生物とは何か?
福岡伸一さんの「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)を、感慨深く読み終えました。すばらしく魅力にあふれた語り口はもとより、その深い洞察力に引き込まれながら。
エピローグに綴られた子供のころのアオスジアゲハの飼育の経験、そしてトカゲの卵の内部を覗いてしまった体験・・・。私はエピローグを読み終えたあと、すぐにプロローグを読み返しました。
昆虫少年が大学生になったときに問われた「生命とは何か?」という問いの答えを求めて分子生物学の扉をたたき、ミクロな視点からの研究に没頭した著者は、「動的平衡論」を紡ぎだすのです。
そして最後に「生命という名の動的な平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、同時に時間軸の上を一方向にたどりながら折りたたまれている。それが動的平衡の謂である」と提示します。さらに「私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、そして生命のありようをたた記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からすでにずっと自明のことだったのだ」と結んでいます。
私も子供のころから昆虫が大好きでした。アゲハチョウの幼虫を採ってきて蛹に育てては、羽化を見届けました。草むらから名前のわからない蝶の蛹を持ち帰り、そこから何が出てくるのか見守ったものです。そして昆虫の後は野鳥に夢中になっていました。
高校生のときには生態学が全盛期で、コンラート・ローレンツやニコ・ティンバーゲンなどの動物行動学がもてはやされていました。子供のころからの生物への興味は、目の前で躍動する動物そのものに向けられていたのです。学生時代には分子生物学の講義をとってはみたものの、興味を持てずにすぐに放棄。結局は野鳥やクモの世界にはまっていました。
目の前に息づく動物たちを見ていると、それが分子からできている生物であることは百も承知のうえで、ミクロな世界よりマクロな世界へと引き込まれていったものです。そして今はといえば、クモの分類やら分布に興味が移っています。まさしく種についての興味です。種とはその生物の生きている環境と、進化という世代を越えた時間軸のなかの「動的平衡」の結果として存在しているともいえましょう。
私たちがいま目にしている生物の種は、さまざまな環境の影響を受けながら、数億年の進化の歴史という時間軸のうえを一方向にたどってきたものなのです。おそらく危ういまでのバランスをとりつつ・・・。その進化の陰で、おびただしい絶滅種があったはずです。
ミクロな分子生物学から導きだした生命の「動的平衡論」が、少年の日の体験に重なっていくというエピローグに深い感銘を受けたのは、まさに生命にも種にもあい通じるものがあるからなのでしょう。
それにしても、生命とは、生物とは何と不可思議な存在なのでしょうか?
私たち人類はその不可思議な生物たちに、いま決定的なダメージを与えようとしています。何億年もの進化の歴史がもたらした動的平衡に・・・。
« 大樹海? | トップページ | 続・事実から見えてくるもの »
「生物学」カテゴリの記事
- 蛾ウオッチングの楽しみ(2022.07.25)
- 種名を知るということ(2022.06.11)
- エピジェネティクスから見えてきた貢献感と健康(2017.08.04)
- 名誉毀損になりかねない小保方晴子さんへの不当な批判(2014.08.16)
- 環境が鍵を握るエピジェネティクス(2013.03.17)
コメント