ったとたんに頭上から鳥の声が降り注いできました。キュルキュルという鳴き声から、公園の木がムクドリのねぐらになっていると直感しました。暗くてよくわからないのですが、葉が落ちているはずの街路樹に葉がついているように見えます。あれが全部ムクドリ?!とすると、すごい数です。札幌近郊にこんなにたくさんのムクドリがいたとは驚きです。

 あたりはどんどん暗くなっていくのですが、公園はイベントの明かりとイルミネーション、そして集まってくるお客さんの声でとても賑やか。そしてときどきムクドリたちが「キュルキュル」と大騒ぎしているのですね。よくまあこんなところをねぐらに・・・、これでは出店が閉店するまで眠れないだろうに・・・と、他人事(他鳥事?)とはいえ気になってしまいました。

 大通公園は広いのですから、なにも明るくて騒々しいイベント会場にこだわらず、少し移動して別の木をねぐらにすればいいのにと思ってしまうのですが、ムクドリさんたちはいつも同じ2本のプラタナスをねぐらに利用しているようです。野鳥がねぐらにする木というのは、とてもこだわりがあるようなのです。

 以前、我が家の近くにカラスのねぐらがあったのですが、カラスのとまる針葉樹の枝は葉が落ちてスカスカになっていました。止まる木や枝が決まっているのです。

 ムクドリが別の木に移動しないなら、イベント会場を移動させることはできないのでしょうか? なんともムクドリには気の毒なイベントのように思えてしまいます。もっともムクドリたちはそれほど気にしていないのかも知れませんが。

 そういえば昨年東京に行ったときも、交通量が多い街中の街路樹がスズメのねぐらになっていて、夕刻時には街路樹全体がザワザワ、チュンチュンしていましたっけ。なかなか壮観でした。それに、数年前に長野県に行ったときも、とある駅前の街路樹にムクドリが鈴なりに集まっていました。スズメもムクドリも車や人の往来は全く気にならないようです。

 昨日の北海道新聞の夕刊に、札幌の都心部のカラスやムクドリのねぐらのことが記事になっていました。大通公園のムクドリは数千羽なのだそうです。もっとも、雪祭りの頃にはどこかへ移動してしまうとのこと。今の季節の風物詩でしょうか。

2008/12/08

企業の利益・企業の倫理

 「柴田晴廣氏の疑惑に迫る」の補足です。

 柴田晴廣氏は、私の主張している共同出版等の水増し請求について、企業が利益を追求する中で認められるものであると考えているようです。そこで、出版社の利益について考えてみましょう。

 まず、いわゆる制作請負契約(販売委託契約を付加する場合もある)をする自費出版の場合はどうでしょうか。

 この場合、出版社は請負業ですから著者に対する本の制作サービスの契約になります。いわゆるオーダーメイドですね。ですから、出版社のお客さんはあくまでも著者です。こういう業態での出版費用には、実際に制作に要する費用(印刷・製本費、デザイン・編集費、送料など諸経費)のほか、会社の維持管理費や営業費なども加算されています。会社のすべての経費を著者が負担するという計算になるのです。販売サービスが付加されている場合は、著者から手数料をとって取次会社に販売を依頼するということです。

 出版社が費用の内訳を提示し、本の印刷・製本費として60万円が計上されていたとしても、これはふつう原価ではありません。原価に下駄をはかせて60万円としているのです。たとえば一泊1万円の旅館で夕食の料金が4000円となっていてもそれは原価ではありませんね。それと同じです。請負契約では、これを水増し請求とはいいません。会社の利益まで含め「一式○○円」というのが請負(委託)契約、サービスの契約における費用です。この場合は基本的には「○○円で合意した」ということで、費用にクレームをつけることは難しいでしょう。

 この業態で企業が利益を大きくするためにはどうするでしょうか? 利益分を多くして著者に請求することになります。具体的には、下駄をはかせる部分を多くする、編集などのソフト面での質を落とす、印刷方法や紙質などハード面での質を落とす、下請けの印刷会社などと値引き交渉をする、社員の給料を抑えるなどでしょう。

