死んだ鳥と御用学者
福岡伸一さんの「生物と無生物のあいだ」の第5章の冒頭の「死んだ鳥症候群」では、日本の学問の世界に横たわる閉鎖的で封建的な大学の実態が如実に描かれています。
ちょっと引用すると、こんな具合です。
「講座制と呼ばれるこの構造の内部には前近代的な階層が温存され、教授以外はすべてが使用人だ。助手-講師-助教授と、人格を明け渡し、自らを虚しくして教授につかえ、その間、はしごを一段でも踏み外さぬことだけに汲々とする。雑巾がけ、かばん持ち。あらゆる雑役とハラスメントに耐え、耐え切った者だけがたこつぼの、一番奥に重ねられた座布団の上に座ることができる。古い大学の教授室はどこも似たような、死んだ鳥のにおいがする」
こうした大学のシステムの中で、仕事を習熟した研究者が円熟期を迎えたとき、すでに研究への情熱は消えうせ、優雅に羽ばたいていた鳥はすでに死んでいるというのです。
このような世界は、大学内部のことを知らない私にも想像に難くありません。生物関係の学会や研究者を傍目で見ていても、それはなんとなく感じられるものです。大学でのポストが上がっていくにつれ、何かずれていく感覚。研究の中身よりペーパーの数や功績に気を取られていく研究者と、そうせざるを得ないいびつなシステム。
ここには純粋な学問とはかけはなれたドロドロとした世界が広がっています。業績重視の企業などと何もかわらない思考が・・・。
若き日に、あれほど純粋な目で見ていた科学に対する探究心も、ひとたび研究者となって競争にさらされる環境に身をおくと、知らぬまに軌道からそれていくのでしょうか。もちろんそうではない研究者もいるはずです。
いま、研究者をとりまく状況は劣悪といえるかも知れません。地道な研究者は陰に追いやられ、行政や権力におもねる研究者は持ち上げられて一般の人の目には輝いて見えます。でも「そう見える」だけです。
彼らは御用学者として重宝され、浮ついていますが、その時にはすでに死んだ鳥になっているのです。でも、本人は悠々と空を羽ばたいている気分でいるのかもしれません。
あふれる御用学者が悪を善に見せかけ、事実を捻じ曲げています。魂を売り渡した腑抜けの研究者がなんと多いことか。○○審議会、○○検討会、○○委員会の常連さんたちは、瀕死状態をとおりこして死んだ鳥になってしまっていると思えてなりません。
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