良心を信じて
昨日の話題の続きです。
「9条やめるんですか?」には、北海道にゆかりのある方たちが、それぞれの立場から戦争の酷さや平和憲法の意味を熱く語っています。今はこぞって戦争反対を表明しているそれらの方の文章を読んで非常にドッキリしたのは、多くの方がかつては「お国にために命を犠牲にすること」、そして「お国のために敵を殺すこと」に何の疑問を持たず、そうあるべきだと信じこんでいたという事実です。
人というのは、ほんとうに権力者や周りの人々の言動に影響され、翻弄されてしまうのですね。沖縄の集団自決にしても、自殺すべきだと信じこまされてしまったのです。それにしても、大半の国民をこんなふうに信じ込ませたものは何だったのでしょうか? 人が人を殺戮するということがどういうことなのか、考えたことはなかったのでしょうか? なぜ、人々はそこまで「自分の頭で考える」という主体性を失い、「良心」を捨ててしまったのでしょうか? そう考えるとき、教育の力がいかに大きいかを思わずにはいられません。
戦争に負けた途端、いままで信じてきたものが崩れさってしまったのですから、人々の戸惑いと虚脱感はどんなに大きかったことでしょう。遅ればせながらそこではじめて戦争が過ちだったことを実感したはずです。平和憲法はそこから出発しています。「押し付け」だという主張もありますが、戦争を体験した人々が心から望み受け入れたのが平和憲法だったのです。
以前、「9条の会」の事務局長の小森陽一さんの講演会を聞きにいったことがあります。大きな会場は、立ち見が出るほどの人でした。なんとか座席に座り、講演に聞き入っていたのですが、途中から前の座席の2人の女性がおしゃべりを始めました。その話し声が耳障りで、講演を聴くことに集中できません。いい歳の大人が、なんと非常識なのでしょう。私はしばらく我慢していたものの、とうとう堪忍袋の緒が切れ、紙片に「私語を慎んでください」とメモして差し出しました。その時は「すみません」といって静かになったものの、しばらくしてからまた同じおしゃべりが始まったのです。あきれて物も言えませんでした。
その講演会は、教職員の労組などが主催したものだったのです。会場に溢れた人たちの中には、いわゆる「動員」で来た人も多かったのでしょう。平和を考えるための講演会に動員され、講演を聴かずにおしゃべりをし、注意されても私語を慎めない人たち・・・。彼女たちには、自分の意志で平和問題を考え行動しようという主体性が感じられず、なかば強制されて義務を果たしているとしか思えないのです。ここに動員された人たちのどれだけが、良心を大切にし、主体性のある行動をとれるのでしょうか? もし日本が再び戦時体制のようになったら、まっさきに国家に従ってしまうのではないでしょうか。そこに、この国の人々の多くに共通する病理のようなものを感じ、背筋の寒くなる思いをしました。
その病理こそ、「戦争を認めてしまう」という過ちを招くものだと思うのです。そう思う反面で、ひとびとの心のなかに必ずある「良心」こそ信じたいとも思います。
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