 先の記事で、商業出版や共同出版の場合、出版社は請負業ではなく製造業だと書きました。出版社が販売目的に自社の商品として本をつくり売上金を得るという業態だからです。この場合のお客さんは紛れもなく本を買う人です。

 たとえ出版費用を著者に負担してもらうという条件をつけても、原稿募集広告や出版説明会などの営業費、賞・コンテストの経費、原稿の下読みの経費など、契約とは関係のない経費は著者からではなく本の売上金から捻出しなければならないはずです。制作費だけを著者に負担してもらうのであれば、本の販売や宣伝の費用も会社が負担しなければなりません。

 この業態で利益を追求するためには企業はどうするでしょうか? 本を多く売ること、損をしない定価をつけること、返品や余剰在庫などのリスクを抑えることです。売れる企画を考え、売れ残りを極力少なくするように部数を決め、損をしない値段設定を考えなければなりません。

 そこで売れる見込みのある本を出版することが求められます。話題性がありレベルの高いもののみを採用するということです。編集によってさらにレベルを高めることも求められます。

 出版社はふつう初版がすべて売れて経営的にトントンになるように印刷部数や定価を設定します。本の場合、印刷部数が多いほど一冊あたりの単価を安くすることができます。しかしあまり多く刷って在庫を抱えてしまうと保管や管理だけでもかなりのお金がかかってしまうのです。損失を少なくして利益を多くするには、印刷部数と定価の判断を誤らないことが非常に重要になります。

 上記のように、著者がお金を出す出版といっても、「請負業としての契約」と「製造業に著者が出資する契約」という二つの業態があるのです。そして請負業と製造業では利益を得る相手が違い、利益を最大にする方法論も異なります。文芸社などの共同出版の契約における業態は製造業ですが、柴田氏はそこに請負業の論理を持ち込んで水増し請求を正当化しようとしているのです。

 数年前までは、マスコミなどでも「自費出版」と「共同出版」を使い分けていました。ところが、最近では著者が出版費用を負担するものをすべて「自費出版」と呼ぶのが普通になってしまいました。これはなぜだと思いますか? 私が水増し請求だと主張したら、新風舎や文芸社自身が共同出版とか協力出版という呼称を使わなくなったのです。請負業と製造業を混同させ、柴田氏のような論理を主張することで水増し請求を正当化できるからではないでしょうか。

 さらに、多くの自費出版関係者がその実態から共同出版を自費出版だと主張しました。それを受けてマスコミも「自費出版」でひと括りにしてしまったのでしょう。こうして「自費出版」の名の下に、費用もリスクも負担せず利益だけが得られるという非常識な製造業が広まってしまいました。「請負業の出版」と「製造業の出版」を一緒にしてはいけないのです。

 「柴田晴廣氏の疑惑に迫る」で、私は文芸社が私を芯から怒らせることをしたと書きました。記事のコメントにも書きましたが、私の記事の削除要請です。しかも、その要請内容を許可なく公表しないように求めたのです。私には文芸社の削除要請は言論封じであり恫喝であるとしか思えませんし、許可なく公表を禁ずる行為は恫喝の口封じとしか思えないのです。また、文芸社は「共同出版・自費出版の被疑をなくす会」の質問書を無視しています。私は、この会社の倫理やモラルに大きな疑問を抱かざるを得ません。

 一方で、文芸社は著者とのトラブルゼロを目指すとして「出版契約等締結にかかる倫理綱領」を公表しています。この苦情処理指針では、「著者に不満が残らない解決を目指す」としています。私には文芸社の倫理綱領は、マスコミへのアピールとトラブルを裁判に発展させないようにするための対策ではないかと思えてしかたありません。

 悪質商法の軌道修正を求めているNGOを無視し、批判記事に対しては「法的手段をとる」と脅す一方で、悪質商法を温存し、苦情があれば法的手段を行使される前に解決するというのであれば、この会社の標榜する倫理とはまやかしでしかないでしょう。トラブルを発生させないためには、その元を断たなければならないはずです。

