インターネットとジャーナリズム
先日、書店で「サイバージャーナリズム論」(歌川令三・湯川鶴章・佐々木俊尚・森 健・スポンタ中村著、ソフトバンク新書)という本を見つけ、ちょっと興味をそそられて読んでみました。著者らによると、ネットによる社会向けの情報伝達活動を「サイバージャーナリズム」と命名することにしたそうです。今や誰もがインターネットを通じて気軽に発信をできる時代。そしてインターネット新聞やあまたあるブログは、誰でも参加できるネットによる情報伝達活動として捉えることができますが、その将来像は不透明です。
私自身もインターネット新聞の市民記者登録とブログの開設によって、ネット世界での発信をするようになってしまったのですが、数年前にはインターネットといってもメールしか利用していなかったのですから、自分でもおかしくなります。でも、よくよく考えてみれば、私がインターネット新聞JANJANの記者登録をしたきっかけは、既存の紙メディアのだらしのなさに嫌気がさしたからです。
自然保護活動をしているとしばしば新聞記者が取材に来るのですが、取材しても記事にならないことは日常茶飯事。記者は記事を書いても、デスクでボツになるのでしょう。巨額の公共事業によるとんでもない自然破壊工事や森林伐採の実態など、よほどの騒ぎにでもならない限り、新聞もテレビも見向きもしないのです。
ところが、新聞には連日「こんな記事、必要なのか?」と思えるような中身のない記事が並んでいるのです。知らせるべき問題を載せないで、どうでもいい話題をカラーで大きく取り上げたりしているのですから、これがジャーナリズムかと疑いたくもなります。
新聞やテレビが情報伝達の中心となって世論形成がされていく以上、どんなにおかしなことが行われていても報道されない限りそれを知ることはできません。インターネットがなかった時代は、権力がマスコミと結びつくことによって情報操作ができたのです。ところが、インターネットの出現によって、誰もが情報発信をすることが可能になりました。ただの市民が情報を発信していくために、インターネットほど便利なメディアはないでしょう。
個人ブロガーで市民記者でもあるスポンタ中村氏は「市民記者とは『あなたも記者になれる』とおだてられ、ネットで身辺の情報を送稿している作文好きの大衆のことだ。彼らは『客観、中立、公正、正義』などという陳腐で無内容なお題目を既存のマスコミ人に教えられ、記者ごっこをやっているに過ぎない。マスコミ出身の“お偉いさん”が運営している限り、市民参加型ジャーナリズムの成功はあり得ない」といいます。
確かに、市民記者はプロのジャーナリストではありません。単なるレポーターといえば確かにそうでしょう。しかし、紙の新聞は、そのレポートすら掲載しないのが現実です。とりわけ広告主に対する批判的記事は、まず載せません。そうなったら、市井の人が発信する場はインターネットしかないでしょう。しかもインターネット新聞の記事やブログは、リンクが張られて広まっていく可能性を秘めています。
ところで、自分自身でブログを始めてみて思うのは、ブログ情報の信頼性です。誰もが安易に発信するからこそ、そこには個人の思い込みや誤解による見解なども含まれることになります。しかも大多数が匿名のブログなのですから、信憑性についてはさらに疑問符がつくことになります。もし誤った情報や解釈が広まり、それが多数意見となってしまったらどういうことになるのか。意図的に誤った情報を流すことすら可能です。そして多数意見は正しいという判断がなされないのか?
たとえ個人のブログといえど、ネットという公の場で発信をする以上、そこには正確さと責任が伴うと考えるべきではないでしょうか。
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