裁判の目的とは?
「新風舎商法を考える会」によると、昨年新風舎を提訴した原告らは破産管財人との和解に合意して、4月11日に訴えを取り下げたとのことです。新風舎が破産してしまったので、これ以上争う意味がなくなったとのこと。
さて、提訴が「社会的使命を果たした」とのことですが、本当にそうでしょうか?
この裁判とマスコミ報道について振り返ってみましょう。新風舎や文芸社の商法についてはネット上では以前から話題になっていました。また写真家の藤原新也さんがご自身のブログで取り上げたのは2006年の11月からです。藤原さんのブログはマスコミ関係者もかなり見ているようですから、これを契機にマスコミ関係者にもこの問題がかなり知れ渡ったといえるでしょう。
しかし、広告を掲載している新聞社はその後も新風舎のことについてはずっと口をつぐんでいました。同じ頃、「新風舎商法を考える会」の世話人である尾崎浩一氏は、新風舎とトラブルになっている人たちと接触し、雑誌やテレビでその事例を紹介しました。でもそれだけでは原稿募集広告を掲げている新聞にこの問題を書かせることはできません。昨年7月の提訴で原告らが記者会見を開いてアピールしたことで、新聞がようやく記事にしたのです。裁判に持ち込んで話題にでもしない限り、新聞社は取り上げようとしなかったのです。こうした動きの中で、NHKの「クローズアップ現代」までもが原告の一人を取材して取り上げました。
ただし、これまで私が書いてきたように、その争点は共同出版商法全体に共通する本質的問題点を突いていたわけではありません。販売についての虚偽説明だけを争点とし、損害賠償を求めたのです。
悪質商法を全国紙が一斉に取り上げることの影響は、計り知れないものがあります。自転車操業状態だったところを提訴されたのですから、一気に破綻に向かったといえるでしょう。もし、この提訴が新風舎ではなく別の出版社であったら、やはり大きな影響を与えていたでしょうし倒産を招いたかもしれません。
しかし、あれだけ提訴時に騒いでおきながら「和解して取り下げ」なのですから、争点とされた書店販売についての虚偽説明問題は結局うやむやになってしまったのではないでしょうか。原告の方たちが、「新風舎商法の悪質性を社会に訴えることに意義がありその目的を果たした」といっても、商法の悪質性が裁判の中で明らかにされたのではなく、提訴したという事実をアピールすることでマスコミが世間に知らしめたにすぎません。裁判では何も明らかにされなかったに等しいといえます。
提訴はマスコミに新風舎の悪質性を報道させる手段として使われ、本来の目的である疑惑解明と被害回復には結びつかなかったといえるでしょう。さらに新風舎の破産は、碧天舎と同様の被害者を生み出してしまったのです。
原告の方たちは文芸社に事業譲渡させた破産管財人と和解したとのことですが、あの譲渡劇に何も疑問を持たなかったのでしょうか? 疑惑が解明されていない文芸社に、新風舎の著者の個人情報が渡ってしまいましたが、その責任は破産管財人にあります。
新風舎がなくなったことで同社による新たな被害者を防ぐことにはなりましたが、同業他社が批判されないまま相変わらず同じようなことをやっているのであれば、著者はそちらに流れるだけでしょう。文芸社への事業譲渡に不満を抱いている著者たちも多いはずですが、「考える会」の方たちはそれについてどう考えているのでしょうか? 原告の方たちが、そのようなことに目を瞑り「社会的使命を果たした」と満足しているなら、とても不思議に感じます。
いったい何のための裁判だったのでしょうか? 「新風舎憎し」と怒っていた人にとっては、倒産させたことだけで満足なのかもしれません。しかし、その結果は共同出版問題を解決するためにプラスに働いたでしょうか? それどころか、同業他社に有利に働いたのではないでしょうか? 今いちど冷静になって考えてほしいと思います。
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