 文芸社と契約した方たちは、倫理綱領を利用して水増し請求や疑問点についてどんどん質問し、明快に答えてもらうべきだと思います。

*この記事へのコメント 「com081208.doc」をダウンロード 

2008/12/07

大メディアの沈黙する、高知白バイ事件

 「高知白バイ事件」をご存知でしょうか? 高知市郊外の交差点で右折の機会をうかがって停止していたスクールバスに暴走白バイが衝突し、白バイの警察官が死亡した事件です。停止しているバスに白バイが一方的に突っ込んできたのに、バスを運転していた片岡晴彦さんが有罪で実刑になってしまったという、冤罪としか思えない事件です。

 大メディアはこの問題をほとんど報道しようとしません。それが証拠に、ネットで「高知 白バイ 冤罪」などと検索すると、出てくるのは支援者のブログや市民メディアの記事ばかりなのですから。警察批判をしたくないマスコミの体質がくっきりと表われています。

 なぜそんなことになったのでしょうか。警察はバスが右側を確認せずに動いたために白バイが衝突したとして、片岡さんに落ち度があると主張したのです。その証拠としてバスのスリップ痕写真を出してきました。しかし、実際にはバスがブレーキをかけたとしてもスリップ痕がつくような状況ではなく、スリップ痕は捏造と考えられるものなのです。

 現場検証のときには関係者を現場から離してしまい、警察だけで行なわれています。これなら証拠の捏造も可能でしょう。そして、バスにぶつかったのは警察官という身内。一審判決では検察側だけの証拠を採用してスリップ痕が運転によってできたものであることを認め、二審では何の審理もせずに控訴を棄却、上告審も却下されて禁固1年4ヶ月の実刑が確定してしまったのです。

 警察官の暴走白バイによって引き起こされた事故を、警察官が証拠を捏造してバスの運転手に罪をなすりつけ、検察と裁判所が警察の肩をもつ・・・という構図が浮かび上がってきます。典型的な警察の偽造による冤罪といえるでしょう。しかも警察の誤認逮捕ではなく、意図的な罪のなすりつけです。

 警察はなぜ白バイの落ち度を認めようとしないのでしょうか? 罪のない人に濡れ衣をきせ自由と尊厳を奪うことに何の罪悪感もないのでしょうか? おそらく関わった警察官個人には罪悪感はあるのでしょう。しかし、組織のためには口をつぐんでしまう・・・。組織の中で大切なのは決して自分の良心にしたがって行動することではなく、組織と自分のために嘘をつくこと。罪のない人を裏切ること。

 この国ではそういう冷たい心を持つことが強いられ、それが当たり前のこととしてまかりとおっているのです。異常なことが常識となっているとしか思えない国です。何とおぞましいことでしょうか。

 この事件については、以下のサイトなどを読んでいただけたらと思います。

片岡晴彦さんを支援する会HP

高知白バイ事件・片岡さん監獄へ 

2008/12/06

越境伐採疑惑と林班図

 昨日は「えりもの森裁判」の口頭弁論でした。

 今回、裁判所に提出した準備書面は生物多様性に関する主張ですが、法廷で裁判長がこだわっていたことのひとつは、以下の記事にも書いた越境伐採疑惑に関わる林班の図面に関することです。

現地裁判報告(1)

 森林を管理するためには、森林の位置を定めて区分けし、その区分けごとに状況を詳しく記載した台帳が必要になります。

 森林の位置を定めているのが林班図です。森林は尾根や沢、林道などを利用して「林班」という区画に線引きされています。林班はさらに森林所有者、樹種、林齢、作業上の取り扱いが同一な部分などによって小班に細分されています。

 小班ごとに森林の状況を詳しく記載した台帳を森林簿といいます。森林簿には所在地や所有者、面積、林種、施業方法、樹種、林齢、平均樹高、伐採の方法、材積、成長量などさまざまな項目が記載されています。

 森林の伐採計画も当然のことながら森林簿をもとに立てられます。ですから、森林管理の土台となっている区画の線引きは、簡単に変えるようなものではありません。

 ところが大変不可解なことに、被告が現地裁判で出した図面の小班(伐区)の線引きは契約時の図面と異なっており、現地(伐採の実態)に即した線引きになっているのです。林班図が契約時とそれ以降で書き換えられている可能性があります。

 このために、原告は被告に対して「契約に添付されている林班図の原図」を見せるように要求しました。

 被告は、契約の対象となっている伐採に即した図面(伐採の実態に合った図面)が適正だと主張したいようです。でも契約より実態が適正などというのは、どう考えても変です。

 原告は、伐採の契約書に添付されている図面に基づいて伐採範囲が限定されなければならないという考えです。伐採計画は小班ごとに立てられるのですから、小班を越えて収穫調査を行うということにはなりません。小班を越えて収穫調査をし、それに基づいて伐採しているのであれば越境伐採であり、違法といえるでしょう。

 被告は次回までに林班図を出すことになっています。さて、どんな図面が出てくるのでしょうか。

2008/12/04

提訴しました

 提訴といっても私が提訴したわけじゃないのですが…。広島県の大規模林道(緑資源幹線林道)の賦課金に関わる住民訴訟のことです。

 私が説明するより、以下のブログを読んでください。問題点がとてもわかりやすく書かれています。

http://hosomidani.no-blog.jp/jumintohyo/2008/06/post_5d7a.html 

 大規模林道の賦課金、つまり受益者負担の計算というのはとても理解できないものなのです。ところが、不可解なことに林野庁はその計算した資料を廃棄してしまったといっているのです。林野庁の算出した賦課金の額は、本当に適正なものなのでしょうか? それを自治体が肩代わりすることは正当なのでしょうか?

 この裁判、注意深く見守りたいと思います。

2008/12/03

柴田晴廣氏の疑惑に迫る

 「柴田晴廣氏の行方」という記事のコメントに柴田氏本人が反論してきました。人というのはまったく根拠がないのに疑われてしまったのなら、確かに傷つき腹も立つでしょう。でも、私はもちろん根拠なく柴田氏を疑っているわけではありません。それどころか根拠は大有りです。柴田氏のことについては「魑魅魍魎の共同出版批判者」「共同出版のビジネスモデルは未完成?」にも書きましたが、これまでの私の体験から柴田氏の疑惑に再度迫ってみましょう。

 私は、柴田晴廣氏がこのブログにコメントをつけはじめたときから、できるかぎり誠実に対応してきました。頻繁なメールにも返事を書いてきました。でも、コメントでもメールでも、いつも肝心なところで柴田氏は私の理解できない主張をされ意見がかみ合わなくなってしまうのです。誘導尋問というのか、あるいは私を煙に巻いているというか、話題をそらすというか、とにかくまじめに相手にしているのに最後には平行線です。「正鵠を得た」などと私の見解に理解を示すかのようにして近づいてきたのに、意見交換すると私の見解はちっとも分かっておらず、とても矛盾しています。こういう方とやりとりしても時間の浪費でしかないと思いましたので、途中で相手にするのをやめました。

 その後、柴田氏からの接触はしばらく途絶えていたのですが、実は7月17日に文芸社は私を芯から怒らせることをしました。このことは文芸社の中枢部の人しか知らないでしょうね。しかも、それに対して口止めまでしたのです。もっとも私自身が口止めされたわけではないのですけれど。

 そこで書いたのが「著作者保護制度で思い出した名誉毀損裁判」(7月22日)という記事です。この記事を読んでいただければ、文芸社のしたことの見当がつくと思います。また、それに関連して「アホらしい主張」(8月17日)とか「オーマイニュースの衣替え?」(8月20日)などの記事を書いたのです。文芸社の中枢部の人には、なぜ私がこのような記事を書いたのかピンとくるはずです。これらの記事で、文芸社はかなり気分を害して苛立ったことでしょう。

 するとどうでしょう。それに呼応するように「アホらしい主張」に柴田氏がコメントをしてきたのです。まるで、苛立った文芸社の代弁者であるかのように感じました。さらにその頃、私のところには怪電話や提訴を匂わせるような怪しいメールがあったのです。そこで「不可解なメール」(8月4日)とか「怪電話 サラ金、それとも?」などという記事も書きました。ここに登場する大学のOBを名乗る藤原さんという方、秋に開くOB会のお知らせを送るから返信してくださいと念を押していたのですが、そんなものはもちろんきませんでしたよ。返信させて私の個人情報を入手しようとしたのか、出身大学の情報までつかんでいるぞという脅しなのか?

 「アホらしい主張」の柴田氏のコメント、普通ではありません。抽象的で言いたいことがわからず、まるで誘導尋問。失礼で不躾。文芸社と契約する人は後見人が必要とか何とかいいたかったそうですが、私が記事で言っていることとは直接関係ありません。疑われた途端に、私やαさんの質問には答えずに話題をそらしたり誹謗発言をしたり。とても不可解で不誠実な態度です。

 柴田氏は「柴田晴廣氏の行方」のコメントで、Mさんに水増し請求に関して説明していますが、これも何とか水増し請求のことを誤魔化そうと言い訳しているかのようです。私に主張してもダメなことが分かっているので、Mさんを惑わそうとしているように思えます。

 出版には「本の制作(販売)請負事業(いわゆる自費出版。文芸社も裁判でそう認めている)」と「本の製造(販売)事業(商業出版。共同出版の契約形態も同じ。これも文芸社は認めている)」があり、その業態によって費用の位置づけは違ってきます。請負事業であれば、会社は著者に利益を含めた費用を請求するのです。しかし、製造業における製造費とはその商品の製造に要した実費にほかなりません。ところが実際には利益を含めた過大な請求(水増し請求)をしているのです。請負契約ではないのに、請負契約である自費出版と同じ請求方法をとっているのです。私はこのことを何度となく説明し、不当な水増し請求だと主張しています。以下の記事にも書いています。文芸社はこの点について質問しても、決して答えません。答えられないのではないでしょうか。

文芸社・新風舎の盛衰と自費出版(12)次々商法の落とし穴

 柴田氏もこの業態の違いを取り上げず、「利益を追求するのが企業」だとして視点をそらし、水増し請求を正当化しようとしているのです。こうして単純なことを分かりにくくしています。文芸社に実に都合のいい主張です。「あいみつ」のことに関する柴田氏の反論も、的を射ていません。

 柴田氏は以前、新聞社が共同出版を批判しないのは広告漬けになっているからではなく、取次との関係だという到底理解できない意見を主張しました。広告に依存するマスコミが、広告を出稿している会社の批判をしないというのは常識です。話しの論点をずらし、独特な説を主張して人の考えを変えようとするのが柴田氏の特徴というか特技のように思われます。

 新風舎とほとんど変わらないことをしてきた文芸社は、なぜ新風舎のように批判されないのでしょうか? 私は、文芸社は実に巧みに批判者を取り込んだり潰したりしてきたのだと思っています。文芸社がもっとも潰したかった渡辺勝利さんは、1億円の損害賠償を求めて提訴しました。それでも渡辺さんは批判を止めませんでした。すると文芸社と癒着疑惑のもたれる尾崎浩一氏が渡辺氏に近づきました。その後、渡辺氏はリタイアメント情報センターの自費出版部会長になり、新風舎にのみ質問書を送りました。私には文芸社による批判者の取り込みのように見えます。

 さて、とうとう今は名前を出して批判している者は私しかいないのではないでしょうか? その私への対策が、柴田氏によるコントロールなのではないでしょうか。柴田氏は著作権法についての著作物を勝手に添付で送ってきて「活用してください」とか、「何でも聞いてください」といってきました。もっとも私は読んでいませんけど。なぜなら、著作権法を理解していなくても共同出版の問題点は説明できるのです。著作権法などを持ち出すと、かえって問題点がわかりにくくなるだけだということを、私は柴田氏とのやりとりで実感しました。

 この間、ピーマン頭氏(その後「反文芸社」というHNに固定したようですが)の指摘していたことがまさに正しかったのだと、私は自分の体験をもってはっきりと認識することができました。ピーマン頭などと失礼な呼び方をしてしまったことに対しては、心よりお詫びいたします。柴田氏は私を利用してピーマン氏を潰そうとしたのでしょう。ピーマン氏には問題や疑惑がありますが、柴田氏はそれをいいことに私を批判者潰しに利用したといえるでしょう。

 柴田氏は相当あせっているのか、さもなくば意識が混濁してきたのか、「柴田晴廣氏の行方」のコメントで、とうとう私を「まともな精神状態ではない」などといいはじめました。さらに「共同出版・自費出版の被害をなくす会」のサイトに新風舎からの回答が掲載されているという理由で、新風舎の協力者ではないかとの疑惑まで持ち出しました。柴田氏の発言は、意味不明と矛盾に満ちています。

 柴田氏は、著者のブログのコメントなどに書き込みをすることで文芸社に批判的な立場であるように振舞っていますが、そう振舞っていればまず関係者などと疑われないでしょう。しかし、よく読めば文芸社のやり方を決して否定していません。疑われないためのひとつの戦略として意図的に批判的論調をあちこちで展開していると考えれば、彼の発言は非常にしっくりときます。

 以上のような理由から、私は柴田晴廣氏は文芸社の関係者である可能性がきわめて高いと考えています。ただし、あくまでも状況証拠によるものですから、断定はできませんが。

 これ以上、柴田氏と議論しても時間の浪費だというのが私の結論です。

*この記事へのコメント 「com081203.doc」をダウンロード  

2008/12/02

発熱肌着は誇大広告か?

 私の入っている生活共同組合(コープ札幌)では、今頃の季節になるとミズノ(株)のブレスサーモという肌着の宣伝をしています。繊維が汗などを吸収することで発熱する「発熱肌着」です。最近こういう肌着の広告をしばしば目にしますよね。

 このブレスサーモ、とても値段が高いのです。果たして値段に見合った効果があるのだろうかとちょっと気になっていました。私の場合、こういう商品にはどうしても懐疑的になってしまいます。それに普通の衣類で重ね着すればいいと思ってしまうんですね。

 私は地元の消費者協会の会員でもあるのですが、先日送られてきた北海道消費者協会の機関紙「北のくらし」に、この「発熱肌着」の性能を調べた商品テストの結果が出ていました。それが、かなりびっくりの結果だったんです。

 ここには、吸湿発熱をうたった商品12種と比較のための参考品3種をテストした結果が示されています。上昇温度は0.9度から2.4度までで、発熱肌着と参考品との差はほとんどありません。吸湿性と吸水性も商品によって実にまちまちで、発熱肌着のほうが優れているということではないようです。ミズノのブレスサーモは上昇温度が0.9と最下位でしたが、吸水性はいちばん優れていました。ただし、吸水性と発熱性の相関はないそうです。

 テストした商品のお値段は、ミズノのブレスサーモが一番高くて4095円。一番安い商品は500円です。こうしてみると、とても値段に見合った効果があるとは思えません。買っていないとはいえ、なんだか騙されたような気分になりました。あのチラシの発熱効果の宣伝って何を根拠にしていたのでしょうか?

 この冬、我が家では室温を今までより2~3度は下げるように心がけているので、例年より重ね着をしています。足元などが寒いときは、湯たんぽも利用しています。こうした工夫でけっこう寒さがしのげるものだと実感しました。灯油の使用料も今までよりだいぶ少ないのではないかと思います。

 目先の宣伝につられて高い商品を安易に買うのは考えもののようです。

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